天使は生クリームの夢を見る
僕のおじいちゃんは、焼き菓子工房「アンジェ」を経営している。
僕は学校がお休みだった土曜日、夕方からおじいちゃんのお店に遊びに来ていた。お客さんが来ないお店の中で、おじいちゃんは退屈そうに椅子に座って新聞を読んでいる。僕もおじいちゃんの隣に椅子を並べて、学校の図書室で借りた本を読んでいた。足を下ろした傍には、石油のストーブがある。小窓から赤いガラスのような炎を覗かせて、お店の中を温めていた。
僕が読んでいる本が絵本ではなくなったのを見て、おじいちゃんはちょっとびっくりしていた。
「そっか、陽介ももう二年生だもんなあ。ついこの間まで幼稚園に行ってたのに」
雪が降っている。
僕がお店に着いた頃には降っていなかったのだが、つい十分ほど前からいきなり降りはじめたのである。そういえば、昨日の夜も雪が降っていた。今日の日中は止んでいたのに、夜になってまた降りはじめたのだ。
僕は仄暗い窓の外をぼうっと見つめていた。すっかり日が落ちているのに、降り積もった雪が煌々と反射して、地面だけ妙に明るく見えた。
狭いお店の中には、おじいちゃんが焼いた焼き菓子がたくさん並んでいる。両手を合わせたくらいのバスケットに、五個ずつくらい、マドレーヌやフィナンシェなんかが詰まっている。ずらりと並んだお菓子のパレードは、温かい色味が心地よくて見ているだけで楽しくなる。そんな中で僕が特にきれいだと思うのは、レジの横っちょにある焼き菓子の詰め合わせだ。おじいちゃんがより抜いたお菓子が八つ、箱に入ってリボンをかけられている。これを開けるとカラフルでおいしそうで、宝石箱みたいに見えるのだ。
でも、本当はこれは二番目だ。僕がいちばん好きなのは、特別なときだけおじいちゃんが作ってくれる生クリームのケーキである。スポンジの円のステージに、厚くムラなく塗られた真っ白な生クリーム。真っ赤なイチゴがきれいに並んで、そこにふわりふわりと粉砂糖が降りかかる。それはまるで、静かな粉雪が降り積もる銀世界のようなのだ。
「なあ陽介、お店に来る途中で、カーキ色のモッズコートを着た男を見なかったか?」
おじいちゃんが突然問うてきたので、僕はきょとんとして目を上げた。
「カーキ色って?」
「ああ、少し暗い緑色のことだよ。暗い緑色に、茶色いファーの大きなフードのコート。中に白いシャツを着ていて、色落ちしたジーンズを履いていて、それから黒いブーツの男だ」
いやに具体的な人物を挙げてくる。僕は再び、本に視線を落とした。
「……見なかったよ」
「そうか……。そうだよな、陽介が来た頃には晴れていたもんな。この雪の中来るんだなあ」
おじいちゃんがそういうのなら、きっとおじいちゃんが“見た”彼は雪に濡れていたのだろう。
おじいちゃんには、不思議な秘密がある。
その秘密を知っているのは、僕だけ。
カラン、とお店のドアのベルが鳴った。
「いらっしゃい」
おじいちゃんが気だるげに、新聞から顔を上げる。隣に座っていた僕は思わず、小さい声であっと叫んだ。
大きなフードの付いた、緑の上着。中に白いシャツを着ていて、色落ちしたジーンズを履いていて、それから黒いブーツの男。おじいちゃんが言っていた男、そのものがお店に入ってきたのだ。
肩や頭に雪が積もっている。せめてもの足掻きのように大きなフードを頭に被っていた。それでも湿っている前髪がぐっしょりと顔を覆って、表情はよく見えなかった。
「雪の中、大変でしたね」
おじいちゃんが落ち着いた声で話しかける。
「ええ、でもきっともうすぐ止みますよ」
緑のコートの男も、静かな声で返した。
おじいちゃんは、自分が予知したとおりの男が来てもいちいち驚いたりしない。もう、慣れているのだ。
緑のコートの男は、お店に並んだ焼き菓子をじっと眺めていた。並んだバスケットをじっと見つめて、悩みながらお店の中を二、三歩歩く。おじいちゃんはのっそり椅子から腰を上げて、レジの近くに立った。
「ここのところ、一気に寒くなりましたねえ」
おじいちゃんが取りとめのない話を振る。緑の上着の男がそうですねと頷いた。
「本当に。今日も急に、雪が降りはじめましたね」
そして彼ははたと、レジ横の焼き菓子の詰め合わせに目を止めた。
「あの、焼き菓子詰め合わせをひとつください」
「はい。九百円です」
おじいちゃんが言うと、男は肩からかけていた鞄から財布を出した。おじいちゃんは初めて来たこの客にいつもどおりの定型文の質問をした。
「スタンプカードはお持ちですか」
「いえ」
「お作りしましょうか?」
「ああ……お願いします」
男が濡れた前髪を手で払った。カウンターの向こうにいた僕は、初めてその男の顔を見た。蝋人形みたいな無表情だった。
おじいちゃんはレジの下に控えていた新品のカードを出して、男のお買い上げ分のスタンプを押した。
「五百円につき、ひとつスタンプを押します。有効期限は二年間。スタンプが溜まったら、生クリームのケーキと交換しましょう」
「ありがとうございます」
緑の上着の男がスタンプを押されたカードを受け取る。おじいちゃんの背中を見ていた僕からはカードが見えたのだけれど、おじいちゃんはスタンプをふたつ押していた。
「ビニールの袋と紙袋、どちらにお入れしましょうか」
おじいちゃんが尋ねる。男はしばし悩んで、雨の降る窓の外に目をやった。
「紙袋だと雪に濡れて弱くなってしまうと思うので、ビニールで」
「それもそうだなあ」
おじいちゃんがははっと笑った。男は無表情をほんの少しだけ歪めた。微笑んだようにも、泣きそうなようにも見えた。
「ありがとうございます。大切な人への、お土産なんです」
「おや。その焼き菓子の詰め合わせ、プレゼントにおすすめなんですよ」
おじいちゃんが穏やかにゆっくりと話した。
「生クリームのケーキも、若い女性にとても人気なんです」
「そうなんですね」
「ええ、皆さん大切な人への特別な日のプレゼントにしたいとおっしゃいます」
おじいちゃんがそう言うと、緑のコートの男はちらと店内を見渡した。
「それ、買えますか?」
「いや。残念ながら、スタンプカード限定なんです」
「……そうですか」
やや肩を落とした彼に、おじいちゃんがふふっと笑う。
「またぜひ、いらしてください」
緑のコートの男はおじいちゃんにぺこりと一礼して、雪の中の外へとゆっくり出ていった。扉の外に見えたのは、全てを呑み込んだかのような真っ白な雪。そして、真っ黒な空だった。
お店の扉が閉まって十秒くらい経ってから、僕はおじいちゃんの背中に問いかけた。
「おじいちゃん、あの人はこれからどうなるの」
おじいちゃんは振り向かなかった。
「泣いていたよ。記憶は曖昧なんだけど……すごく悲しそうに、泣いていた」
おじいちゃんは、ときどき予知夢を見ることがあるらしい。決まって、雪の降る夜だそうだ。
物心づいた頃からずっと見ていたそうだが、それを言っても誰も信じてくれなかったから、もう誰にも言わなくなったのだそうだ。でも僕にだけは教えてくれた。僕はおじいちゃんの子供の頃に似ているらしいから、同じ夢を見ているんじゃないかと、思ったそうだ。
僕はそんな不思議な夢を見ることはなかったのだけれど、おじいちゃんの秘密の夢を嘘だなんて思わなかった。だからこうして、おじいちゃんの秘密を一緒に共有している。
おじいちゃんはまだ、閉まった扉の方を見つめていた。
「悲しいという強い感情と、どうしてそこまで悲しいのかというぐちゃぐちゃに掻き乱された情報だけは、今も頭にこびり付いてる」
おじいちゃんのため息が、お店の温かな空気に吸い込まれる。
「あの人はね、これからとってもとっても大切な人と、サヨナラしなくちゃいけないんだ」
「そうなの?」
「ああ、悲しいことだけれどね。その大切な人に毒を飲ませて、倒れたところを首を絞めて、ね」
おじいちゃんがぽつりぽつり語るのを聞いて、僕は息を呑んだ。
「サヨナラって……そういうことなの? そんなのだめだよ。今からでもあの人、止めにいこうよ」
本を抱えたまま椅子から飛び降りた僕に、おじいちゃんは柔らかに言った。
「おじいちゃんだってそうしたいさ。でもね、止める方法なんて分からないものなんだよ」
おじいちゃんはいつも、そう話していた。
若い頃は、危険だと思ったことや悲しい出来事は、予知できるのなら回避すべきだと考えていたらしい。だから、未来を変えるために色々手を尽くしてきたそうだ。でも、案外上手くはいかないもののようで。
「さっきの人が殺し屋で、大好きな人に秘密でそんな仕事をしていて、仕事から足を洗って幸せになろうとした矢先に舞い込んできたのが、大企業の社長令嬢である恋人の殺害だった……なんて、知っていても仕方ないんだ。だっておじいちゃんは、あの人が立ち寄った焼き菓子屋さんの店主に過ぎないから……」
「でもさ、だめだよって言ったら、やめたかもしれないよ。学校で教えてもらったよ。人を殺しちゃいけないんだよ」
僕はちょっとだけ、おじいちゃんを責めるように言った。それでもおじいちゃんは、こちらを見ずにふうとため息をつくばかりだった。
「人を殺すとの同じくらい、人を生き返らせちゃいけない……っていうのは、知ってるか?」
「えっ?」
「人の生死を、他人が操作しちゃだめだってことさ。それは生命への冒涜なんだよ」
おじいちゃんが難しい言葉をつかう。
「その感覚が分かると、おじいちゃんの言いたいことが分かるんじゃないかな」
僕は小学校に上がってから、前よりちょっと難しい本を読むようになった。でも、おじいちゃんの気持ちが分かるほどまでは、大人になれてはいない。
石油ストーブがシュンシュンと小さな音を洩らしている。おじいちゃんはカウンターに肘を乗せて、未だに扉を見つめていた。
「生きてる人が死ぬかもしれないのを、事前に止めるのは人としてしなくちゃいけないことだろう。でも、おじいちゃんが知ってるのはあくまで夢に過ぎない。起こりうる未来を変えてはいけないし、おじいちゃんに変える力があるわけでもない。悲しいことだけれどね」
それからおじいちゃんは、少しだけこちらに顔を向けた。
「それに、夢なんて忘れちゃうことだってあるしね。後になって思い出したりして、本当にやるせなくなるよ」
なにかを諦めてしまったような、寂しそうな笑顔だった。
「予知夢ほど無意味な力はないよ。先が見えたところで、なにもできやしない」
「でも、でも……」
おじいちゃんは、人が死ぬかもしれないのを見過ごした。
あの人が大切な人を殺さなくちゃいけなくなるのを見過ごした。
「でも」
でも僕は。
「知ってるよ。そうやって他人事みたいに思ってるふりして、本当はおじいちゃんすごく心を痛めてるの、知ってるよ」
生クリームのケーキの話をしたら、愛する人に届けたくて、ばかな真似はやめるかもしれない。
カードのスタンプを少しサービスされたら、もっとそんな気持ちが強くなるかもしれない。
おじいちゃんがそんなことを考えていたのは、子供の僕にだって分かる。
おじいちゃんは、雪の夜に夢を見る。いちばん冷たくて寂しい夜に、冷たくて寂しい予知夢を見る。
予知夢ほど無意味な力はない。先が見えたところで、なにもできやしない。そんなただ、見えてしまった自分の無力さをひたすら感じさせられる悲しい力を持って、いちばん苦しめられているのはおじいちゃんかもしれない。優しい人だから、苦しんでいるのだ。
「おじいちゃんは、僕が死んじゃう夢を見ても、成り行きに任せるのかなあ」
思わずぽつりと零したら、おじいちゃんはこちらに傾けていた顔を再び扉の方へと向けてしまった。
「そうだなあ……どうするんだろうなあ。考えたくないな……」
くたっと崩れ落ちるみたいに、おじいちゃんはカウンターに前屈みになった。
おじいちゃんがいちばん苦しんでいるのを分かっているくせに、僕は非道な質問をしてしまったのだと気づいた。
「ごめんね」
そんな夢を見てしまうのが、おじいちゃんにとってすごく怖いことだと、ちゃんと分かっていたのに。
お店の窓から外の闇が見える。白い雪は今も、はらはらと舞っている。
「夢の内容を、後になって追加されるように思い出すときがあるよ」
おじいちゃんの声が、静かな店内で反響せず、消える。
「生クリームのケーキ、食べたかった……って、そう泣いていたんだ」
愛する人と一緒に、生クリームのケーキを食べたかった。
せめてスタンプが貯まるまで、彼女と同じ時を過ごせたら。雪景色のような美しいケーキを、愛する人と分け合えたら。
あの緑のコートの男はきっと、おじいちゃんが全部知っていたことなんて思いもせずに、泣いたのだろう。
「さよなら」
おじいちゃんは消え入りそうな声で言った。僕も、おじいちゃんの終わった夢に別れを告げた。
さよなら、憂いのある殺し屋さん。さよなら、彼を愛した人。
窓の外は、静寂の白い闇に包まれていた。
天使は生クリームの夢を見る 植原翠/授賞&重版 @sui-uehara
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