ロッタが私にくれたもの
植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売
ロッタが私にくれたもの
我ながら大人げない。
そんなことは分かっているのだけれど、どうしても譲れなかった。
姉が姪を連れて、実家に遊びに来た日のことだ。
「
三歳になったばかりの姪が、テディベアを抱いている。私は間髪入れず、一切の躊躇なくこたえた。
「絶対だめ」
直後、美優ちゃんの目に涙が溜まる。しまった、と思ったときにはもう遅い。わがままが通らなかった三歳児は、ワッと大声で泣き出してしまった。
姪の声が聞こえたのだろう。別室にいた彼女の母親、つまり私の姉が、慌てて駆けつけてきた。
「どうしたの!?」
私は咄嗟に「なんでもないよ」と誤魔化そうとしたが、姪の美優ちゃんが先手を打つ。
「涼香ちゃんがね、この子くれないの! 美優、ちゃんと頂戴って言ったのに、涼香ちゃんが意地悪言うの!」
「ああ……」
姉は美優ちゃんの前にしゃがんで頷きつつ、そろりと私を見上げた。それからまた美優ちゃんに向き直り、肩に両手を置く。
「あのね、美優。頂戴って言っても、貰えないものもあるんだよ。あのクマさんは涼香にとって大事なものだから……」
私が事情を言わずとも、姉は分かってくれている。
「美優だって大事にするもん!」
美優ちゃんはまだ、ロッタを抱きしめて離さなかった。
「ごめんね涼香。美優はまだ、ロッタが涼香にとってすごく大事なものだって、まだ分からなくて」
リビングで紅茶を啜る姉が、申し訳なさそうに言う。私も、カーペットに寝転がる美優ちゃんの後ろ頭を見つめ、謝った。
「私の方こそ、美優ちゃんを泣かしちゃってごめん……」
ひとしきり泣き喚いて疲れたのだろう。美優ちゃんはロッタを抱きしめたまま、お昼寝をはじめた。
ロッタは、私にとってなにより大切な宝物だ。あれは亡くなった母が手作りしたテディベアである。だから、同じものはふたつとない。
ちょっと歪な形だし、古いから毛が潰れてしまっているけれど、優しいミルクティー色の生地にくりくりした黒い目、首に巻いた真っ赤なリボンがトレードマークの、かわいいテディベアだ。
私は紅茶の水面に目を落とし、訥々と言い訳をした。
「美優ちゃんのことは、私も大好きだよ。なんでも買ってあげたくなるくらいかわいい。でも……ロッタだけは。お母さんの形見だから」
「分かってる。分かってるよ。美優にも言って聞かせる」
姉が何度も頷く。
「形見になる前から、ロッタは涼香の大事なぬいぐるみだものね」
姉の言うとおり、私がロッタを譲れない理由はもうひとつあった。母の形見だからというのはもちろんだけれど、単純に、幼い頃からずっと一緒だったから、というのも大きいのだ。
ロッタを貰ってから大人になるまで、ずっとロッタと時を重ねてきた。大きくなるにつれてぬいぐるみ遊びはしなくなっていったけれど、インテリアとして部屋に飾っていた。ロッタのいない生活なんて、ありえないのだ。
幼い美優ちゃんが欲しがっているのに、ロッタを差し出すことはできなかった。私自身が、あのぬいぐるみに依存してしまっているからだ。我ながら大人げない。そんなことは分かっているのだけれど、どうしても譲れなかった。
「私も、涼香からロッタを奪うなんてできないよ。涼香がロッタをかわいがってたの、見てたから」
よき理解者である姉は、穏やかな口調で話した。
母からロッタを貰ったのは、たしか、私がちょうど美優ちゃんくらいの歳の頃だったと思う。
幼い私たちにいたずらされないようになのか、ロッタは背の高い棚の上に飾られていた。絶対に手が届かない位置にあったロッタのことを、私は幼いながらに宝物のように感じていた。
目は届くのに手は届かない場所にいる、世界でいちばんかわいいぬいぐるみ。大袈裟かもしれないけれど、なんだか神秘的な存在だった。
母がそれを私にくれたときは、手放しに喜んだと同時に、一生大切にしなくてはならないと謎の義務感を背負ったほどだ。
「いつだったかなあ。ロッタを大事にするあまり、涼香がロッタにごはんを食べさせようとして、ロッタを汚してさ。お母さんに叱られてたよね」
姉が突然思い出す。私は、えっと眉を寄せた。
「そんなことあったっけ?」
「あったよ。お風呂も一緒に入ろうとして、お母さんに引き剥がされて泣いてたこともあった」
流石はお姉ちゃん。妹の私より少しだけ大人な立場で、私の行動を見守っていたのだろう。私自身も覚えていないようなことまで、しっかり記憶している。
私も、少し記憶を遡った。
「中学の頃、部活の合宿にロッタを連れていきたくて、でも友達から幼稚だと思われるのも嫌で、すっごく悩んだな」
「ああ、悩んでた悩んでた!」
姉が紅茶のカップを口の前で止める。
「修学旅行もそうなってたよね。あれ、小学校の臨海学校と修学旅行は、どうしたんだっけ?」
「臨海学校のときはね、連れていこうとしたら、お母さんに止められたんだよ。『余計な荷物を持っていくと、鞄がパンパンになっちゃうからやめなさい』って。修学旅行も同じように言われたよ」
泣く泣く諦めたのを覚えている。私は紅茶をひと口含んで、ふうと息をついてから、付け足した。
「でもね。臨海学校では諦めたけど、修学旅行のときは、お母さんに見つからないようにこっそり連れていったんだ」
「そうだったの?」
「うん。今、初めて話した。お母さんにも言わなかったし、ばれなかった」
姉と話していると、ロッタとの日々が溢れ出すみたいに思い起こされた。ロッタを抱いて公園に出かけて、知らない子にとられそうになったこと。ロッタを抱えてかくれんぼをして、ロッタの足がはみ出したせいで見つかってしまったこと。
思えば「常に」といっていいほど、私はロッタと行動を共にしていた。ロッタさえいれば、新しいおもちゃはなにもいらなかった。悲しい出来事があった日も、ロッタを抱きしめて眠りについた。
お母さんが亡くなった日も、ロッタを涙で濡らして、一緒に乗り越えたのだ。
「今の涼香があるのは、ロッタのおかげだよね」
姉がゆっくりとまばたきをする。
「物を大切にする優しさも、悲しいことを乗り越えられる強さも、ロッタが教えてくれたんだね」
「そんな、私……そんなことない」
思わず、下を向く。
優しくも強くもない。現に、かわいい姪にぬいぐるみひとつ差し出せない、心の狭い大人だ。ロッタを手放す覚悟ができない時点で、弱い。
ああ、でも。母も、生前そう話していた気がする。
『ロッタは人を優しく強く育ててくれるテディベアなの。大切にしてあげてね』
ロッタを貰った日、母は私にそう言っていた。
そこまで思い出したときだった。ハッと、遠くへ流されかけていた記憶に火がついたように、鮮明に明るく蘇る。
今より少しきれいだったロッタと、それを差し出す母の困り顔にも似た笑顔。初めて触れた、ロッタの感触。ボタンでできた黒い瞳に、蛍光灯の光が宿ってきらきらして見えたことまで。
あの日の母の声も、はっきりと聞こえた気がした。
顔を上げて、今目の前にいる姉に顔を向ける。
「ねえ、お姉ちゃん。ロッタって、お母さんが手作りしたぬいぐるみだったよね」
「うん? そうだよ。たしか、お母さんが中学生の頃かな」
「お母さんが、お母さんのお母さん……私たちのおばあちゃんに教えてもらって作った……」
「そうそう! そうだったね。たしかお母さん、中学生の頃、お裁縫が得意なおばあちゃんに憧れて、手芸を学ぼうとしていたって言ってた」
姉も思い出して手を叩く。
私はまた、
言わないといけない。でも、言ってしまったら後には引けない。
「お姉ちゃん、私、」
言葉にしようとして、呑み込む。それを何度か繰り返して、ひとつずつ、少しずつ、覚悟を決めていく。
「ロッタ、を……」
言ってしまったら、ロッタとさよならをしなくてはならない。
「ロッタを、美優ちゃんに、あげる」
その瞬間は、私の中で時間が止まったようだった。
姉がびっくり顔で固まっている。まばたきすら止まっているようだった。
私は目を閉じて、自分の言葉を脳内で反芻した。
ああ、言ってしまった。そんな後悔と、もう取り消せない、という諦めと。やっと言えた、という、開き直り。
姉がやっと、口を動かした。
「なんで? どうして急に?」
そして段々、早口になる。
「なにを言ってるの、涼香? 美優のわがままなんて、無理に聞かなくたっていいんだよ。ロッタは涼香の大事なテディベアでしょ!?」
「そうだよ。でも、決めたの。だって」
私は声を喉で詰まらせながら、ちらりと美優ちゃんとロッタに目をやった。
「お母さんも、きっとそうだったから」
ロッタは母が、祖母に指導されながら作ったぬいぐるみ。
私は、祖母のことはよく覚えていない。祖母が亡くなったのは、私が母からロッタを貰うよりもっと前だ。当時まだ私は小さかったから、今でも祖母の顔さえ思い出せないのだ。
ただ、祖母が亡くなった日のことはよく覚えている。
母が、いつもは棚の高いところに置いてあったロッタを下ろして、抱きしめて泣いていた。人が亡くなったのだと理解できなかった当時の私は、そちらに衝撃を受けた。絶対に触れないと思っていたあの神秘のテディベアが、手の届くところまで下りてきた。その事実の方にだ。
それ以来、母は時々ロッタを抱きしめるようになった。私はその度に、ロッタに触れてみたいと思った。母があんなに愛おしそうに抱きしめる、その存在に、触れてみたかった。
なんとなく母の大切なものであることは分かっていたから、切り出すのには少しだけ、緊張した。
『ねえお母さん。その子、私にも抱かせて?』
たしか、一度目は首を横に振られた。『ごめんね、これはだめなの』と、やんわりとした言葉尻で、それでいてきっぱりと断られた。
だがそれでもしつこく駄々をこねていたら、やがて母は根負けして、私にロッタを差し出してくれたのだ。
『ロッタは人を優しく強く育ててくれるテディベアなの。私は涼香に、優しくて強い子に育ってほしい。だから、涼香にあげる。大切にしてあげてね』
今なら分かる。母がロッタを想う気持ちは、今の私と同じくらいの感情だったのだ。
尊敬していた人に教えてもらって、自分の手で生み出したぬいぐるみは、歪でも愛おしかっただろう。そしてそれは祖母との思い出に直結し、祖母が亡くなったときに寄り添ってくれる、大切な存在になった。
当時の幼き日の私は、ロッタがどんなに大切なテディベアかも分からずに、母にねだった。
今の私と美優ちゃんも同じだ。私にとっての母との思い出のテディベアを、幼い美優ちゃんが無邪気に欲しがっている。
その構図に気づいたら、私の胸の中で、すっと整理がついた。
「お母さんは、私にロッタをくれたから」
私がロッタを大切にしてきたように、きっと美優ちゃんも大切にしてくれる。そして優しく強く成長してくれる。
そう願いを込めて。
「私もロッタとお別れするよ」
「涼香……」
姉は、まだ迷いのある目をしていた。でも私の中で揺らがない決心がついたのだと、彼女も分かったらしい。
「……うん、ありがとう」
しばらくして、美優ちゃんが目を覚ました。
帰り支度を済ませて、姉が美優ちゃんを連れて玄関へ向かう。美優ちゃんは、嬉しそうな顔でロッタを抱いていた。一度手に入らなかったテディベアが、目が覚めたら自分のものになっていたのだ。ご機嫌な様子でロッタの後ろ頭に頬をうずめている。
「あの、美優ちゃん……。ロッタのこと、絶対に大事にしてね」
私は未練がましく、美優ちゃんに念押しした。姉が申し訳なさそうに顔を歪めて、本当にいいのかと目で問うてくる。私は何度も「やっぱりだめ」と言いかけたけれど、歯を食いしばって呑み込んだ。
去り際に、美優ちゃんが私ににっこりと笑いかけてきた。
「涼香ちゃん、ありがとう。ロッタちゃんは世界でいちばんかわいいから、世界でいちばん大切にするよ」
少し、頬が綻ぶ。
私も、母のテディベアを見たとき、同じことを思った。だからきっと、美優ちゃんは私と一緒くらい、ロッタを大切にしてくれる。
さよなら、ロッタ。私の大切なテディベア。
私も母のようになりたいから。美優ちゃんにも、ロッタが育んでくれる気持ちを知ってほしいから。
さよなら。大好きだよ。
「うん、ロッタをよろしくね」
そう送り出せたとき、私はちょっとだけ、優しく強くなれた気がした。
ロッタが私にくれたもの 植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売 @sui-uehara
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