After the rain
植原翠/授賞&重版
After the rain
大きな決断を迫られるとき、決まって雨が降っていた。
覚えている限り、いちばんはじめは小学四年生の頃。当時加入していた野球クラブを、やめるかどうかで悩んだときだ。
「えー! 雫、野球やめちゃうの?」
隣の席だった
「どうして? あんなに野球、好きだったじゃない」
「僕が好きなのは野球じゃなくて、選手だったんだ」
放課後の教室。窓の外には、雨に濡れたグラウンドがどんよりと影って見える。野球クラブの退部届を手に握ったまま、僕は席を立てず、降り頻る雨を眺めていた。
僕には憧れのプロ野球選手がいた。彼のようになりたくて、野球をはじめたのだ。しかしそれだけでは強くはなれなくて、むしろ自分の野球の下手さを思い知るばかりだった。チームメイトはそんな僕にも優しく接してくれたけれど、それが却って申し訳なく、いつの間にか僕の心は野球から離れてしまっていた。
結局僕は、職員室に行って担当の先生に退部届を提出した。やめたくはなかったけれど、心は決まっていたのだ。
職員室を退室すると、廊下で晴乃が待っていた。
「一緒に帰ろ」
雨が打ち付けられる窓に後頭部を預け、彼女はそう切り出した。
その日初めて、僕は晴乃と一緒に帰った。誰もいないグラウンドを、ふたりで縦断する。傘に降り注ぐ大粒の水滴が、トントンと音を立てる。
晴乃はなにか話していたけれど、雨の音がうるさくて、よく聞き取れなかった。
野球をやめたくはなかった。僕の憧れの選手はやはり憧れのままだ。でも、理想に近づけない自分がつらかった。怪我などのやむを得ない事情でなくて、ただ嫌になったからやめるというのが悲しかった。スポーツ的な意味でも、精神的な意味でも、僕自身の弱さを認めるような気がして。
僕はついに、歩みを止めた。
「なんで……」
傘の柄を握る手が、カタカタと震える。
「なんでやめちゃったんだろう、僕」
喉が掠れて、目の前がじわっと歪んで、気持ちがとめどなく溢れ出す。
「続けていたら、強くなれたかもしれないのに」
握ったまま出せずにいたあの退部届を、職員室に行くまでのどこかで、捨ててしまえたらよかった。
やめたくてやめたくて仕方なかった気持ちと裏腹に、諦めたくなかった思いがあった。矛盾するふたつの分岐が僕に迫り、僕自身が判断しなくてはならなかった。
涙がぽろぽろと零れる。頬を伝って落ちた涙が、地面に向かっていくうちに、雨に混じって溶けていく。
「諦めなければ、憧れの選手に近づけたかもしれないのに。簡単に挫ける自分なんて、認めたくなかったのに……」
続けても変わることはできない。続けるだけ無駄だ。苦しむだけなのだ。
そう決めつけて諦めてしまった自分が、情けない。
晴乃は、立ち止まった僕に合わせて一緒に歩くのをやめていた。急に泣き出した僕を、澄んだ瞳で眺めている。僕は袖で顔を拭った。
「ごめん、いきなり泣いたりして。恰好悪いね。恥ずかしいな」
雨で濡れた手で擦ったら、顔はびしょびしょになって、雨だか涙だか分からなくなった。
「でも、さ」
雨の音がうるさい。だけれど、そのときの晴乃の言葉は、僕の耳にしっかりと届いていた。
「雫の判断は、もしかしたら正解じゃなかったかもしれないけど、間違いじゃなかったと思うよ」
「……え?」
なんだか意味が分からなくて、顔を上げた。晴乃はにっこりと笑っていた。
「どっちを選んだとしても、それが雫の回答だったらそれでいいんだよ。どっちにしたって、そんなつらい気持ちは長続きしない。『止まない雨はない』って、よく言うじゃない」
僕は俯いたまま、晴乃の声に耳を傾けていた。
「晴れ続ける空もないんだけどね。だからまたこれからも、こうやって壁にぶち当たって、悩んで、なにかを決断しなきゃいけないこと、たくさんあるよ」
やめたくはなかった。でも、やめてしまった。それは心のどこかでは、もう決めていたから。自分の行動に納得はしている。だからこそ、悔しくてたまらない。
捨ててしまった夢が惜しくて、涙が止まらない。
突然、晴乃が傘を放り投げた。
青空色の傘が開いたままで宙を飛び、すぐにべしゃっと泥の中に落ちた。驚く僕の横で、晴乃は自由になった両腕を大きく広げてみせた。
「きっとさ、この雨は雫のために降ってるんだよ」
雨が彼女の髪をぐしょぐしょに湿らせても、無邪気に上空に手を伸ばしている。
「だって雨が降っていたら、雫が泣いてても分かんないもの。雨に濡れてるだけに見えるよ。だからきっと、この雨は、雫に『泣いてもいいよ』って言ってくれてるんだよ」
そのとき、僕の手からふっと力が抜けた。握っていた傘がグラウンドの泥の上に落ちる。冷たい雨が、僕の全身に直接降り注いできた。あっという間にびしょ濡れになった髪から、雨の雫が滴り落ちる。頬が濡れて、雨粒が涙を洗い流していく。
「やめたく、なかった」
判断したのは僕だ。それなのに、結果と正反対の言葉が口をつく。
嗚咽を洩らして泣く僕を、優しい雨が包む。晴乃はずっと、傍で黙って待っていてくれた。
あれ以来、ずっとそうだった。
進路で悩んだときも、欲しかったものを我慢したときも。なにかを諦めなくてはならないとき、決まって雨が降っていた。晴乃の言葉は案外本当だったのではないかと思ってしまうほどだ。流石に、歳を重ねるごとに泣くことは殆どなくなっていったけれど。
それどころか、泣く必要がない判断のときも、お節介な雨が降っていたのを覚えている。
例えば、ウェディングドレスを選ぶときとか。ドレスを選んだのは君だったはずだが、僕も一緒に悩んだからかもしれない。
そして、そのときはいつも。
「そうだねえ。それもまた雫の出したこたえなんでしょう?」
いつも、隣に君がいた。
あの雨の日からずっと、僕の生きてきた軌跡には、いつも隣りに君がいたのだ。
「――どうなさいますか?」
医者の言葉で、我に返った。
雨が降っている。それも、バケツをひっくり返したような酷い土砂降りだ。
電子音のする無機質な部屋で、堅物そうな白衣の男が僕に問う。
「回復の見込みはありませんが……」
ピ、ピ、と定期的なリズムを刻む電子音は、まるで。
「晴乃さんの人工呼吸器を、外しますか?」
まるで僕に、タイムリミットが迫るようで。
なんで僕がこんな選択を迫られるのだろう。
ああ、そうだ。晴乃は僕の妻だからだ。いや、夫婦なら尚更、こんな決断を迫るなんてあまりにも残酷ではないか。愛する人を苦しめるか、死なせるかを選べだなんて。
すぐにはこたえを出せなかった僕を、医者は急かしたりはしなかった。結論を出すのはゆっくりでいいと、同情めいた優しい口調で言っていた。
僕は病院の中庭で、濡れたベンチに腰掛けた。大雨の屋外で傘も持たずに座っている僕は、周囲からは妙な人物に見えただろう。
雨が髪の奥にまで潜り込んで、服がべったりと皮膚に貼りつく。息をしているだけで、溺れそうになる雨だ。
そういえば、あの日も雨が降っていた。あれは、日曜日の昼。
「買い物行ってくるね」
「えー、雨降ってるから今日はやめたら?」
「雨の日だから行くの! あのスーパー、雨の日割引があるんだから。雫も来る? 荷物持ち」
「いや、僕は部屋の掃除でもしてるよ」
他愛もない日常会話だったけれど、あれは僕と晴乃の運命を大きく変えた「最悪の決断」だった。
買い物に出かけた晴乃は、交通事故に遭った。脳に障害を負って植物状態になった彼女は、自発呼吸が上手くできていなかった。救急車で運ばれてすぐ、彼女は集中治療室送りになった。
正解ではなくても間違いではない、という晴乃の言葉があったが、こればかりは完全に“間違い”だった。僕が判断を誤った。
一緒に来るかと問われたとき、僕はどうして晴乃を止めなかったのだろう。どうして一緒に行かなかったのだろう。そうすれば、なにかが違ったかもしれないのに。
取り返しのつかない判断ミスだった。
途絶えない雨音が僕の頭の中でわんわん反響している。僕は無言で下を向いていた。考えているふりをして、考えていない。考えている余裕なんて、ない。
こんな決断を僕ひとりに押し付けるなんて、晴乃は酷い。どうしてこんな意地悪をするんだ。
大きな決断を迫られるとき、決まって雨が降っていた。それから隣に君がいた。そして僕がなにか大切なものを諦める決断をしても、僕が泣きそうになっても、君はいつも傍で、僕の心を晴らしてくれた。
その君がどうして、僕を悩ませるような二択を迫る?
頭がぼうっとしてきた。雨音の隙間から、幼い頃の晴乃の声が聞こえる気がする。
「『止まない雨はない』って、よく言うじゃない。晴れ続ける空もないんだけどね。だからまたこれからも、こうやって壁にぶち当たって、悩んで、なにかを決断しなきゃいけないこと、たくさんあるよ」
僕がどんな決断をしても、君が肯定してくれた。
その晴乃を失っても、それでも空は晴れるのだろうか?
こたえを出せない。なにが正しいのか分からない。
「雫の判断は、もしかしたら正解じゃなかったかもしれないけど、間違いじゃなかったと思うよ」
晴乃の声が、徐々に僕を導こうとする。導こうとしている方向は、僕がもっとも恐れている結論だ。
晴乃の性格をよく知る僕は、晴乃が言わんとしていることはなんとなく分かった。彼女は意識がないままで体だけを延々と生かされるのは、嫌がる性格だと思う。
でも、と、僕の中のエゴイズムが増幅する。
でも心臓が動いているのだ。体が生きているのだ。目を覚ましてくれなかったとしても、まだ生きようとしている彼女の体を、止めたくない。
僕には、この選択肢は重すぎる。
「晴乃、僕は」
どうしたらいいの。
「晴乃」
彼女の名前を呼んでも、雨の音に掻き消されてしまう。
もう一度、名前を口にしようとした。しかし、胸の辺りでつっかえて、声にならなかった。ひっく、と喉が鳴る。
「は、るの」
無理に絞り出した声は、震えて、掠れて、あっという間に雨音に呑み込まれた。
濡れた頬に熱い水が交じる。叫びたいのに、声が出ない。
大の大人の男が、雨の中でひとりで咽び泣く。なんてみっともないのだろう。子供の頃の、野球を諦めたあの日がフラッシュバックする。
精神的な弱さを自覚したあの日から、僕は未だに変わっていない。体だけは大人になったが、あの頃のまま、雨と晴乃に甘えて生きてきた。
こんな僕と過ごして、彼女は幸せだったのかな。
そんなことを考えては、また涙が零れて雨に溶けていくのだ。
*
部屋の片付けをはじめた日、この日も腹立たしいほど激しい雨が降っていた。
まるで空が、僕がまた泣き出すのではないかと気にしているみたいに思える。なんだか悔しいので堪えているが、晴乃の遺品を見ていると何度も涙が込み上げた。
晴乃が息を引き取って、葬儀を終えて、一週間が経過した。ようやく僕は、部屋に残った彼女の抜け殻を整理する気になった。
「人工呼吸器を外してください」
医者にそう伝えたとき、雨は一段と強くなっていた。雨ざらしになった僕に、医者はタオルを貸してくれた。受け取った白いタオルで顔を擦り、雨も涙も一緒に拭き取る。
続けても変わることはできない。続けるだけ無駄だ。苦しむだけなのだ。晴乃の延命治療は、続ければ続けるほど彼女の人間としての尊厳を傷つける。
本当は、一分でも一秒でも、傍にいたかった。心臓が動いて、体に血が巡っている限り、そこにある彼女の命に寄り添いたかった。
それでも僕は、彼女の尊厳死を選んだ。
今でも後悔している。なんで彼女を死なせたのだと、自分を殺してしまいたくなる。でも、きっと晴乃ならそうは言わないだろう。
あの日、空模様が僕を思い切り泣かせてくれた。彼女の名前を呼ばせてくれた。
お陰で少し、前に歩き出すだけの勇気を持てた。
窓の外が白く煙っている。僕は彼女の私物を、どれを残してどれを処分すべきか悩みながら、懐かしい記憶を思い起こしていた。
「きっとさ、この雨は雫のために降ってるんだよ」
無邪気に傘を放り投げた、あの日の君の笑顔が見える。
「だって雨が降っていたら、雫が泣いてても分かんないもの。雨に濡れてるだけに見えるよ。だからきっと、この雨は、雫に『泣いてもいいよ』って言ってくれてるんだよ」
雨は僕の涙を隠してくれて、君は晴れた未来に導いてくれる。
ふと顔を上げて、僕は思わず声を出した。
「あ……」
窓の向こうに青空が広がっている。いつの間にか、雨は止んだみたいだ。
体はここにいなくても、晴乃は今も、僕の判断を信じてくれているみたい。そんなご都合主義な想像をして、ひとり、部屋でくすりと笑う。
晴れた空に虹を探してみる。なくてもいいけれど、とりあえず探した。
僕の判断は正解ではなかったかもしれないけど、間違いではないのだと、僕を肯定してくれた君を信じて。
After the rain 植原翠/授賞&重版 @sui-uehara
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