第10話

「本当に申し訳なかった。婚礼式直後でルナも疲れただろう? まさか、到着したばかりの姉上が一番元気だなんて想像もしていなかったよ」

「わたしなら大丈夫です。それに、母のこともいろいろ教えていただきましたし」


 そう答えたのは嘘ではない。疲れていないかと言われれば多少疲れはあるものの、それ以上に母上のことがわかってうれしい気持ちでいっぱいだった。

 王女殿下に教えていただいた母上という人は、ぼんやり覚えている母上と少し違っていた。わたしがかろうじて覚えているのは、本を読んでくれていた優しい声や表情だけだ。ところが結婚前の母上は、見た目は儚い美少女だというのに乗馬だけでなく木登りも得意だったという。屋敷で本を読むことくらいしかしないわたしにとっては想像もつかないことだ。

 それに、異国の言葉に詳しく好奇心も旺盛だったらしい。そういう人だから語学教授と呼ばれる父上と親しくなったのだろう。「見た目はそっくりだけれど、中身はあの子のほうが男の子のようね」と微笑まれた王女殿下の目尻には、ほんの少し光るものがあった。

 母上が王妃様にも王女殿下にもとても愛されていたのだということがよくわかった。そんな母上に瓜二つだと言われるのは少しだけ気が引けてしまう。恐縮するわたしに、王女殿下は「あなたがウィルの伴侶になってくれて本当によかったわ」と過分なお言葉をくださった。


(わたしのような底辺の貧乏貴族、しかも男が王太子妃なんて、本来なら眉をひそめたくなるだろうに……)


 すべては亡き母上のおかげということだろうか。亡き母上もこのことを喜んでいてくれたならと心の中で祈った。

 今回王女殿下にお目にかかった部屋は、幼いわたしが母上と一緒に訪れていた部屋だと伺った。少し見せていただいた庭に記憶はなかったものの、おそらくそこでウィラクリフ殿下とお目にかかったのだろう。


(何か一つでも思い出せれば……)


 必死に思い出そうとした。事故の後のことはいろいろ覚えているのだから、きっときっかけがあれば何か思い出せるはず。そう思ったからか、一瞬だけ男の子の顔が脳裏をよぎった。それは栗色の……いや、金色の髪をした小さな男の子だった気がする。


(殿下は栗色の髪だ。金髪ということは、もしかしてハルトウィード殿下にもお目にかかったのだろうか)


 しかしハルトウィード殿下からそのような話を伺ったことはない。ウィラクリフ殿下もおっしゃっていなかったということは、わたしの勘違いなのだろう。


(早く思い出せるといいな)


 そう願いながら隣に立つ殿下を見上げると、優しい微笑みを返してくださった。


「ありがとう、ルナ」

「いいえ、わたしのほうこそありがとうございます」


 そう答えると微笑みながら隣に腰掛ける。そうしてわたしに微笑みかけてから大きなため息をついた。


「まったく、婚礼式当日の花嫁を花婿から取り上げるのかと、わたしは気が気じゃなかったよ」


 言葉の内容にドキッとした。そうだ、今夜は結婚して初めての夜だ。いつも寝る前に本を読んでいるソファには、わたしだけでなく殿下も座っている。二人とも入浴を終えて夜着を身につけてもいた。この後、いつも一人で寝ているベッドで今夜は一緒に眠ることになる。

 ということは、当然そういうこともするに違いない。しっかり事前準備はしているものの実際にそういうことをするのだと思うと、未知の領域に踏み出す冒険家のような気持ちになった。

 ウィラクリフ殿下の婚約者候補になったときからお妃教育が再開されたものの、そこに閨のことが含まれていないと気づいたのは王太子宮に移ってからだった。そういう教育があることは、さすがのわたしでも知っている。それなのにリードベル教授からはもちろんメリアンからも何も聞くことがなかった。

 別に積極的に知りたかったわけじゃない。ただ何も知らないまま当日を迎え、殿下の手を煩わせたり不快に思われるようなことになっては大変だと思ったのだ。事前に習得できることはきちんと学んでおきたい。それなのに何も学ぶことなく当日を迎えるのは不安しかなく、なんとかできないものかと真剣に考えた。

 そこで頼ったのがキルトだった。キルトはこういう下世話なことも訊けそうな雰囲気をしている。それに王太子宮でこういう話ができる相手はキルトしか思い浮かばなかった。

 結果的に同性の伴侶を持つキルトに相談するのが正解だった。しかし当時のわたしはキルトが同性婚をしていたと知らず、訊ねてもいいのか随分と悩んだ。


(もう少し早く教えてくれていれば、あんなに悩んだり恥ずかしく思うこともなかったのに……)


 本当に散々悩んだのだ。悩みに悩み、それでも何も知らないよりはいいと思ってようやく口にできたのは婚礼式七日前というギリギリだった。


「あー、閨教育がないのは、おそらく殿下のご命令だからですね」

「え……?」

「そういうのって、半分は実地訓練みたいなものじゃないですか。エルニース様の肌を他人に触れさせるなんて、殿下がお許しになるわけないですからねー」


「そのせいで入浴のお手伝いだって俺しかいませんけど、これからもバッチリお世話させていただきますからね!」とキルトが胸を叩いている。


(そうか、閨教育とはそういうものなのか)


 具体的なことはわからないけれど、肌を見せたり触られたりするのなら恥ずかしくてできそうにもない。相手がキルトでもできるか自信がなかった。


「それに、受け身の男っていうのは事前準備も必要ですからね」

「事前準備?」

「あーなるほど、そこからご存知ないんですね。こりゃどうしたもんかなぁ」


 キルトが珍しく困った顔をしている。もしかして、とんでもなく重要な準備というのが必要なのだろうか。そうなると、それすらわからないわたしは殿下のお相手を十分にできないかもしれないということだ。……あぁ駄目だ、考えるだけで不安になってきた。


「あー、俺から殿下にちょっとお伺いしておきますね? 大丈夫です。こういうことは繊細な問題でもありますし、俺がうまいこと説明しておきますから」


 力強く笑ったキルトは殿下に何かしら説明してくれたらしく、翌日の夕方、事前準備に必要な道具だと言って見慣れない物を持ってきた。


「これは……?」

「ざっくり説明しますと、お腹の中を洗う道具ですね」

「お腹の中?」

「……もしかして、それ以前のところからご存知ない?」

「…………」

「あ! いえ、エルニース様ならご存知なくて当然だと思いますよ! うん、はい、大丈夫です、そのあたりもざっくりお教えしますんで」


 そうしてキルトから聞いた内容は、わたしが想像していたよりもずっと未知なる行為だった。そもそも男女のことすらぼんやりとしか理解していないわたしだから、男同士のことを知っているはずもない。


(実際にするのは恐ろしいけど……。せめて、事前準備だけでもできるようになっておかなければ)


 多少の恐怖心はあったものの、事前準備に向けて前向きな気持ちになったのは本当だ。しかし聞くのと実際にやるのとではあまりにも違っていて、初めて事前準備をしようとした日は最後まですることができなかった。


(まさかあんなものを差し込んだり、水とは違う液体をあのようなところに入れるなんて……)


 思い出すだけで恐怖と羞恥心が蘇って体が震えた。それでもこれを済ませなければ次に進めないのだと言われ、覚悟を決めてやり続けた。

 羞恥に震え泣きそうになるわたしに、キルトは本当に根気強く教えてくれたと思う。なんとか事前準備なるものができるようになったとき、「こういうことは本来、侍女がやるものなんですよー」と言われて、あまりのことに倒れそうになった。


(女性にこんなことの手伝いを……)


 想像しただけで全身が真っ赤になった。キルトがいてくれて本当によかったと、あのとき心の底からそう思った。


「ルナ、もしかして緊張している?」


 殿下の声にハッと我に返った。しまった、つい事前準備を始めたときのことに気を取られてしまった。今夜の入浴でいつも以上に丹念に準備をしたからだろう。思い出すだけで恥ずかしくなり、顔に熱が集まり始める。

 慌てて俯いたわたしの顔を殿下が覗き込んだ。チラッと見た殿下の緑眼は少し笑っているような雰囲気で、もしやからかわれているのかとますます恥ずかしくなる。


「殿下、」

「あぁ、意地悪で言ったんじゃない。ルナがあまりに愛らしくて、ついね」


 頬に触れた殿下の指はいつもより少し熱く、もしかして殿下も緊張しているのではと思い顔を上げる。しかしそこにあったのは緊張した殿下の顔ではなく、いままで見たことがないくらい強く光る緑眼だった。


「ようやくこの日を迎えることができた。愛しいルナ、今夜からすばらしい蜜月を過ごそう」


 殿下の声にいつもよりわずかに熱がこもっているように聞こえる。そう感じでしまったわたしの体は、どうしてか小さくふるりと震えた。

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