AM2:31

植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売

AM2:31

「すまん愛子! 俺が悪かった!」

 俺の叫び声は虚しく、真冬の寒空に消えた。

 先程部屋で見た時計は午前二時過ぎを示していた。こんな真夜中に、それもこんなに寒い時期に、ネクタイも外してしまった薄着で閉め出しをくらうなんて。

 市営の小さな団地の一室が、俺と愛子の家である。冬場のこの安いボロ団地は死ぬほど寒い。部屋の中なら暖房が効いているし隙間風も殆どないのだが、ひとたび玄関の向こうへ出れば、コンクリートでガチガチの床、上下に向かって伸びる階段、その階段側は壁がないので、真冬の凍てつく風が飛び込んでくるのだ。

 階段側から真夜中の空が覗いている。真っ黒に塗り潰されて、星はなかった。コンクリの壁にくっつけられた照明も、もうとっくに消灯している。

 俺というバカは、そんなマイナス気温の真っ暗闇につまみ出されてしまったのだ。

 明るい時間であれば、真ん前には逆転した間取りのお向かいの部屋のドアが見えるはずだった。ただ、今は自分の手のひらさえ霞んで見えるほど暗くて、お向かいのドアなんか暗闇に呑まれてしまっている。

 俺はしばらく、自分の家の金属板のドアをガンガン叩いていた。

「愛子、愛子開けて。ごめんなさい。寒いです。開けてください」

 必死の懇願も虚しく、嫁はドアを開けてはくれなかった。

 とりあえずだ。嫁が許してくれるまでここで待機しよう。ドアにもたれかかって座り込み、両手で腕をさする。息が白い。

「奥さん、怒らせちゃいましたあ?」

 突然、声をかけられた。びくっと周りを見渡したが、真っ暗で何も見えない。でも、この声には聞き覚えがある。

 先日お向かいに引っ越してきた新婚夫婦の片割れだ。二十代前半くらいの、金髪の軽薄そうな男とかわいらしい顔をした女の夫婦だ。

「奥さん、怒らせたんすね?」

 今話しかけてきているこの声は、夫の方。金髪のアホヅラの方だ。

「そう、だよ」

 暗闇の中を探るように返事をした。男の声はふふふっと笑った。

「奇遇っすね、俺もっす」

 力の抜けた、たらたらとした話し方だった。冷たいコンクリートの上ではやけに人間くさい温かみを感じる。

 たまにすれ違って会釈する程度で彼とは会話を交わしたことがなかったが、この妙な境遇に置かれて初めてまともに会話した。

「殴る蹴るの暴行の果てに外に放り出されたよ……」

「一体何やったんすか?」

「キャバクラの名刺が嫁に見つかってしまって……」

「へえ、お盛んっすね」

「いや、付き合いだから! 会社の付き合い!」

 ちょっと呆れたようなバカにしたような口調になった男に慌てて言い返す。男はふははっと軽快に笑った。

「はいはい。でも楽しかったんでしょ」

「……まあ」

 嫁が怒るのも無理もない。若い女の子のお店でこんな時間まで飲んで遊んでいたのだ。家で待っていた嫁からすれば腹が立つのも当然だろう。

「でもまあ、よくその程度の軽傷ですみましたよ」

 へへ、と男の笑い声がした。やはり、暗くて姿は見えない。

「うちの嫁だったら、生きたまま捌いて刺身にしてますね」

「おいおい、お前んちの奥さんそんなに猟奇的かよ」

 ははは、と乾いた笑い声をあげる。冷たい夜の闇に、響かずにしんと吸い込まれた。向かいの男がため息をつく。

「俺も、その辺で引っ掛けた女の子と歩いてたら、うっかり嫁に見つかっちまいまして。同じく閉め出しくらってます」

「はは。そりゃあ殺されても文句言えねえなあ」

「つか、殺されたら文句言えねえっすよ」

 男がからから笑う。

「俺ら、バカっすよねえ。結婚して、大事な嫁さん貰って、一生大事にしようって思ってんのに、なぜだかふらふらっと他のところへ行きたくなる」

「お前と一緒にするな。俺は仕事の付き合いだ」

 反論してみたが、男は喋るのをやめなかった。

「そんで、女は怖い。我々の過ちは認めるっすけど、いくらなんでもこの仕打ちはないっす」

 男の力の抜けきった声が、冷たい空気に消えていく。俺は体育座りでため息をついた。たしかに、このクソ寒い中に配偶者を放り出すというのは鬼の所業である。

「嫁の方も大人だから、俺やお前みたいなバカがふらふらしちゃうのも分かってるとは思う。でも、そこで黙認しないでちゃんと喝を入れてくれるんだよな」

 俺は目を閉じて、深く呼吸した。悴んだ手の感覚がなくなってきている。だが一周回って寒さに少し慣れてきて、極寒のあまりに気が付かなかった匂いに意識が向いた。

「……ん? なんか変な匂いしない?」

「え? そうっすか? 何系の匂い?」

 男は間抜けな声を出していた。俺はすんすんと冷たい空気を鼻から吸い込んだ。

「何系……うーん。分からん。初めて嗅いだ匂いだけど……なんか、不快な匂いだな」

 魚を捌いたときみたいな匂いにも似ているが、独特の生臭さはない。匂いの正体が何なのか、嗅いで当てようとした。しかし寒さで鼻の感覚が死んでいて、いまいち感知できない。

「もしやお向かいのダンナ……奥さんが毒薬でも精製してるとか」

 向かいの男が不謹慎ないじわるを言った。

「うちの嫁はそんなことしません!」

「あははっ、冗談冗談」

「全く……お前、お嫁さんとのこと全然反省してねえだろ」

「してるっすよお。海より深く反省してるっすよ。こんな目に遭ったんすよ? もうしません……っていうか、できませんって、誓ってるっすよ……」

 男がふざけて声を裏返す。思わず俺も、ふははっと噴き出した。

 しょうもない奴ではあるが、そこもまた面白い奴だ。もっと早く仲良くなっていればよかった。同じことを考えていたか、男が言った。

「お向かいさんと話せてよかったわ。こんな形で話すとは思わなかったけど」

「俺も思ってたところだよ」

「うぃっす。あざす」

「今度飲みにでも行きたいね。お互いの嫁さんも一緒にさ」

 そう誘ってみたら、お向かいの男はへへ、とご機嫌に笑っていた。

 そこで、背中を預けていた我が家のドアが開いた。

「ごめん、慶ちゃん!」

 ドアが背中を押し退けてきて、体育座りだった俺はころんと転げそうになった。振り向くと、心配そうに眉を歪めた嫁が覗き込んでいた。玄関の明かりが洩れて、暗さに慣れた目に眩しい。

「ごめんね、もう怒ってない」

 部屋の明かりで目がチカチカするが、嫁が泣きそうな顔をしているのはなんとなく分かった。

「ああ、愛子」

 そうだ、折角だからお向かいさんを紹介しよう。

「この方___」

「何言ってるの、さっきから慶ちゃん一人でブツブツ言ってるのが聞こえたから、流石にまずいと思って……!」


 ___え。


 先程まで真っ暗だったコンクリートの床が、うちの玄関の明かりで照らされている。

 お向かいのドアの前には、異様な臭気を放つ真っ赤なゴミ袋が一つ、放り出されていた。


 もうしません……っていうか、できません。

 過ちは認めるっすけど、いくらなんでもこの仕打ちはないっす。

 殺されたら文句言えねえっすよ。


 うちの嫁だったら、生きたまま捌いて刺身にしてますね。



 彼の言葉が、今になって俺の頭の中でずっしりと質量を増す。

 口をしっかり固く縛られたゴミ袋は、暗闇の中で静かに壁に横たわっていた。

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