夜の白鯨
藤光
夜の白鯨
一日目。
大学。
大講義室の机は、桜並木に面した大窓から降り注ぐ月の光でぴかぴかと光っていた。窓際、いちばん奥の席に腰を下ろすと、窓越し、満開の桜の向こうに真ん丸な月が姿を見せていた。400人を収容する大講義室にわたしがひとりだけ。作業着を着た影法師がひとつ講義室の机の上に落ちる。
――いちどでいいから、ここに座ってみたかったんだよね。
いちばん後ろの席から見渡す大講義室は、正面遠くにみえる教壇の黒板には月光が差し込まず、暗くて見えない。壁に掛かっている白い時計の文字盤が、午後十時であることを示している。もうすぐ真夜中である。
だれもいなくて静かだ。
ひとに自慢できる仕事というわけではないけれどこういう時間は好きだ。夜を独り占めできる。
「おうい。佳純ちゃん。そろそろ始めるぞ」
「はあい」
宮森さんがあたしを探している。そろそろ清掃に取り掛からないと夜明けまでに仕事が終わらない。
わたしは学校やオフィス、工場などを専門に掃除する清掃会社で働いている。宮森さん、筧さんそしてわたしの三人は廊下やロビーの床を磨く床清掃専門のチームだ。今夜の仕事場は大学構内だ。
床清掃は、学校や企業に人のいない休日に行われる。今夜の仕事場である大学のように、夜間に清掃してほしいという依頼も多い。学生さんがやってくる朝までに清掃を終えるためには、ぼんやりしている時間はない。
「いま行きます」
わたしは講義室を出た。
床清掃は、ごみ・ほこりの清掃にはじまって、床の洗浄、拭き上げ、ワックスかけまで数時間はかかる作業である。効率的に清掃するにはチームワークが大切だ。わたしが床に掃除機をかけてごみを吸い取り、ベテランの宮森さんが
この夜は、大学講義棟の廊下をすべて清掃した。四階建て、全長で考えると数百メートルにもなる廊下を洗浄し終える頃には日付が変わり、午前二時になろうしていた。あとは廊下が乾くのをまってワックスをかけるだけである。
「飯にするか」
宮森さんの一言で、この日の夜食になった。ごはんを食べてもうひとがんばりだ。わたしたち三人は、四階の大講義室で弁当を広げた。大きく傾いた月の光が、教壇を明るく照らし出していた。大学ではどんな講義が行われているんだろう。教授はなんの話をするのかな。学生はどんなふうにそれを聞いているんだろう。この机でノートをとるんだな。こうして……こう?
「佳純ちゃん。楽しそうだな。大学が好きなのかい」
宮森さんが言う。筧さんもじっとわたしを見ている。あー恥ずかしい。思ってることが声に出ちゃったのかな。
「あの……はい」
わたしは文章を読み取ることが苦手で、文字を書くのも人よりずっとゆっくりとしかできない。中学、高校を通じてテストの点数はさんざん。二年前、大学には進学できず、いまの会社に就職した。
「そうか」
でも、先生の話を聞くことは大好きで、大学での講義にもとても興味があった。女子大生としての生活にも憧れていた。だから、きょうの仕事はとても楽しみにしてきた。華麗な正門。広大な敷地。いくつもある講義棟。何百人も収容する講義室。まっくらだけど、だれもいないけれど、はじめてやってきた憧れの大学。
ドレスはない、舞踏会もない、王子様もいないシンデレラ。
憧れの大学にきたわたしは、オーバーオールの作業服で弁当のおにぎりをほおばっていた。
「佳純ちゃん。ワックスかけは、おれと筧くんでやっとくから。休んでていいよ」
宮森さんがそう言ってくれたので、わたしはしらじらと夜が明けてくるころまで、大講義室の机を満喫した。この夜の床清掃は、特別に上手くできたと思う。翌朝、わたしが講義室を出ると、宮森さんと筧さんが塗ったワックスで廊下はぴかぴかに光っていたいた。わたしはとても清々しい心持で大学を後にした。
二日目。
美術館。
その夜は、なんかという建築家の設計になる美術館の床を清掃した。美術館は好きだ。文学に通ずる
「筧さん、ぼうっとしないで働いてくださいよ」
社員であるところの
創作のために仕事を辞め、自由な時間を得るためにアルバイトにしたはずだった。じっさいは仕事を辞めても創作の筆は進まず、ひとつも作品を仕上げることはできていなかった。毎晩、どこかしら学校や会社の床掃除をして日銭を稼いでいた。創作に使うはずの時間を、けっきょくアルバイトに使っていた。実入りが減っただけだった。
――母さんのいったとおり……か。
床の清掃を続けるうち、展示室の一番端、柱の陰になって人目につきにくい場所に、女の肖像画を見つけた。泣いている。くしゃくしゃに顔を
醜い絵だった。本来、人の肖像は美しく描くものなのに。画家がこの絵に描き出そうとしたものを考えて足がすくんだ。意図のない創作などない。
母さんだ――と思った。
母は泣く女だった。
母との生活に疲れ切った父に捨てられた時も。創作をしたいとぼくが仕事を辞めたときも。母の思い通りにならないことがある度に泣き喚いた。泣くことで愛する対象を自分に繋ぎ止めようとしてきた。
――作家になんか、なれるわけないんだから。
目的のためには愛する者を傷つけることも厭わない。そんな激しさと残酷さがこの絵には描かれているのだ。画家は、そんな彼女を克明に描き出している。表層的な美しさが剥ぎ取られ、生の感情が噴出した瞬間に真実の美を感じた。そういう絵だ。
「もう! いつまで突っ立ってるんですか。早くしないと朝までに終わりませんよ!」
やばいやばい。ここには泣かない女――『怒る女』が現れた。生の感情を噴出させる小角さんも美しいけれど……そんなこと言ったら怒りだすんだろうな。ここは大人しく仕事を続けよう。まだ、夜は長いんだ。
三日目。
水族館。
仕事抜きにここへはよく来る。大水槽が見渡せるベンチに腰を下ろしてスナックパンをかじるのだ。きらきらと身体を光らせるロウニンアジの群れや、水中を滑空するように泳ぐイトマキエイ。地上最大の生物、シロナガスクジラなどを眺めて過ごす。食べかすをフロアに落とさない限り、朝から晩まで、だれに気兼ねすることなくずっとそうしていられる――水族館はそういう場所である。
「宮森さん、
「まあね」
この水族館自慢の大水槽をらせん状に取り巻くフロアに洗浄液を散布しながら、
「わたしも好きで、ひとりでも来ます」
「そうかい」
「眺めているだけで、癒されるっていうか。ずっと見てられますよね」
まったく佳純ちゃんの言うとおりだが、
私がポリッシャーを操作してフロアを洗浄し、佳純ちゃんと筧くんが汚水の拭き取りを担当する。今夜の清掃範囲はとても広いので、みんな黙々と作業をこなした。私も作業に集中する。やるべきことに深く、深く潜ってゆく。
四十を過ぎて、はじめて水族館に通うようになった。それまでは休日も仕事をしていて、遊びに出かけるなどということはなかったからだ。真面目な社員だったと思う。会社のために、顧客のために、文句も言わず朝から晩まで一生懸命に働いた。会社に貢献してきたという自負もあった。
しかし、真面目な社員というのは、会社にとって都合のいい社員ということに過ぎなかった。課長に昇進というタイミングで地方の営業所へ転勤することを打診された。「一、二年のことだから」。人事の言葉を真に受けて、転勤した先に三年、四年と留め置かれるうちに本社に残った同期はどんどん出世してゆき、何年も本社への転勤を切り出せない私は、妻から「もう一緒に暮らせない」と離婚を切り出された。彼女に言わせると、私は仕事ばかりで家族を顧みない夫ということらしかった。私なりに一生懸命やってきたことの結果がこれだというなら、すいぶんと人をばかにした話である。
フロアにワックスをかけ終えたのが、午前四時だった。私たち三人は、痺れたように疲れた身体をベンチの上に伸ばし、大水槽を眺めながら遅い夜食を取った。
営業していない水族館の大水槽は明りがなく、真っ暗で、タイが泳いでいるのか、エイが眠っているのかもよく分からない。でも、彼だけは私の前にその雄大な姿を見せてくれた。シロナガスクジラ。彼は水槽の奥底からゆっくりと浮上してくる。水面にその鼻面を突き上げると、地面が震えるような音を立てて15メートルの高さにまで潮を噴き上げるのだ。そして、真っ白な巨体をくねらせると、まっさかさまに海の底へと潜っているのである。その小さな目に私の姿を捉えながら――。
「メルヴィルの『白鯨』って知ってる?」
「小説でしょ。でもほらわたし本読めないから」
「筧くんは知ってるだろ」
「でも、水族館にシロナガスクジラはいませんよね」
「この水槽にいるのはジンベエザメね」
「いや……いるさ」
シロナガスクジラはいる。その真っ白な巨体は、私の目に焼き付いている。私に力を与えてくれる。もうすぐ夜が明ける。さあ、暗闇を掃き出して、朝日を迎え入れよう。
(了)
夜の白鯨 藤光 @gigan_280614
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