【米寿侍･田原総一朗がゆく！】 連作時代物series

不審の宿

　舟宿はほぼ満員というありさまで、真吾が何度も藩の中老、永沼の名を出しても、

『雑魚寝（ざこね）の相部屋でよろしければどうぞ』

と、同じ答えしか返ってこない。

　真吾が総一朗の指示を仰（あお）ごうと振り返ったとき、

「え……？」

と、真吾は声を上げそうになった。

　宿の女中か賄婦（まかないふ）かは判（わか）らないが、総一朗は一人の若き女人に視線のすべてを注いでいたのである。

「田原様、田原様……」

「ん……？　お、どうした？」

　真吾と宿の者とのやりとりを聴いていなかった総一朗に、真吾はもう一度最初から舟宿の事情を告げた。

「そうか……ならば、長谷川雨太夫どのの部屋に案内（あない）してもらい、ご中老からの伝言を告げよ」

「伝言……？　それは何のことでしょう？」

「なんでもいい、適当に挨拶を交わし、世間話で座をつないでおいてくれ。あとで行くから」

　そう言ったまま、先ほどの女人のあとを追っていく総一朗の背に、真吾は不審の視線を注がずにはいられなかった。

　　　　　　　　　○

　……その女の齢（よわい）はわからない。台所へ続く薄暗い廊下のせいではない。おそらく陽（ひ）の下（もと）でみたとしても、総一朗には女人の深層までは読み取れなかったにちがいない。

　かれが不審を抱（いだ）いたのは、女の身のこなし、足の運び方であった。両手におおきな膳台（ぜんだい）を抱えながら、ひとの間をひゅるりひゅりと交わしながら進んでいく。しかも、そのつど短い会話を交わしさえしていた。そのことに気をとられていたとしても、総一朗を責めるべきではあるまい。

　いやむしろ、その偶然の視点の転換が、総一朗にはおもわぬ展開をもたらしたのである。

　この舟宿の奉公人らしい中年男と交（かわ）した女の一言（いちごん）を、はっきりと総一朗は耳朶（じだ）に捉（とら）えた。

『……近江八幡（おうみはちまん）』

　そう聴こえた。

　遠地（えんち）ではないのにいまだ赴（おもむ）いたことはないが、総一朗は智識として蓄えている。書物を読み、有識者のことばに耳を傾け、記録し整理する。その記憶の抽斗（ひきだし）のなかに一度仕舞っておいたものを、臨機応変に取り出し、新しい情報に加味し、分析し、推測を重ねていく。これが論客としての総一朗の思考方法であった。

（近江八幡か……！）

　総一朗は声にしたつもりはなかったが、咄嗟の思念が、相手をして感得せしめるだけのなにがしかの振動をもたらしていたのかもしれない。

　ゴトッと音がし、中年男が総一朗の顔を睨んだ。

　鋭い眼光を放っていた。

　町人ではあるまい……と、総一朗はそう察した。と、女のほうがいきなり箸（はし）を投げてきた。

　目にも止まらぬ速さである。

　避（よ）けた総一朗の頬に朱（しゅ）がのぼった。

　怒りの発露であったろう。

　さらに包丁が何本も飛んできた。

　中腰のまま、総一朗は脇差を抜き、払い、打ち、そして、中年男をめがけて投げた。

「うっ」

　鈍い声が響いた。

　肩に刺さった……ようである。

　女が中年男をかばいながら、廊下を駆けていった。

「ふぅ」

　息を吐いた総一朗は、柱に突き刺さったままの箸（はし）の数本を見た。

　どうやら、先を鋭く尖（とが）らせていたようである。

「ちぇっ、なんという奴らだ」

　さすがに総一朗は無性に腹が立ってきた。

　この敵の主は、かれしかおるまい……。

　そう総一朗は察した。雨太夫の配下の忍びであったろう。

　総一朗は気を鎮（しず）めて、台所で水瓶（みずがめ）を探した。柄杓（ひしゃく）ですくうと、なにやら蠢く小虫がいたが、かまわずに呑んだ。

　戦いはこれからだ……。

　そう覚悟を決めた総一朗は、長谷川雨太夫が逗留している部屋へ向かった……。