世界から歌声が消えても

植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売

世界から歌声が消えても

 どこぞの国の識者が言った。

 音楽は人の精神に大きな影響を与えることが発覚したのだと。

 音楽のヒーリング効果については、昔からよく言われていた。だけれどこれは、癒しに限らず怒りや悲しみ、極端にいえば突発的な殺人衝動にも繋がるという。

 そして同じ識者はこう続けた。

 近年の犯罪の殆どが、音楽を発露として精神のバランス崩壊に起因すると。

 この世界から音楽が停止すれば、人間の情緒は安定し、無用な犯罪は大幅に減少するのだと――。


「えっ、藤村って転校したの?」

「そう。俺もさっき知った。急な引っ越しだって」

 部室でノートに五線譜を引いていた健一が、徐ろに話す。俺は作詞の手を止め、眉を顰めた。

「それ何人目だよ。『急な引っ越し』で転校した奴、今月入ってから多くねえか」

「そうだよな。変だとは思うけど、先生はそうとしか言わないし……」

 健一は眉間を抓り、天井を見上げた。

「なんであれ、ドラムの藤村がいなくなって、軽音部の部員は俺と響だけになった」

 楽器のない音楽室。すっからかんの室内で、健一がぽつっと言った。

「なんて、軽音部はとっくに廃部になってんだよな。俺たちが勝手に名乗ってるだけで、実際は無所属扱いなんだし」

 彼は自嘲的に目を伏せる。

 歌を歌えず演奏もできず、こうして楽譜を書いて読んで、想像するだけ。自称「軽音部」の、帰宅部。健一がため息をつく。

「なあ響。さっき学年主任から注意されたよ。早く別の部活に移らないと、退学処分だって」

「くそ! なにが退学だよ」

 俺は歌詞を書き連ねたルーズリーフを、机に叩きつけた。

「なんで歌う自由が奪われなくちゃならねえんだよ!」


『国際音楽禁止法』

 歌唱・演奏及びそれらを配信したる者、また、それらを鑑賞したる者は、無期もしくは三年以上の懲役に処す。

 要するに、歌ったり楽器を演奏したり、聴いたりすると逮捕されるという法律だ。音楽は犯罪に結び付けられ、鼻歌すら禁じられている。

 これは国際的な取り決めであり、日本でも例外なく適用される。


 こんなふざけた法律が運用されはじめたのは、俺、こと鈴本響が高二の夏休み前のことだった。

 テレビから歌番組が消えた。街から楽器店やCDショップ、カラオケが消えた。学校から音楽の授業が消え、保育園や幼稚園でもお歌のお遊戯は消えた。音楽配信サイト、動画サイト、楽曲を流せるスマートフォンアプリ……全てが摘発対象となった。ミュージシャンの仕事は過去の話をするタレントに変わり、それもアンダーグラウンドな文化のようにひっそりと語られる。

 世界が大きく変わる中、俺たちのような高校生の狭い世界も、当然塗り替えられた。家にあったCDやDVD、好きなアーティストの楽譜、おもちゃのオルゴールまで奪われた。

 我が軽音部においても、楽器は全て国に没収されている。今や先生にバレないように、ノートにこっそり楽譜や歌詞カードを書いて、頭の中で再生するくらいしか活動できない有様である。これも人に見つかったらどうなることか。

 部員は次々に辞めていき、ボーカル兼ギターの俺と、キーボードの健一しか残っていない。この肩書きも、今ではなんの意味もなさないのだが。

 俺は今日もルーズリーフに歌詞を書いているが、軽音部の活動がこれだけでいいはずがない。

「音楽が犯罪を引き起こしてるなんて、そんなめちゃくちゃな理屈あるかよ。実際、音楽が止められても犯罪はなくなってない」

「むしろあちこちで暴動が起きてたもんな」

 健一が言うとおり、この法律は違憲との声があとを絶たない。日本に限らず、世界各地で反政府デモが行われている。音楽を愛する者たちは、生活に音楽を取り戻そうと足掻いているのだ。

 しかしその活動も、最初の頃に比べ今ではだいぶ落ち着いてきている。アメリカで行われた大規模なデモで、歌を歌った人々が全員逮捕された事案がきっかけだ。逮捕されても屈せず歌っていた者たちは、声帯を潰されたのである。

 多分あれは、見せしめだったのだと思う。

 声を奪われては、歌うどころか異議を唱えることすらできない。人々は怯み、すっかり大人しくなってしまった。

「健一だって許せないよな。お前ん家の母ちゃんの具合、良くならないんだろ」

「うん……それと法律は関係ないと思うけど。一昨日からずっと寝込んでる」

 健一が下を向く。

 彼の母親は、例の法律が始まってから体調を悪くした。健一は法律とは関係ないと言うが、俺はあると思っている。

 ピアニストだった健一の父親は、健一が生まれる前に亡くなっている。健一の母親は、夫のピアノを録音したCDを聴くのが日課だったそうだ。しかしそのCDも、政府に奪われている。

 健一の母親だけではない。法律が施行されて以降、原因不明の病気になった人は世界各地に現れていた。一部では死者も出ている。

 俺が音楽を始めたのは、健一から両親の馴れ初めエピソードを聞いたのがきっかけだった。音楽をやればモテると、短絡的に考えたのである。

 それでギターを始め、ノリで健一を誘い、他の友人も集め、軽音部を作った。ようやく楽譜を読み書きできるようになり、楽器に慣れてきて、音楽が形になってきた頃、例の法律が施行されたのである。

「もしかして、学校の奴らが『急な引っ越し』でいなくなるのも、この法律が関係してるんじゃないのか。上手く言えないけど、政府の陰謀に違いない」

 俺が言うと、健一が苦笑した。

「それは暴論すぎない? 病気も引っ越しも、法律とは結びつかないよ。まあ、この法律に腹が立って、なんでもこれのせいにしたくなる気持ちは分からないこともないけど」

 法律施行以来、イライラしている俺を健一が宥めるのが日常の光景となっている。

「音楽と犯罪には全く因果関係がないと証明されれば、こんな法律すぐになくなるよ」

「いったいいつまでかかるんだ。健一の母ちゃん、それまで頑張れるのか? 親父さんの形見のCDは処分されてるだろうし!」

 健一に八つ当たりしても仕方ないのだが、つい声を荒らげてしまう。

「てか、俺は今歌いたいんだよ。ギターをかき鳴らしたいんだよ!」

「分かるけどさあ。あんまりそういうこと言ってると、誰かに通報されて補導されるぞ」

 と、そこへ、部室の戸がガララッと開け放たれた。一瞬、心臓がギュッとする。マジで警察が来たかと思って振り向くと、そこには黒髪をボブカットにした女子生徒が立っていた。

「その意気だ響。こんな法律に屈してはいけない!」

律歌りつか!」

「音楽が消えて犯罪がなくなるわけがない。むしろ音楽が、世界を平和に導くの!」

 律歌は戸をきっちり閉めると、俺の横に座った。

「響、歌って! あなたの歌が世界を変えるの!」

 律歌はクラスメイト兼、初めて俺についたファンである。

 国際音楽禁止法が始まる前、軽音部は文化祭で初めてステージに立った。その日から彼女は俺を気に入っており、度々部室に訪れては練習に耳を傾けている。

 彼女はもともと、音楽が好きな女の子だった。休み時間は耳にイヤホンを入れ、窓際の席で微睡むように、目を閉じて音楽を聴いていた。その心地よさそうな横顔は、イヤホンを国に回収された今でも時々思い出す。

 法律が始まって演奏が封じられてからも、律歌はこうしてしょっちゅう部室に現れている。

 彼女が入ってくると、健一がちょっと気まずそうに苦笑した。

「出たな律歌ちゃん。俺、お邪魔ですか?」

「うん、邪魔」

 律歌は遠慮なく言い切った。健一がふっと笑う。

「はいはい、退散しますよ。軽音部の部室なんだから、部外者は律歌ちゃんの方なんだけどな。どうせ活動できないからいっか」

 健一は楽譜を書いたノートを鞄に突っ込み、宣言どおり部室を出ていった。

 健一に気を遣わせるのは、追い出すようで心が痛む。でも律歌とこの場所でふたりきりになれるのは、俺としてもありがたかった。

 律歌が不敵に微笑む。

「ふふっ。これで響をひとり占め」

 律歌は俺のファンであり、恋人である。

 そう、バンドを始めればモテると思った俺の意図は見事に叶い、こんなかわいい彼女のハートを射止めたのである。

 といっても、まだやっと手を繋いだくらいの関係で、先のステップには進めていない。だがもう付き合いはじめて一ヶ月経つし、次に進んでもいいような気がしている。

 詰め寄ってくる律歌の吐息に、胸がドキドキする。

 今となっては日陰者である軽音部の部室に、人は殆ど寄り付かない。健一も出ていった。部室の中だけが世界から切り離されて、俺と律歌ふたりだけになったような、妙な錯覚に陥っていく。思わず、律歌の頬に手を伸ばす。彼女の薄い唇を、奪いたくなる。衝動が理性にまさってしまう。

 しかしその前に、律歌が俺の口元に人差し指を当てた。

「だめ」

 俺はそのままがくっと項垂れた。

「なんで……! 俺たち付き合ってるんだろ!?」

 どういうわけか律歌は、こうして俺を拒む。次の段階に進めない理由は、これなのだ。

 律歌は確実に俺に惚れているはずだし、俺も律歌を大事にしているのに、どうしてもここで止められる。

 無理やりにでもやりこめてしまいたいが、それはできない。律歌は初めて俺の音楽を好きだと言ってくれた人だ、彼女を大切にしないわけにはいかない。

「律歌、俺のこと好きなんじゃないの?」

「歌声だけね」

「俺の人格は!?」

 律歌はいつも、はっきりとものを言う。俺は意地悪を言う律歌に苦笑いした。

 冗談なのだろうけれど、事実、律歌は俺の音楽を聴いて俺に惚れているのだ。歌えなくなった俺は、彼女にとっては物足りない存在なのだろう。

 そういうことも含め、俺は俺から音楽を奪ったあの法律に腹が立って仕方ない。

 不服が顔に出ていたのだろう。律歌がくすっと笑う。

「なんてね。ねえ響、今日はなにを歌ってくれる?」

 最後の方は、耳元で無声音で、こそっと囁かれた。俺も、彼女の耳に静かな声でこたえる。

「じゃ、さっき歌詞を書き起こしたばかりの曲を」

 律歌とふたりきりにしてもらえるとありがたい、最大の理由がこれだ。

 俺は歌詞に目を通して、再び律歌の耳に唇を寄せる。彼女にだけに聴こえる声で、出来立ての歌を歌った。

 今の世の中、音楽は悪とされる。口ずさんだだけで、警察が来る。逮捕されるだけで済めばいいが、下手に抵抗すれば声を奪われる、そんな世界。

 だけれど、律歌とふたりきりに切り取られたこの部室という狭い世界でだけ、ふたりだけの間でのみ、音楽は許される。

 いや、もちろん本当は犯罪だ。これが誰かにバレてしまったら、俺は捕まってしまう。だからどこにも音が洩れないよう、律歌にしか聴こえないよう、彼女の耳元で囁くだけ。

 彼女にだけに歌を捧げる、この時間が愛おしい。

 しかしあまり長時間こうしていると、見つかってしまうかもしれない。俺は短めに歌い終えて、律歌の耳元から顔を離した。距離をとると、目を閉じている律歌の顔が見えるようになる。律歌はうっとりと口角を上げた。

「ふう。これで明日も頑張れる」

 この気持ちよさそうな笑顔に、俺の方も満たされる。

「俺も、律歌がいてくれるから、今でも軽音部に居続けてる」

 活動できない軽音部にいつまでも在籍しているのは、律歌が俺の歌を求めてくれるから。

 だけれど俺は心のどこかで、そう長くは続かないと察していた。

 腹を括って、言葉にする。

「律歌。もうこれで最後にしよう」

「へ?」

 律歌が閉じていた目を開く。俺は床を睨んで、再度繰り返した。

「もちろん俺は、律歌のために歌いたい。でももう厳しい」

 俺は健一の言葉を思い出していた。

「軽音部辞めないと、退学処分になる。退学になったり逮捕されたりしたら、律歌と一緒にいることすらできなくなる」

 歌うことはやめたくない。こんな法律に屈したくない。だけれど、律歌といられなくなるくらいなら、諦めるしかない。

 律歌の顔が青くなる。

「やだ。私は音楽を愛する響が好きなんだよ。あんな法律なんかに負ける人だと思ってなかった。がっかりした」

「負けたんじゃない。いつか堂々と歌えるようになるまで、我慢しよう」

「我慢なんてできない。響の歌を聴けないと、私、死んじゃう!」

 律歌は聞き分けのない子供みたいに駄々をこねた。

 だんだんムカついてきた。キスすらさせてくれないくせに、律歌ばかり俺に求めてくる。俺だって歌いたいのを我慢しているのに、大人の対応をしようと思っているのに、それを「あんな法律に負けた」なんて言い方をされては、悔しくて虚しくて怒りが込み上げてくる。

「死んじゃうだなんて大袈裟だな。俺の声が潰されたら元も子もない。それでもいいのかよ!」

 俺は歌詞を書いたルーズリーフを、床に捨てた。

「ああそうか。律歌は俺の、歌声だけが好きなんだもんな。歌ってない俺に魅力はないのか」

 冗談だと思っていたこのフレーズを口にすると、律歌は目を見開いて絶句した。悲しいことに、否定してくれない。

 俺は捨てたルーズリーフを拾わず、自分の鞄を肩に引っ掛けた。

「じゃあな」

 そう言い残して、俺は律歌を残して部室を後にした。


 *


 翌日、教室に律歌は現れなかった。そんなにショックだったのだろうか。言いすぎたなと、自席でささやかに反省する。

 そういえば、今日は健一もいない。あいつも休みか。それにしても教室が随分閑散としている。「急な引っ越し」でクラスメイトが減って、今は三分の二くらいしか残っていない。

 そんなことを思っている内に、担任がやってきてホームルームが始まった。担任は存外無感情な声で告げる。

「突然ですが、中川健一、それと早瀬律歌は、『急な引っ越し』で転校しました。寂しくなりますが、彼らが遠くの地でも元気にやっていけるよう、応援しましょう」

 俺の頭の中は、真っ白になった。

 真っ白になって数秒して、一気に疑問が押し寄せてきた。

 なんだって? 健一と律歌が転校? これまでもやけに「急な引っ越し」が多かったが、またか。いくらなんでも不自然なんてレベルではない。どう考えてもおかしい。だいぶ数が減ったクラスメイトたちも、ざわざわしている。

 納得できない。俺は真相を確かめるべく、一限をサボって職員室に近づいた。廊下から職員室の扉に耳につけ、先生同士の会話を盗み聞きする。

「いやあ、まさか我が校にもこれほどの“音虫おとむし”とその予備軍がいたとは」

「『急な引っ越し』という言い訳も、もう苦しいのでは? 生徒たちも不審がってますよ」

 音虫?

 聞いたことのない単語に目をぱちくりさせていると、トントンと背中を叩かれた。

「わっ……」

「しっ!」

 そう発して俺に唇に人差し指を押し付けていたのは。

 黒いボブカットに薄めの唇、俺を見つめる真っ直ぐな目。見間違えるはずがない。そこにいたのは、俺の恋人、律歌だったのだ。

 どうしてここに。言葉にしようにも声が出ない。律歌は早口で、俺に耳打ちした。

「政府の監視員のところから逃げ出してきた。でもすぐに捕まる。だから、急いで」

 律歌は俺の手を引いて、駆け出した。


「落ち着いて聞いてね。私、音虫なんだ」

 階段をかけ登る律歌は、ただ俺の手を引いて、振り向かずに話した。

「音虫は水も空気も要らない代わり、音楽をエネルギーにして生命活動をする、地球の外の生物。戦後くらいから、この星に住み着いてる。音楽を食べるから“音虫”と名付けられたみたい」

 なにを言っているのか、よく分からなかった。

「どこぞの国の識者が、私たちの存在に気づいた。人間社会に潜む音虫の存在が発覚した。発情期の音虫の粘液に含まれる細菌に感染した人間は、免疫力が大幅に下がって死に至る。国際音楽禁止法は、犯罪を抑制するために作られた法じゃない。混乱を避けるために表向きはそうしてるけど、本当は違う。人間は、音虫を駆逐するため、世界じゅうの音楽を止めたの」

 淡々と話されても、よく分からなかった。

「役所や警察、教育機関は、職務上知らされてるみたいだけど、一般的には伏せられてる。音虫やその遺伝子を持つ『予備軍』であると発覚した者は、専門機関へ送還され、適切な処分を受ける。健一くんはなにも知らなかったようだけど、お母さんが音虫だったと判明したから……」

 どう説明されても、全然分からなかった。

「私は響の歌声で、体調を維持していた。響がこっそり私のために歌ってくれたから、これまで人間のふりをしてこられたの。でももう私も政府に見つかった。これ以上は誤魔化せない」

 俺はやっと、掠れた声を絞り出した。

「……嘘だろ?」

 そんな映画みたいな話が有り得るか。でも、律歌は否定してくれない。

「嘘じゃない。嘘だったのは今までの私の方。私は人間じゃない」

 律歌がガラッと、引き戸を開ける。連れてこられたのは、相変わらずすっからかんの軽音部の部室だった。

「『歌声だけ』っていうのも、嘘。昨日、響があんなこと言ってたから、これだけはちゃんと言っておきたくて、わざわざ言いにきたんだよ」

 俺は昨日の自分の言葉を思い起こした。

『律歌は俺の、歌声だけが好きなんだもんな。歌ってない俺に魅力はないのか』

 これを否定するために、律歌は俺に会いにきたのだ。

 律歌がパタンと、戸を閉める。

「ずっと利用しててごめん。意地悪ばかりでごめん。その上、わがまま言ってごめん」

 彼女の髪が躍り、俺の方を振り向く。

「私、最期にもう一度、響の歌を聴きたい」

 そう言った律歌の顔は、泣いてもいなければつらそうでもなかった。心地よさそうに微睡むような眼差しで、俺を見つめていた。

 なにがなんだか、全然分からない。分からないけれど、どうしようもなく胸が詰まるこの感情を、この死ぬほど腹立つ展開を、律歌の最期のわがままを、受け止めなくてはならないことだけは分かる。

 律歌がくすっと笑って、俺の頬に手を添えた。

「なに、その顔。カッコ悪」

 いったいどれほど情けない顔をしていたのか。ものをはっきり言う律歌は、おかしそうに俺の目尻を撫でた。

「歌える?」

「うん」

 俺は短く返事をして、床に捨てられていた、歌詞の書かれたルーズリーフを拾い上げた。声が震えて、上手く歌えない。律歌はそれでも、出来栄えの悪い歌を、目を瞑って聴いていた。

 やがて、声が掠れて出なくなった。奥歯を噛みしめて、拳を握りしめていた、そのとき。律歌は俺の手からルーズリーフを取り、動かなくなった俺の唇に当てた。その紙越しに、ふわりと柔らかい感触が当たる。

「ありがと。これで明日も頑張れる」

 ルーズリーフを下ろして言った彼女の顔は、涙で歪んで全然見えなかった。



 *


 *


 *



 数年後。

「皆ー! 今日はこの俺様のライブに来てくれてサンキュー!」

 俺は大きなアリーナで、ギターを引っ提げて大勢の観客の前に立っている。

 大学を卒業する頃、国際音楽禁止法は廃止された。廃止の理由は「犯罪が減らなかったから」とされているが、本当は多分、音虫が完全に絶滅したからだ。

 自由に音楽を奏でられるようになったこの世界で、俺はまだ、あの日作った歌を歌っている。

「この曲を聴かせたい人は今でもたったひとりなんだけど、そいつが言うには俺の歌が世界を変えるらしいから! 歌います!」

 誰かが俺の歌を聴いて、明日も頑張れるように。

「聴いてください。『世界から歌声が消えても』!」

 たとえ彼女が、俺を利用していただけだったとしても、たとえ人間じゃなくても……。

 なにが発覚しようと、俺の律歌への想いは絶対に嘘にはならない。

 初めて俺の音楽を好きだと言ってくれた君を、この声が潰れても、永遠に大切にするつもりだ。

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