In early spring -春先に-

植原翠/『浅倉さん、怪異です!』発売

In early spring -春先に-

 美容院は苦手だ。美容師さんが話しかけてくるのが、とにかく苦手だ。

 だから私は、美容院は絶対「ミントグリーン」にしか行かないし、美容師はオーナーの「梶原さん」を指名している。


「ハルちゃんちょっと久しぶりだねえ。最後に来たの秋じゃない? 四ヶ月ぶりくらい?」

 梶原さんは三十代半ばのお兄さんである。思いっきり脱色した髪と黒縁眼鏡、ゆるめのファッションが特徴的な、いかにも美容系のお仕事をしている雰囲気がビシバシ伝わってくる人だ。

「はい、最近は髪を伸ばしてたので」

 冬から春に変わりかけた、少しだけ暖かい日のことだ。

 私はその日、背中まである黒いロングヘアを、ゴムで一本に束ねてこの美容室に訪れた。

 予約していたおかげで、私は待たずに席に案内された。大きな椅子に腰掛けて、正面の鏡に向かい合う。梶原さんが私の首にタオルを巻き、お店の名前どおりミントグリーンのクロスをかける。ヘアゴムをほどくと、真っ黒な髪が鬱陶しく肩に広がった。後ろに立つ梶原さんと、鏡越しに目が合った。

「今読んでるの、『春の恋人』だっけ?」

「そうです、その四巻から」

 この美容院のお気に入りポイントは、これなのだ。

 梶原さんは、お喋りをしてこない美容師なのだ。というと語弊があるのだが、喋りたくない人には無理に話しかけず、漫画や雑誌に熱中させてくれる。読んでいる間は、必要な呼びかけ以外無言で作業してくれるのだ。お喋りが苦手な私にはうってつけである。

 梶原さんは私の元へ紅茶と、漫画「春の恋人」を持ってきた。途中まで読んであった四巻と、そこからの続きを三冊ほどまとめて置いてくれる。

「いつもどおり、カットで毛先を整える?」

 彼は私の髪を肩から背中に下ろしつつ聞いた。私は鏡の中の重たい髪の自分に苦笑いした。

「いえ、今日は肩までバッサリでお願いします」

「おおっ、珍しいね」

「あと、カラーも。明るい色にしてください」

「ハルちゃんが色入れるの初めてじゃない!? イメチェン? 春だしねえ、心機一転、思い切るのもいいよね」

 梶原さんは目を丸くしつつ、私をシャンプー席へ案内した。移動した私は斜めに倒れた背もたれに首を寝かせる。

「ええ、そうですね……イメチェンです。もう黒髪を伸ばすの、やめることにしたんです」

「へえー、折角伸ばしたのに、なんかちょっと勿体ない感じもするけどねえ。でもハルちゃんなら明るい色のボブもかわいいだろうね」

 梶原さんの笑顔が、折りたたまれたガーゼで見えなくなる。私の顔をガーゼで覆って、彼はシャンプーの準備をはじめた。シャワーのお湯が彼の手で温度を確かめられている、心地よい音が聞こえた。

「俺はさ、初めてカラーしたの、たしか小学生の頃だったわ。恰好つけていきなり金髪にして、先生にめっちゃ怒られたよ」

 シャンプーの間は流石に漫画を読んでいるわけにもいかない。この間だけは、いつも少しだけ梶原さんとお喋りをする。といっても、間が持たなくて気まずくなるほどの拘束時間でもないので、これはさほど苦にならない。

「でさ、元の色に戻してこい! って叱られたから、次の日また染めて、今度は銀髪にしてやったの」

「あははっ、元の色じゃないし!」

 梶原さんの話は面白くて、ガーゼの下で笑ってしまった。

 美容院で髪を洗ってもらうのは、とても気持ちがいい。梶原さんの指が程よい強さで頭をマッサージしてくれて、シャンプーの泡のシャワシャワした音が鼓膜を擽って、リラックスのあまり眠たくなる。

 シャンプーが終わり、私はまた元の席に移動した。これから髪を乾かし、カットに入る。ここからは、もう漫画に没頭しているだけでいい。

 漫画を手に持って開く前に、私はぽつりと呟いた。

「梶原さんはいいなあ。お喋りが上手で」

「んっ?」

 タオルで私の髪を擦っていた梶原さんが、こちらに顔を向けた。私は鏡の中の彼を見上げる。

「美容師さんって、どんなお客さんとも上手に話を繋げてお喋りするでしょ。絡みづらい人とかもいるはずなのに、不自然なくお話を盛り上げて……本当にすごいと思う」

「そんなすごいもんじゃないよ。それも仕事だもん」

 梶原さんは眼鏡の奥で笑い、タオルを動かした。

 たとえ、仮に私にカットの技術があったとしても、世間話ができなくて美容師は務まらない。

「いやあ、本当にきれいな髪だな。真っ黒で艶があって」

 梶原さんが私の髪をタオルで撫でる。

「こういう、少し緑がかった黒髪はミネラルたっぷりの健康な髪なんだよ。めっちゃくちゃきれいなんだぞ」

 染めてしまうのを惜しむように言う彼に、私はばっさりと返した。

「うーん、でももう、要らない」

 もう伸ばす必要も、黒髪である必要もない。

「彼が『長い黒髪が好き』って言ったから、伸ばしてたんですけどね。もう意味がないので、切って染めてしまうことにしたんです」

「……およ」

 梶原さんは、深く突っ込んではこなかった。ただいつもどおりの微笑みで、ドライヤーの準備をはじめているだけ。

 私は鏡に映った梶原さんの派手な髪を見ていた。

「私……喋るのが本当に苦手で」

 黙っていようと思っていたのに、私は自然と口をついていた。

「折角、好きな人と仲良くなれそうだったのに、口下手だったせいで上手くいかなくて……話してて楽しくない、遠慮してる感じがするって言われて、ふられちゃいました」

 梶原さんの話しやすさに引きずられて、ズルズル喋ってしまう。

「だからもう、黒くて長い髪は必要なくなったんです」

 失恋で髪を切るなんて、ベタすぎる。しかも暗い。

 こんなの、梶原さんだって突っ込みづらいだろう。よくいる面倒くさい奴が出たなと思われているに違いない。

 梶原さんは、私の背後でドライヤーのコードをくるくるほどいていた。

「俺も本当は、喋るの得意じゃないんだよ。休みの日は家でゴロ寝しながら漫画読んでるからね」

「梶原さん、漫画が好きですもんね」

 お店にも多種多様な漫画を取り揃えている。どれも、彼の趣味だ。オーナーの権限で、彼の私物の漫画を置いているのである。

「だから俺も自分が美容院に行く客のときは、知らねえ美容師とゴチャゴチャお喋りさせられるの、苦手だった」

「えっ、梶原さんも?」

 それは意外だ。梶原さんがドライヤーの風を手で受け止めて具合を見ている。

「そうだよ。そういうお客さんの気持ちが痛いほど分かるから、こうして漫画を置かせてもらってんの。美容院にいるときくらいは、リラックスしてほしいからね」

 私は鏡ではなく、本物の梶原さんに目を向けた。

「でも、美容師さんってお喋りですよね? 梶原さんだって、上手に喋ってる」

「うん、美容師ってね。お客さんと喋ることでそのお客さんの性格とか、話し方とか聞いて、その人のキャラに似合う髪型を考えながら作業するんだよ。だからたくさん喋って聞き出すんだよね」

「そうなんですか……!」

 私が目をぱちくりさせていると、梶原さんはにっこり微笑んだ。

「でも、『本に没頭したい』と思うタイプであるというのも充分個性だから、俺はそれでいいと思う。なによりリラックスしてほしいから、ハルちゃんみたいな人は無理に話さなくていいんだよ」

 知らなかった、美容師さんがお喋りなのはただ無言になって気まずいのを回避するためではなかったのか。

 梶原さんは私の髪に温かな風を当てた。

「ハルちゃんは無理に話さなくてもいいんだけどね。でも、今の話を聞いて、俺ね」

 梶原さんの微笑みが、鏡に映る。私の黒髪がドライヤーの風で揺れる。

「ハルちゃんのこと、とびきりかわいくしてあげないとなあって、思ったよ」

 彼の無邪気な笑い方が、私の口角を自然と浮かせる。

「あなたが私をかわいくしてくれたら、きっと私、自分に自信を持てるようになりますね」

「そうだね、そうしたらすぐに新しい恋が始まるよ」


 美容師のお喋りも、悪くない。

 私は店の外に見える眩しい街並みに、目を細めた。

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