正義の味方

植原翠/授賞&重版

正義の味方

 僕には、人を殺す権利がある。

 と言ってしまうと聞こえは悪いが、要は犯罪者を懲らしめる立場にあるという意味だ。これは国に認められた権利であり、この日本を守るために必要な権利である。





『求む! 正義感の強いヒーロー!』

 その求人を見た僕は、ヒーローショーのバイトなのだと思った。でもよく見たらそうではなさそうで。

『自分のペースで働ける! 頑張った分だけ評価される歩合制!』

 求人誌を捲っていた手を止めて、僕は首を捻った。

 ヒーローショーであれば、自分のペースで、ということはないだろうし、歩合制というのも引っかかる。

 内容を詳しく見ると、履歴書不要、即日採用あり、頑張りによっては正社員にもなれる、とのことだ。

 あまりにもうまい話だが、これが本当ならこんなチャンスをみすみす逃せない。

『あなたの正義で未来を変えませんか?』

 子供の頃から正義感だけは一丁前だった僕は、思い切ってこのバイト先の会社に電話をかけたのだった。


 会社に足を運んだのはその翌日のことである。

「ようこそ! ピース&ジャスティスカンパニーへ」

 出迎えてくれたのは事務服を着たかわいらしいお姉さんだった。僕はぺこっと頭を下げた。

「バイトの募集に応募した清川です。今日はよろしくお願いします」

 ピース&ジャスティスカンパニーは、市内の街中エリアの、雑居ビルの二階にあった。外観は薄汚れていて、他の階には怪しげなパブなんかが入っていてあまり好印象ではなかった。が、この会社が入っている階は壁も床もきれいに磨かれていて、外からは想像できないような清潔さだった。

「早速、こちらへどうぞ」

 事務員のお姉さんが僕を案内する。

 連れてこられたのは真っ白な壁に囲まれた、四畳半ほどの部屋だった。真ん中にポツンと、テーブルとパイプ椅子がある。テーブルの上には紙と鉛筆、それから紙コップに入ったお茶。

「このエントリーシートに、清川さんの経歴を書いてください」

 事務員さんに促されるまま、僕は椅子に腰掛けて鉛筆を取った。履歴書不要とのことだったが、ここで似たようなものを書くようだ。

 紙にはいくつかの質問と、それに回答するカッコがある。

 まず、名前、性別、年齢、住所。至って普通の履歴書と同じような項目である。

 清川正、男。二十一歳の大学生、住所は同市内。

 埋めていくと次は、家族構成や出身校についての質問だった。

 父親は警察官、母はパート。きょうだいはなし。

 出身校でいじめはあったかどうか、なんて質問もあるが、これは多分、僕の正義感を試す意味での設問だろう。僕は嘘をつかず、自分自身が中高と軽いいじめにあっていた旨を書いた。

 いじめの理由がいじめられっ子を庇ったことであることまで、きちんと書いておいた。

 ひと口、紙コップのお茶を口にした。ほうじ茶を甘くしたような、変わった味の茶である。

 エントリーシートには好きなテレビ番組や子供の頃の将来の夢なんかを書く欄まであった。僕は子供の頃から好きな特撮ヒーローの名前を書いて 、夢の欄にも、そのヒーローになりたかったとを書いた。

 思い起こせば、僕は幼い頃から正義の味方になりたかったのである。学校でいじめられている人を見ると放っておけなかったのは、弱いものいじめが許せなかったからだ。勧善懲悪のストーリーを見てはヒーローの格好いい姿に憧れ、僕もそんな風になりたいと、心から思っていたのである。


 エントリーシートを書き終えると、事務員さんがそれを持って部屋を出ていった。僕は残っていたお茶を飲み干した。なんだか体が熱くなってくる。部屋に窓ひとつないせいだろうか。

 数分後、今度は白衣のおじさんがふたり入ってきた。

「清川正くん、おめでとう。エントリーシートを確認させてもらったところ、君は素晴らしい正義感の持ち主だ。正義の味方に相応しい。ピース&ジャスティスカンパニーのバイトに採用いたします」

 白衣のおじさんの片方がそう言い、僕に小さな拍手を送った。あっという間に採用され、僕は戸惑いながらも嬉しくて頬を紅潮させた。

「あっ、ありがとうございます!」

「早速今日から、お仕事をお願いできるかな?」

「はい!」

 すごい、採用されてその日から仕事があるのか。目を輝かせる僕に、おじさんはにこやかに笑った。

「それでは、このゴーグルとナイフを支給します」

 そう言った彼の横にいたもうひとりが、テーブルの上に赤いゴーグルと銀のナイフを置いた。

「……えっ、何ですか、これ」

 ぎらつく刃物を前に、僕は思わず怯んだ。おじさんたちはにこにこ笑っている。

「募集内容を見てくれただろう? 君は正義の味方になったんだ」

 意味が分からなくて、僕は目をぱちくりさせた。おじさんが丁寧に続ける。

「正義の味方として、悪い奴を裁く仕事だよ」

「えっ?」

 つまりその銀色のナイフで、犯罪者に攻撃していいということなのか。

「でも、こんなものを持っていたらそれこそ犯罪じゃないですか?」

 戸惑う僕におじさんは首を振った。

「これは国から認められている事業だから、安心していいよ」

「国から?」

「知らないかい? 今政権を取っている政党は、十二年後までに日本の犯罪をゼロにするという公約を掲げているんだ。そのために、どんな小さな犯罪も、犯罪に繋がりそうな行為も、全て厳しく取り締まらなくちゃならない」

 おじさんは腕を組み、続けた。

「しかしながら日本の警察は腐っている。国家権力が悪いことをしているんだ。そんなだから日本はよくならないんだよ。そこで、一般市民から正義感の強い若者を募集して、こうして正義の味方になってもらうことになった」

 そうなのか。全く聞いたことがない話だが、なんだか妙に納得した。警察に限らず、政治家や教師なんかが犯罪を犯した事件が多々あって、信用ならないなと思っていたせいだろうか。このおじさんの説明には、信憑性を感じた。

「それで……僕には、正義の味方として犯罪を裁く適性があるってことですか?」

「そういうこと。話が早いね」

 おじさんは満足そうに頷いた。

「君には、人を殺す権利がある。と言ってしまうと聞こえは悪いが、要は犯罪者を懲らしめる立場にあるという意味だ。これは国に認められた権利であり、この日本を守るために必要な権利である。日本という国から犯罪をゼロにするため、君は重罪はもちろん軽犯罪も、犯罪に繋がりそうな行為の全ても許してはならない。徹底的に始末することが、清川くんの職務なんだ」

 淡々と語るおじさんを見上げて、僕はごくりと唾を飲んだ。

「ただのバイトに、そんな重い権利が与えられるんですか……?」

「バイトと銘打ってはいるのは、なるべく気軽に応募してもらうためなんだよ。よりたくさんの人に応募してもらって、適性のある人を探し出したいからね。まさに清川くんのような人に出会いたかったんだ」

 おじさんの笑顔に、僕ははあ、と感嘆した。そうか。僕はそんな広い窓口から入ってくるたくさんの応募者の中でも、すぐに採用してもらえるほどの適性のある人間だったというのか。

「ただ、この仕事は犯罪者やその予備軍を相手にする仕事だ。もちろん危険は付き物だよ。不安だったら、今なら引き返せるけど、どうするかい」

 おじさんに問われ、僕は一旦目を泳がせた。

 犯罪を犯すような人間なんて、何をするか分からない。返り討ちに遭うかもしれない。こんなナイフ一本で、戦えるのだろうか。

 でも、僕は意を決して頷いた。

「やります。やらせてください」

 小さい頃から、ヒーローになりたかった。悪い奴らを懲らしめる。そのためだったら僕は、自分の危険だって顧みない。

 おじさんはにっこりと、優しく笑った。

「それじゃあ、このゴーグルで顔を隠して。犯罪者たちに顔を覚えさせないためだ」

 おじさんが、机の上の分厚い赤いゴーグルを指さす。僕はそっとそれを手に取って、顔に被せた。

「このゴーグルを通して、君が裁いた犯罪を記録する。それが給与に反映するから、なるべく外さないのが望ましい」

 おじさんの声を聞きながら、頭の後ろでゴーグルのベルトを止めた。ゴーグルのレンズは黒く見えたが、実際に付けてみると視界はとてもクリアだった。思ったより軽いし、動きを制限される感じもない。

 胸がドキドキした。まるで変身ヒーローみたいだ。

「じゃあ、今日は帰っていいよ」

 おじさんにあっさり言われ、僕はきょとんとした。

「え、説明はこれだけなんですか?」

「うん。あれ? 何か分からないことでもあるのかい?」

「いろいろ分からないです。本当にナイフで怪我なんかさせても大丈夫なのか、とか」

 たとえ悪人でも、怪我をさせたらいけないと思うのだが。しかしおじさんはにこやかに首を傾けた。

「嫌だったら、ナイフは使わなくてもいいんだよ。丸腰だと危険だから支給してるだけ」

 おじさんは、穏やかに目を細めていた。

「『悪』と『正義』の基準も君に任せるよ。十二年後までに犯罪がなくなるように、取り締まってくれればいい。それだけだよ」

 おじさんはそれだけ言って、部屋のドアを開けた。僕はこくりと頷いて、部屋を出た。


 *


 とはいっても、犯罪者なんてそうたくさんいるものではない。殆どが善良な市民なのである。

 とりあえず今日は家に帰ることにしよう。外に出かけるときはこのゴーグルを付けてナイフを持ち歩くようにして、犯罪者を見つけ次第裁けばいいのだ。

 求人誌に書いてあったとおり、そこは僕のペースでいい。わざわざ犯罪者を探してもいいけれど、いつもどおりに日常を過ごして、その中で見つけたら裁くのでもいい。

 ゴーグルなんか付けていたら目立って仕方ないと思ったのだが、人間は案外他人に無関心なのか、誰も僕の方を振り向いたりしなかった。僕が知らなかっただけで、このゴーグルやこの事業は世間的には有名だったのかもしれない。

 帰りの電車はそれなりに乗客が多くて、満員という程でもないが椅子には座れなかった。押し潰されるくらい混んでいるのではないけれど、余計な身動きは取れそうにない。電車が動き出す。ドアに寄りかかってぼんやり外を見ていると、ふいに、女の人の小さな声が鼓膜に届いてきた。

「……や、やめてください」

 僕の真横にいる、会社員らしきスーツの女の人だ。その後ろには五十代くらいの男がそっぽを向いている。

「やめてください」

 女の人がもう一度呟いた。痴漢だ、と察した僕は、しばし目を伏せた。

 痴漢は許せない。でも冤罪だったら、この男の人生をぶち壊してしまう。悩んだが僕は、鞄に忍ばせたナイフのことを思い出した。そうだ、僕は悪を裁くバイトをしているのだった。これはまさに裁きの対象なのではないか。

「あ、あの」

 思い切って、女の人の腕を引っ張った。彼女の後ろにいた男を睨み、低い声を出す。

「やめてください。次の駅で降りましょう」

 威嚇したつもりだったのだが、声が震えていた。男は僕を睨み返し息を呑んでいた。そして電車が止まってドアが開いた瞬間、逃げ出すように車両を降りていなくなった。

 僕はほっと胸を撫で下ろした。大きなため息をついた僕に、女の人が泣きそうな声で言った。

「ありがとうございます」

「いえ……大丈夫ですか」

「はい。助かりました」

 そのやりとりを見ていた、他の乗客が歓声を上げた。ところどころから拍手が沸き起こる。僕はびっくりしてなんだか照れくさくなり、思わず最寄り駅ではないのに電車を降りて立ち去ってしまった。


 *


 恥ずかしくなって逃げてしまったが、駅を出る頃には僕は笑みが溢れ出していた。早速、悪人を懲らしめた。会社のおじさんが評価したとおり、僕はこの仕事は向いているのかもしれない。

 ふと、僕は自分が中学生だった頃を思い出した。

 学校でいじめにあうクラスメイトを庇ったら、なぜか僕が笑い者にされた。いじめのターゲットは僕に転移し、それから卒業しても、そのイメージは付きまとって、高校でもいじめられた。僕は正しい行いをしたはずなのに、褒められずにその人権を踏み躙られたのだ。

 だが今回はどうだ。思い切って女性を助けたら、車両にいた乗客たちが僕を褒め称えた。正しい判断が、正しく認められた。こんなに気持ちのいいことはない。

 やはり僕はこの仕事に向いている。引き続き、犯罪者を捕らえていこう。駅から自宅まで歩くついでに、周囲に目を光らせた。

 商店街に出た辺りで、悲鳴が聞こえた。

「引ったくりよー! 誰か捕まえて!」

 おばさんの声と、バイクの轟音が響く。僕はその方向を振り返った。犯罪者だ。裁かなくては。

 だが、そのバイクの男を見てびくっと怯んだ。

 黒塗りの大きなバイクに、岩のような大男が乗っている。手には女性物のハンドバッグを掴んでいて、引ったくりだとひと目で分かる。だが、その巨躯を前に、僕は足が竦んで動けなかった。バイクはこちらに向かってくる。飛び出せば邪魔ができる。でも、それをするのは自分の身が危険だ。

 自分が怪我をしてまで、見ず知らずのおばさんを助ける必要があるだろうか。

 そんなことを思いはじめた頃には、もうバイクは僕の目の前を通り過ぎて商店街を走り抜けていった。


 *


 犯罪者を見過ごしてしまったが、あれは仕方がなかった。だって僕がはねられたら怪我をしてしまうし、万が一大丈夫だったとしても、あんな大きな男と対峙して勝てるはずがない。

 とぼとぼ歩いていると、電機店のショーウィンドウが目に入った。中に展示されたテレビがローカルニュース番組を垂れ流している。

『ほたる線の電車内で、十七歳の女子高校生の下半身を触ったなどの容疑で、会社員の五十代の男が逮捕されました』

 報道を聞いて、僕は立ち止まった。ほたる線といえば僕がつい先程まで乗っていた電車だ。

 逮捕されたという男の顔が映し出される。痴漢で顔出しで報道されるのは珍しい気がしたが、それ以上にその顔に僕は凍りついた。

 この顔は、僕が注意した男ではないか。

 この男が逃げ出した後で、誰かが追いかけて通報したのだろうか。いや、しかし僕が助けたのは女子高校生ではない。スーツを着ていたし、会社員だったと思われる。少なくとも僕より年上だった。

 ということは、あの痴漢男は車両を降りて他の車両に乗り換え、また別の女性に痴漢をしていたということか。

 僕はショーウィンドウのテレビの前で項垂れた。

 悪人を倒した気になって、浮かれた僕がバカだった。あれは追い払ったのではない。取り逃してしまったのだ。僕がきちんととどめを刺さなかったから、別の人が被害に遭ってしまったではないか。

 そうだ、僕はナイフを渡されていた。これはきっと、この世の屑のような悪人たちは、死ぬまで更生なんかしないから手渡されたものだったのだ。この痴漢男のような人間は何度も同じことを繰り返す。十二年後もきっと同じだろう。

 僕は鞄の中に手を入れて、ナイフの柄を握りしめた。

 この痴漢男も、僕が逃がした引ったくりも、死なないと治らない。死なないと、犯罪はなくならない。

 ここで立ち竦んでいても仕方がない。僕はため息を洩らして歩き出した。次は絶対に裁こう。中途半端に逃がしてはだめだ。

 数件先のコンビニの前を通り過ぎようとしたら、高校生くらいの少年が四人ほど固まっているのが見えた。コンビニの建物の脇に集まって、何やらひとりの学生を追い詰めているようである。

「ようケンちゃん、中学卒業以来だなあ。元気でやってんの?」

「財布こんだけかよ、シケてんな」

 白昼堂々、カツアゲだ。よく見たら煙草を咥えている。どう見ても未成年なのに、喫煙までしているようだ。

 僕はぐっとナイフを握りしめた。追い詰められている気の弱そうな少年が、いじめを受けていた頃の僕自身に重なる。ヤンキー共への恐怖と怒りが入り交じる。だが、ビビっている場合ではない。僕には悪を裁く義務がある。

「おい! 何をしてる」

 向かっていくと、カツアゲをしていたヤンキーたちがギロリとこちらを睨んだ。

「なんだよ」

 鋭い目つきに、僕はピタッと足が止まった。でも臆してはいけない。

「恐喝、未成年の喫煙。暴行。お前らみたいなのがろくな大人になるはずない」

 あの痴漢男や引ったくりのように、社会の屑にしかならない。ここできちんと始末しないと、十二年後に間に合わない。

「悪人には、制裁を」

 僕は鞄からナイフを抜き取って突き出した。途端にヤンキーたちと、見ていた被害者までもがびくっと仰け反る。

「うわっ! なんだこいつ」

 躊躇してはだめだ。また見逃したら、別の人が被害者になる。ここで蹴りをつけなくては。

 僕は夢中になってナイフを振り回した。バスッと皮膚が切れる感触がする。目の前で血が吹き出して、ヤンキーのひとりが崩れ落ちた。首から噴水みたいに血が湧き出している。それを見て逃げようとする残りのふたりにもナイフを突き立てた。ひとりは背中に、ひとりは胸に。それぞれ肉の中に刃がめり込んでいく感触がリアルに手指に染み付いていく。

 不思議なことにコンビニから出てくる他の客や通行人たちは、誰も僕を止めなかった。少し驚いた顔をするが、ただその成り行きを見つめるだけである。

 男たちがアスファルトに突っ伏してもがく。僕は横たわる彼らに、何度もナイフを突き刺した。

 やがて、三人ともぴくりとも動かなくなった。

 はあ、と大きな息をついた僕に、周囲からわあっと拍手が沸き起こった。

「助けてくださって、ありがとうございます!」

 追い詰められていた少年が僕の手を握って熱く叫んだ。ギャラリーたちが更に熱狂した。電車での反応と同じだ。僕の正しい行いが、正しく評価されている。

 そのとき僕はたしかな自覚を持った。僕は正義の味方となったのだ。十二年後までに繰り返されるはずだった喫煙未成年によるカツアゲを、三人分まとめて止めたのだ。


 *


 家に帰る前にスーパーに立ち寄った。夕飯の買い出しのためだ。だがもちろんゴーグルは外さない。犯罪者はこういうところにも潜んでいるかもしれない。

 店の自動ドアを潜ろうとした瞬間、五歳に満たない程の小さな男の子が飛び出してきた。

「わあん、ママどこ?」

 手には食玩を持っている。僕は男の子の前に立ちはだかった。

「君、何を持ってるの? レジは通ったの?」

「レジ? 分かんないよお。ママがいなくなっちゃったの」

 僕の言うことにまともな返事もせず、泣き喚いている。僕はしゃがんで、子供の目線に合わせた。

「レジを通さずに、それを持ってお店から出ちゃだめだ」

「ママどこー!?」

 わんわん泣くばかりで、この男の子は食玩のことをしらばっくれる。僕は鞄の中のナイフを握りしめた。

「たっくん! ここにいたのね」

 若い女性の声が飛んできた。男の子が甲高い奇声を上げた。

「ママー!」

 この子供の母親が、店から飛び出てきたようだ。

「ごめんなさい、この子ったらお菓子に夢中になってるうちにお店の中で迷子になっちゃったみたいで。ほら、そのおもちゃピッてするから、おいで」

 母親が子供の手を引っ張る。しかし僕は、その反対側の子供の腕をひしっと掴んだ。

「万引きは犯罪だ」

 鞄からナイフを抜き取る。

 こういうガキは、大きくなったらカツアゲをするようになり、大人になったらあの痴漢男や引ったくりのようになるのだ。いくつになっても成長しないで、万引きを繰り返すに違いない。

 ヒッと息を止める母親を気にもせず、僕はナイフで子供の額を突き刺した。ドスッと固い、頭蓋骨の感触がした。

「きゃあああ!」

 子供が泣き喚いた。母親が子供を抱き寄せる。

「ごめんなさい! お店にはちゃんと謝って事情を説明します」

 こうやって甘やかす親がいるから、こんなガキが育つのだ。僕はナイフを振りかざし、女の首筋に突き立てた。

 ぴゅっと噴き出した鮮血がアスファルトに点々を描く。泣き叫ぶ子供がうるさいから、今度は喉笛を裂いて黙らせた。騒音も他人の迷惑になるから、仕方ない。

 店から出てきたエプロン姿の男性店員が、僕に頭を下げた。

「万引き犯を捕まえてくださって、ありがとうございます」

 僕はまたひとついいことをした。このガキと毒親がこの先おこなったであろう犯罪を、未然に防いだのだ。今盗まれた食玩も、無事に取り返した。

 そして僕は重大なことに気がついた。十二年後の未来に犯罪をなくすためには、こういった子供の教育から正さなくてはならないのだと。


 *


 僕はスーパーに寄るのはやめて、近隣の小学校へと急いだ。買い物なんか後回しにしないと、十二年後には間に合わない。それより優先して裁かなくてはならない犯罪者は、腐るほどいる。

 まず学級でいじめをするようなクソガキからだ。犯罪の芽は早めに摘まなくてはならない。

 校門を通り抜けようとしたら、ジャージ姿の女教師に声をかけられた。

「父兄の方ですか?」

「いえ……」

「失礼しました。業者の方でしょうか?」

 躊躇なく敷地に入る僕を警戒しているのが見え見えだ。僕はナイフを握りしめ、女のジャージの胸に突き刺した。

「僕は国に認められてこの活動をしてるんだ。僕の邪魔をしたら公務執行妨害だ。犯罪だ」

 黒いジャージが切れて、中の白いシャツが覗く。その白も既に真っ赤に染め上げられて、女は自分の血を見て卒倒した。まず、ひとり。

 校舎の中に入り、廊下を走っている男の子をナイフで迎えうった。「廊下を走るな」という簡単なルールを守れないような子供は、法律だって守れない。

 テストの点数が悪いのを自慢している、バカそうなガキも後ろから刺した。こんな頭の悪い子供が、まともな大人になるはずがない。

 そんなガキ共を統制できない教師も同罪だ。一緒に遊んでいるような他の子供も、犯罪に加担する弱い人間に違いない。

 僕が迷いなく裁くたびに、近くで見ていた他の子供や教師が喝采を送ってくる。

「問題児を裁いてくださって、ありがとうございます!」

「喧嘩したお友達を裁いてくださって、ありがとうございます!」

 こいつらは、人が死んだことを喜んでいる。ろくな人間ではない。次はそのギャラリーたちに刃を立てると、また他の者たちが称賛した。

「ありがとうございます!」

 見ているだけで自分は行動できない、軟弱者共め。僕はまた、ナイフを振り回した。

 なんてことだ。この世は悪で溢れている。正しい僕が全部裁かなくては、十二年後に間に合わない。

 これができるのは、僕しかいない。

 僕には、人を殺す権利がある。

 と言ってしまうと聞こえは悪いが、要は犯罪者を懲らしめる立場にあるという意味だ。これは国に認められた権利であり、この日本を守るために必要な権利である。

 日本という国から犯罪をゼロにするため、僕は重罪はもちろん軽犯罪も、犯罪に繋がりそうな行為の全ても許してはならない。

 徹底的に始末することが、僕の職務なのだ。

「ありがとうございます!」

「ありがとうございます!」

 弱き者たちが僕を称える。僕は正しい。僕が、この世界を平和に導くのだから。

 そのときだ。

「そこのあなた! ナイフを捨てなさい!」

 歓声以外の声が、突然割り込んできた。

 振り向くと、スーツを着た強面の男と拳銃を持った女が僕の後ろに現れていた。

「なんですか?」

 僕はじろっとふたりを睨んだ。が、その一瞬の隙をつかれて僕は強面の男にいきなり腕を掴まれた。

「なんだよ! 離せよ!」

 ナイフで切りつけようとしたのだが、厳つい男の腕の力は強く抵抗できない。僕がもがいているうちに、女が僕のゴーグルに両手を添えた。

「やめろ! 僕の妨害をしたら犯罪だぞ」

 しかし、僕の腕を掴む男の手は緩まず、女は躊躇もなくゴーグルをずり上げた。

 瞬間、僕の視界は一転した。

「……えっ?」

 今まで僕は、小学校にいたはずだった。だというのに、僕の周りを取り囲むのは、蜘蛛の巣が張った汚い物置みたいな部屋だった。ごちゃごちゃ積まれたダンボールがそこら辺に散らかって、埃を撒いている。中には床に落ちて切り刻まれたものもあった。

「なんだこれ。どういうこと。僕は……小学校にいたんじゃないの?」

 手にはしっかり、ナイフを握っている。でも、そこに血は付いていない。

 事態が全く呑み込めなくて、僕はただただ目を回した。僕のゴーグルを奪った女が、僕の目を真っ直ぐに見つめた。

「あなたは清川正くんね。私たち警察が来たから、もう大丈夫」

「警察……?」

 僕は消えそうな声を出した。女が頷く。

「手短に説明するわね。あなたは薬で脳を混乱させられて、このゴーグルを通して仮想現実を見せられていた」

 カチャッと、女が僕の目の前にゴーグルをぶら下げる。

「ピース&ジャスティスカンパニーは、甘い求人広告で若い人材を集めて、人体実験をしていたのよ」

「人体実験?」

 僕は何も分からず、ただ言葉を繰り返した。

「人間はそれぞれ、違った価値観で違った正義を持っている。だから意見が食い違うことがあるし、場合によっては、正しくても多数派意見に押し流されてねじ曲げられてしまうこともある」

 女は早口に語った。

「そこでこのピース&ジャスティスカンパニーは、『自分の独善的な正義までもが全肯定される環境の中で、人間はどこまで正義のために残酷になれるのか』を実験していたの」

 独善的な正義、だと。

「自分に対して否定的な声をブロックしてしまうと、肯定的な声しか聞こえなくなる。そうなると、人は自分が正しいのだと錯覚してしまうのかもしれないわね」

 僕は言葉を失った。

「あなたは被験者にされていたの。変なお茶を飲まされなかった? あれは脳の感覚に狂わせる薬物が入ってた。肉体的感覚に異常をきたして、バーチャルの世界で見たものがリアルな体感として脳に伝わってしまうの」

 女の言葉が頭に響いてこない。足元に散らばった、刻まれたダンボールに目を落とす。僕の手には人を刺し殺した感覚が残っている。でも、たしかに目の前に落ちているのは、千切れた紙屑である。

「でももう大丈夫だからね。薬が抜けるまで、病院で療養すればすぐに元の生活に戻れるわ。あなたは比較的軽傷なのよ。中には何日も監禁されて、捜索願が出てる被験者もいる」

 女が勝手に話を進めている。僕はまだ、脳が処理しきれていなかった。

 この女が嘯く話が事実だったら、僕は変な薬で脳がやられて偽物の映像の中で踊らされていたことになる。そんなこと、有り得るはずがないのだ。

 開け放たれた扉の向こうで、喚き散らす男が連行されている。僕と同じくらいの歳の頃の男だった。寄り添うスーツの男が赤いゴーグルを腕に引っ掛けている。そんなのが、何組も通り過ぎていく。

「嘘だ」

 嘘に決まっている。

 じゃないと、僕の正義まで嘘になってしまう。

 僕は正しいのだ。僕は悪人を裁いて、将来起こる可能性があった凶悪な事件を未然に防いだ。だから、その被害者になるはずだった人々は僕を称えた。

「嘘じゃないわ。あなたに関するレポートだってもう出てる」

 女が言うと、僕を取り押さえていた大きな男がずいっと一枚のレポート用紙を突き出してきた。

『被験者No.36:清川正(大学生)

【エントリーシートによる見解】自己の感覚による正義に絶対の自信を持つ。自分だけが正しいと思っている。

【行動】自分より大きな相手には強く出られないケースが多いが、女、子供などの弱そうな相手には迷いなく攻撃する。独自のヒーロー観に酔う滑稽な姿を見せる』


「……嘘だ」

 こんなの、捏造だ。

 僕がエゴイスティックな正義を振りかざし、弱いものにばかり強気になる滑稽な男だなんて、そんなはずがない。僕は正しいのだ。僕にしか未来を変えることはできない。

「大丈夫。もう安心して」

 女が子供を宥めるみたいに優しい声を出す。僕はカタカタと肩を震わせた。

 嘘だ。こんなの有り得ない。嘘だ。僕は正義の味方だ。悪人を裁くのが仕事だ。国から特別に認められた特別な存在だ。

 そうだ、会社のおじさんが言ってた。警察は腐ってるんだ。お前らが間違ってる。

「わああああ!」

 僕は目の前にぶら下げられたレポート用紙を蹴り飛ばした。レポート用紙を摘んでいた大男がびくっと隙を見せ、その瞬間、僕の腕を掴んでいた手まで力を緩めた。僕は男の手を振りほどいて、握っていたナイフでクソ女の左目を突き刺した。

「僕を侮辱したな! 侮辱罪だ! 許されないぞ、十二年後までに犯罪をなくすんだ。お前らみたいなのを、根絶しなくちゃならないんだ!」

 ナイフの柄を両手で握って、僕はこの女を何度も何度も突き刺した。

 僕には、人を殺す権利がある。

 と言ってしまうと聞こえは悪いが、要は犯罪者を懲らしめる立場にあるという意味だ。これは国に認められた権利であり、この日本を守るために必要な権利である。

 日本という国から犯罪をゼロにするため、僕は重罪はもちろん軽犯罪も、犯罪に繋がりそうな行為の全ても許してはならない。

 徹底的に始末することが、僕の職務なのだ。

 嘘じゃない。だって僕は何度も見た。僕が悪人を死罪にすると、人々が僕を称えたのを、何度も何度も見た。

 だから僕は間違っていない。ひとつも間違っていない。僕を否定する者は、全部悪だ。


 銀のナイフが肉片を飛び散らせる。顔に噴きかかってくる生温かい血液が頬を伝う。周りのダンボールが次々と赤く染まっていく。

 薬で錯覚させられていたものとは、違う感触がした。

 僕は複数の警察官に雁字搦めにされるまで、夢中で裁きのナイフを振り続けた。

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