マイコ記抄

ナナシマイ

一月二十五日 水曜日

 もうずっと、わたくしの海は凪いでおりました。

 喜びがさざとあわ立つこともございませんでしたし、悲しみが海の底へと沈んでゆくこともございませんでした。

 わたくしはただ、日が昇り、沈み、長い夜が明けるのをじっと待っているだけなのでございました。進むべき道も見えずにいたものですから、本当に、一歩たりとも動かずにおりました。


 わたくしに見えておりますのは、万華鏡の景色にございます。

 紅玉や、瑠璃や、金剛石を散らしたような、わたくしひとりの瞳に閉じ込めておくにはあまりに勿体ない、きらびやかな世界でございます。過ぎた宝でございます。

 ですから、本日をもって、その万華鏡を尊き御方へ献上することにいたしました。


(中略)


 わたくしのいちばん星は、何処の空を浮かんでいるのでしょう。

 わたくしがまだ無名であったころ、人はかの星を見て質素なものよと嗤ったものです。


 かの星だけがわたくしの希望でございました。かの星だけが、真実、わたくしの歌に耳を傾けておいででした。


 今はきっと、その波を天まで重ねたとて万有の向こうを覗くことができるような、清らかな海の上で輝いているのでございましょう。

 溢す笑みも流す涙もないわたくしの頭上を照らすより、よっぽど似合わしいというものです。


 わたくしの海は濁りすぎてしまいました。

 喜びの音を紡ぐとき、待ち望んだ春の野の、可愛らしい花弁や蝶の翅を身にまとっておりました。

 悲しみの音を紡ぐとき、今朝がたに吐いた息のような、凍るほどの冷気が体じゅうを流れておりました。

 まったくもって、無色透明な人間ではいられませんでした。


 わたくしは、マイコとしてのわたくしは、何者でもなくいとうございました。

 何処にも存在し得ない、美しき海そのものでありとうございました。


 濁った海に孤独という魚を泳がせて、それを口にすることで生き長らえているような、卑しいわたくしが願うことも許されるならば。

 どうか、いちばん星が確かな道を照らしておりますように……。

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