第9話

 婚礼式は緊張の連続だった。着慣れない礼服も、見たことがないほど大勢の視線に晒されることも、すべてが緊張に拍車をかけた。人々の歓声が聞こえるたびに本当に恐れ多い立場になるのだということを痛感させられ、最後まで薄氷の上にいるような気持ちだった。

 歴代国王への報告というもっとも重要な儀式では、緊張のあまり足元が覚束なくなりつまずきそうになることが何度もあった。そのたびに殿下が助けてくださり、なんとか無事に乗り切ることができた。その前に国王陛下にご挨拶をしたはずだけれど、緊張しすぎていたからかまったく覚えていない。

 そうして最後に待っていたのがわたしのお披露目、それに続くパーティだった。わたしにとってはパーティが一番の難題だった。

 わたしはこれまでどの社交界にも出たことがなく、行儀作法は学んだけれど無事にこなせるのか自信が持てないままでいた。リードベル教授から太鼓判をいただき、久しぶりに会った父上から「まるで社交界の花だった母上のようだよ」と言われても、うまく振る舞えるか不安で仕方ない。


「緊張しているようだね」

「殿下……」

「あぁほら、泣かないで。せっかくの化粧が落ちてしまうよ」


 朝からずっと緊張していたせいか、情けなくも涙が滲んでしまった。ほんの少し濡れた目尻を、手袋を外したウィラクリフ殿下の指が優しく拭ってくださる。


(そうだ、今日は化粧を施されていたんだった)


 今朝、化粧のことをメリアンから聞いたときは驚きのあまり声もでなかった。男でも化粧をするなんて知らなかったからだ。

 あのときキルトが「社交界じゃ男でも化粧する貴族は結構いますよ?」と教えてくれなければ、嫌がってメリアンの手を煩わせることになっていただろう。「化粧と申しましても肌を少し整える程度でございますよ」とメリアンが言ったとおり、粉を顔全体に薄く付けられただけで内心ホッとしたのは言うまでもない。


「今日のルナはいつもよりずっと美しいのだし、自信を持つといい」

「殿下、このようなときまでご冗談を、」

「おや、わたしはこれまでも冗談を言ったことはないのだけれどね」


 微笑む殿下に、手袋をした手をそっと握られる。


「うん、手袋も礼服と同じ生地にしてよかった。胸元と袖口の飾り布もよい色合いだし、靴の色もちょうどいい。やはり青みがかった光沢の生地で正解だったね」


 頭から足元までを優しい緑眼に見つめられ、とくんと胸が高鳴る。礼服を仕立てるときはどうなることかと思ったけれど、殿下のおっしゃるとおりにしてよかったと心から思った。

 最終的に十二着仕立てられた中から婚礼式用に選ばれたのは、光が当たるとわずかに青みがかった白色になる光沢のある礼服だった。胸元や袖口、裾には青銀の糸で織られた飾り布があしらわれ、靴には淡くほのかに青色に見える異国の白い革が使われている。

 この礼服が完成したのは昨夜のことだった。仮縫い後、何度も試着した状態を殿下自らが確認し、毎回どこかしらに手直しが入った。それを何度もくり返す様子に、婚礼用の礼服とはなんと手間暇をかけるものだろうかと気が遠くなったくらいだ。

 その甲斐もあって着心地はとてもよく、体が締めつけられて苦しくなることもない。礼服と同じように一から作った靴のおかげで、立ち続けている足が痛くなることもなかった。

 すべてウィラクリフ殿下が気遣ってくださったからだ。本当に優しい方だとうれしくなるのと同時に、心がポッと温かくなる。

 一方の殿下は、王族が重要な式典のときに身につけるという礼服をお召しになっていた。深い緑と優しい白からなるその服は、胸元や裾に黄金の刺繍が施されているのがなんとも華やかで美しい。

 腰には刀剣を提げているけれど、これは国のために戦い国民を守る決意を示すために王族男子が携える儀礼刀だと教わった。その証拠に刃の鋭さは関係なく、真っ白な鞘には黄金で模様が描かれ、所々に美しく光る宝石が散りばめられている。

 胸元には王太子の証である大きな真紅の宝石が光っていた。それと対をなすように作られた深い蒼色の宝石は、恐れ多くもわたしの胸元を飾っている。


(殿下はとても美しくていらっしゃる……と思う)


 これまで男性の美醜について思いを巡らすことなどなかった。けれど目の前の殿下は紛れもない美丈夫で、男としての美しさと力強さに満ち溢れているように思う。


(わたしは、そんな殿下の伴侶になったんだ)


 そう考えるだけでいつもより鼓動が早くなった。気がつけば、またもや殿下に見惚れている有り様に恥ずかしくなる。


(お慕いしている方、なのだし……こういうことは、普通、だよな)


 婚約式を終え王太子宮に住むようになってから、わたしの気持ちは明らかに変わった。以前は学友や兄に抱くような親愛に近い思いを殿下に抱いていたけれど、いま感じているのは紛れもなくお慕いする気持ちだ。自分にもそんな感情があったのだと、はじめのうちは戸惑い驚いた。


(それに毎日のように思いを伝えられたら、わたしでなくとも絆されるというか)


 すでに“絆される”という程度ではないのだけれど、照れくさくて言い訳のようなことを思ってしまう。そんなわたしの気持ちに、殿下がお気づきにならないはずがない。いまもわたしの気持ちを察しているかのような笑顔を浮かべていらっしゃる。


「そんなに熱い眼差しで見つめられると、このあとのお披露目なんて無視してしまおうかと思ってしまうよ」

「それは、さすがに許されないのでは」

「ふふ、ルナは真面目でいい子だね。うん、涙も止まったようでよかった。大丈夫、ルナは随分と努力してきた。わたしの伴侶として申し分ない」

「そうだといいのですが……。わたしは社交界に行ったことがありません。作法は習いましたが、実際にどうなるか……」


 考え始めると、また不安になってきた。今回のお披露目は国内外の貴族や王族が集まる盛大なもので、初めての社交の場がそんな大きなものだと考えるだけで足がすくみそうになる。


「大丈夫だよ。きみの美しさを前にしたら誰もが我を忘れてしまうだろうからね。それでも心配だというなら……。ルナ、きみはいま何を読んでいる?」

「え? あの、本のことですか?」

「そう、いまはどんな本を読んでいるのかな?」

「ええと、北の国で書かれたという不思議な生き物たちの物語、ですけど……」

「ふむ」


 口元に手を当てながら、殿下が思案するような顔になる。


「それなら、こういうのはどうだろう。たとえば緊張してどうしようもなくなったら、自分はその物語の中にいるのだと思えばいい。誰かに話しかけられたら、物語の登場人物を前にしていると思って微笑んでいればいい」

「微笑み、ですか?」


 まったく自慢にならないことだけれど、わたしは誰かに微笑みかけるという行為が苦手だった。笑顔で誰かと会話することもなかったから、殿下のように微笑みながら話をするということもできないままでいる。そんなわたしにキルトは「無理に笑わなくても、唇の端を少し上げるだけで十分ですけどねー」と言ってくれた。しかし、それで微笑みになるのかすらわからない。


「無理に笑う必要はないよ。そうだね、目の前の人物が物語に出てくる不思議な生き物だったらと想像してごらん。きみが本の話をしているときの微笑みは見惚れるくらいのものだから、十分に効果はあるはずだ」


 本を前にしたときに表情が柔らかくなることは、父上や執事のジルバートンによく言われていたから自覚はある。しかし、それで本当に微笑むことができるだろうか。自分がどんな顔をして本を読んでいるのかわからないからか、やっぱり心配になる。


「本当にそれで大丈夫でしょうか?」

「大丈夫、わたしが保証する。それともわたしの言葉は信じられない?」

「そんなことは絶対にありません!」


 わたしにとって殿下の言葉は誰よりも信じられるものだ。殿下はいつもわたしを思い、わたしのためにと心を砕いてくださるのだから絶対に嘘はおっしゃらない。


「じゃあ大丈夫だ。さぁ、行こうか」

「はい、殿下」


 わたしの指先を優しく握ってくださる殿下にいざなわれ、一歩を踏み出す。まるでどこぞのご令嬢のように扱われることに気恥ずかしくなりながら、それでも真っ直ぐに前を向いた。


(こういうふうに扱われるのは恥ずかしいけれど)


 そう思っているのに、殿下に大切に扱われることを嬉しいと感じている自分がたしかにいた。


 お披露目は国王陛下のお言葉から始まり、次いでウィラクリフ殿下がお話になられた。その間わたしはただ傍らでじっとし、促されるままにお辞儀をするだけで終了した。

 その後は多少の無礼講も許されるパーティへと移った。王族方も上段から下りられ、貴族の方々と会話を楽しんでいらっしゃる。

 そんなふうに、はじめは周囲の状況がわかる程度の緊張だった。おそらく隣に殿下がいらっしゃったからだろう。ところが殿下の周りはあっという間に他国の王侯貴族の方々で埋め尽くされてしまい、いまは少し離れた場所で歓談の真っ最中だ。わたしは邪魔にならないようにと思い、壁際に移動しようとした……はずだったのに、気がつけば周りを国内の貴族たちに取り囲まれている。そこからは代わる代わる挨拶をされ、目を回しながらも必死に頷いき続けている状態だ。


(ええと、いまのが子爵家で……こちらが……)


 覚えることが苦手でないとはいえ、人の顔となると話は別だ。元々人と接する機会が少なかったせいか、入れ替わり立ち替わりでは誰が誰だかわからなくなってしまう。しかも全員が似たような礼服姿だから服装で判別することも難しい。


(せめて殿下の伴侶として振る舞わなくては……みっともないことにならないようにしなくては……)


 いまの自分にできることは、そのくらいしかなかった。疲れた顔をしないように、不快に思われないようにと何度も言い聞かせる。それでも緊張してしまうせいか、頬が引きつっているのが自分でもわかった。


 ――目の前の人物が物語に出てくる不思議な生き物だったらと想像してごらん。


 不意に殿下の言葉を思い出した。


(殿下がおっしゃったとおりにしてみよう。それで少しでも緊張が和らげば……)


 先ほどから熱心に話しかけてくる男性を見た。淡い金髪はきっちりと後ろに撫でつけられ、縁のない眼鏡をかけている。見た目ははリードベル教授に似ていなくもないけれど、教授というよりも勉学に励む学生のような雰囲気だ。


(なんとなく知恵の神の御用使いの梟の精……に、見えなくもないかな)


 あの子は真面目で一生懸命だけれど、必死になりすぎて相手を少し困らせてしまう。物語に出てくる様子を思い浮かべながら男性を見ると、まるで本当に物語の登場人物のように思えてきた。「あぁ、やっぱり梟の精みたいだ」と思った途端に緊張が和らぐ。

 次に、大きな体を窮屈そうに礼服に収めている隣の人を見た。


(森の番人である熊と狼の子が、こんな感じだったかな)


 そう考えたからか、思わずクスッと笑みがこぼれてしまった。さらに奥に視線を向けると、やけにお腹が出ている人が目に入った。


(あの人は、食いしん坊のかまどの精に似ているな)


 あっちの人は、あぁ、向こうの人も、あの人は誰に似ているだろうか。そんなことを考えているうちに、周囲がしんと静まりかえっていることに気がついた。よく見れば皆、口をぽかんと開け、中には目を見開いている人もいる。そうして誰一人わたしに話しかけようとしている人はいない。


(しまった。何かしでかしたに違いない)


 サァッと血の気が引いたような気がした。いくら殿下がおっしゃったとおりにしたとはいえ、それは緊張をほぐし微笑みを浮かべるための手段だったはず。それなのにわたしは微笑むことも忘れ、まるで本を読んでいるときのように熱心に空想に耽ってしまっていた。自分がどんな顔をしていたかなんてわかるはずもなく、これでは本末転倒もはなはだしい。


(初日から、なんという失態を……)


 やはり、わたしのような男が王太子妃になるなんて無茶だったのだ。


(どうしたらいいんだろう)


 混乱したわたしはリードベル教授の教えもすっかり忘れ、ただ右往左往するばかりだった。背中には嫌な汗が流れ、それがますますわたしを焦らせる。頭が真っ白になり、どうすることもできずに立ち尽くしていたとき、聞き覚えのある声がした。


「妃殿下はお疲れのようだ」


 殿下の声に少し似ているけれど別人の声だ。殿下のほうがもう少し低くてビロードのような艶がある。声を聞くだけでホッとする、わたしの好きな声――それによく似た声。

 振り返るとハルトウィード殿下のお姿があった。


「初めてお目にかかる王太子妃に挨拶をしたい気持ちはわかるが、そう急く必要もないだろう。それよりも王太子妃を疲れさせたとなっては兄上に睨まれかねないぞ。なんといっても、兄上が掌中の珠のように大切にしている方だからな」


 ハルトウィード殿下の声にハッと目が覚めたような顔をした貴族たちは、慌てふためいたように次々と挨拶をして去って行った。どうしたのだろうかと彼らの後ろ姿を見送っている、「やはり……」という声が聞こえてくる。


「ありがとうございました」


 慌ててハルトウィード殿下のほうに向き頭を下げた。


「いや、あまりの人集ひとだかりに、まるで見せ物のようだと不快に思っただけだ。ま、我が妃のときのほうが酷かったがな」


 ハルトウィード殿下とベアータ様の婚礼式は、ベアータ様が懐妊されていることもあって内々で行われたと聞いている。顔を見せないほうがいいだろうと考えたわたしは、まだ婚約者という立場だったこともあり婚礼式には出席しなかった。

 後でキルトから聞いた話では、およそ王族の婚礼式とは思えないほど小規模だったそうだ。それでも第二王子の婚礼式なのだから、国内の主要な貴族や王族は出席したはずだ。そこで何があったのかは、なんとなくだが想像できる。


「きっとわたしのような男が王太子殿下の最初の妃だというのが、もの珍しかったのだと思います」

「多少はそれもあるかもしれないが、どちらかといえば近くで見たいという下心のほうが大きかったと思うがな。あわよくばお近づきになりたいなどと思ったのだろう」

「お近づき、ですか?」

「婚礼式の前にきみを見た者たちが、それはもう興奮しながらあちこちで噂をばらまいていたと聞いている。それを半信半疑で聞いた者たちが興味津々でお披露目を待っていれば、噂以上に美しい妃殿下が現れたのだ。男共は皆釘付けになっただろう」

「さすがにそのようなことは……」


 釘付けということはないだろう。それに、美辞麗句というのは社交界ではよくあることだ。おろらくわたしが“王太子妃”という立場だから、誰かが過剰に表現したに違いない。


「そのようなことはないと存じます」


 不敬かと思いつつも、顔を見ながらしっかりと否定の言葉を口にした。すると、どうしてか殿下が驚いたような顔をされる。


(そういえば、ハルトウィード殿下の顔をしっかり拝見するのはこれが初めてかもしれない)


 元婚約者としては最低だなと思いながらも、どことなくウィラクリフ殿下に似ていらっしゃることに気がついた。


(髪の色は違うけれど、目は似ていらっしゃるかもしれない)


 目の形は似ていらっしゃるものの、ウィラクリフ殿下のほうがもう少し優しい雰囲気だ。それに新緑の若葉のような瑞々しい色合いのような気がする。そう考えるとハルトウィード殿下とはまったく違う。


(それにハルトウィード殿下を見ても何とも思わない)


 けれど、ウィラクリフ殿下に見つめられるとなぜか頭がぼぅっとしてしまった。そのせいで、不敬だとわかっているのにいつまでも見つめてしまう。それを殿下は叱るでもなく、逆に「愛らしいね」と微笑みながら……そこまで思い出しハッとした。


(しまった)


 途中からウィラクリフ殿下のことを思い出していたせいで、不躾にもハルトウィード殿下を見つめてしまっていたことに気がついた。王族に不躾な視線を向けるなど、絶対にやってはならないことだ。ウィラクリフ殿下はこうしたわたしの不敬も笑って許してくださるけれど、いくら元婚約者とはいえハルトウィード殿下は不快に思われたはず。

 慌てて視線を外し、もう一度頭を下げて立ち去ろうとしたときだった。


「やはり変わったな」

「え……?」


 声をかけられ、再び視線を上げる。


「婚礼式の間中、以前のきみとは違うように感じていた。どうやらそう感じたのは気のせいじゃなかったらしい。以前のように涼やかな声には隔たりを感じないし、こうしてしっかりとわたしを見てもくれる。雰囲気が違うせいか別人に感じるほどだ」

「そう、でしょうか」

「たしかに以前から飛び抜けて美しいとは思っていたが、あまり人間らしく感じなかった。強いて言うなら神の造形物といった感じだっただろうか」


 殿下の表現に、やはりわたしはつまらない人間だったのだなと改めて思った。だから見た目だけが記憶に残るのだろう。


「しかし、いまは血が通った美しさというか……」

「殿下?」


 ハルトウィード殿下がじっとわたしを見つめている。こんなふうに見られたのは初めてだった。婚約者だったときにも経験がない殿下の様子と視線に、肌がざわりと粟立つ。


「どうかなさいましたか……?」


 声をおかけしたけれど返事はない。代わりにすうっと手が伸びてきて、わたしの頬へと指が近づき――。


「ハルト、何をしている?」


 背後から聞こえてきたウィラクリフ殿下の声に、わたしの体はすぐさま反応し振り返った。そこには思ったとおり微笑みを浮かべた殿下の姿があった。


「ルナ、一人にしてすまなかったね。大丈夫だったかい?」

「はい、殿下に教えていただいた方法で、なんとか……。それにハルトウィード殿下にも助けていただきました」

「あぁ、そうだったのか。ハルト、わたしからも礼を言うよ。わたしの大切な伴侶を助けてくれてありがとう」

「あぁ、いや、」


 ハルトウィード殿下微笑みかけたウィラクリフ殿下が、わたしの手を取って「疲れていないかい?」と声をかけてくださる。それだけで心臓がとくんと鳴り、頬に熱が集まるようだった。

 そんなわたしの状態など当然ご存知であろうウィラクリフ殿下は「ふふ」と笑い、「そういえば」とハルトウィード殿下へ視線を向ける。


「ベアータ殿は休まれているのかな?」

「あぁ、体のこともあるから今夜は欠席させてもらった」

「それがいいだろう。こういう場は何かと気を遣うからね。身重ならばますます大変だ。ふむ、ハルトもようやく相手を慮ることができるようになったか」

「兄上、」

「恥ずかしがることはない。人として、王族としては大切なことだ。わたしはハルトが大人になったことがうれしいんだよ」


 喜んでいらっしゃるウィラクリフ殿下に対し、ハルトウィード殿下は少し困ったような顔をされている。


「いつまでも子ども扱いしないでくれ。わたしだってもう十八、成人しているんだ」

「そうだった。どうも年の離れた弟という感覚が抜けなくてね。そうだな、わたしより先に妃を迎えたのだし、そういう意味ではもう立派な大人になったということか」

「なんだか嫌味に聞こえる」

「そんなことはないよ。おまえはいつまでもわたしの大事な弟だ。ベアータ殿と好いて結ばれたことも心からよかったと安堵もしている。それにね……」


 にこりと微笑まれたウィラクリフ殿下がわたしの手を離し、ハルトウィード殿下の肩に手を載せて顔を寄せた。


「おまえが思ったとおりの弟に育ってくれて、本当にうれしいんだよ」


 まるで父親のような殿下の言葉に、年の離れた兄弟というのはこういう感じなのだろうかと思った。


(きっと小さいときからハルトウィード殿下のお世話をされてきたんだろうな)


 だから、わたしに対しても気遣いなどが細やかでいらっしゃるのかもしれない。わたしには兄弟がいないからわからないけれど、もしウィラクリフ殿下のような兄がいたら、きっと誇らしく思っただろう。そう思いながらハルトウィード殿下に目を向けると、どうしてか少し眉を寄せて難しい顔をしていらっしゃる。


「ルナ、あと少し付き合ってもらえるかな?」


 不思議な表情をされているハルトウィード殿下が気になったものの、ウィラクリフ殿下に声をかけられ視線を向けた。


「はい、なんでしょう」

「じつは姉上が戻られていてね。ルナに会いたいとごねていらっしゃるんだ」

「え……?」

「夫である王太子殿下が駄目だと言うのをはねつけて、先ほど到着されたのだよ。子どもが生まれたばかりだというのに、ご自分の体よりもルナに会うことを選ぶなんて困った姉上だ」

「あの、母が話し相手を務めていた王女殿下が、わたしに会いたいとおっしゃっているのですか?」

「そう、その王女殿下だ。きっとお母上の話もしたいのだろう。申し訳ないけれど、姉上の我が儘に付き合ってもらえるかな?」

「そんな、我が儘など恐れ多いことです」


 以前は母上のことを考えるだけで胸がツキンと痛んだ。しかしいまでは、どんな人だったのか知りたいという思いのほうが強い。

 本当なら父上に聞くのがよいのだろうけれど、いまだに心に傷を負ったままの父上に尋ねることはできなかった。もし王女殿下に直接お目にかかれるのなら、いろいろなことをお伺いしたかった。


(それに母上のことを思い出せれば、ほかも思い出せるかもしれない)


 もしかすると、ウィラクリフ殿下に初めてお目にかかったときのことを思い出せるかもしれない。それ以上に結婚を申し込んでくださったという十二歳の殿下のことを思い出したいと思った。以前はあれほど事故に関わるすべてのことを思い出したくないと思っていたのに、そんな気持ちはどこかへ消えてしまっていた。

 わずかに興奮しつつウィラクリフ殿下のあとをついていくわたしをハルトウィード殿下が複雑な眼差しで見ていたことなど、当然知るよしもなかった。

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