米寿侍、咆哮せり

「な、なんと? 菊絵を……いや菊御前のほうからかみに暇乞いを願え……とな?」


 永沼太兵衛は絶句したまま、二の句が継げなかった。甥の真吾を総一朗に付き添わせたものの、三日三晩、総一朗と善右衛門の二人はささやかな酒宴を開き続け、語り合ったということである。いや、さらにそれから数日、姿を見せなかった総一朗は、いきなり現れたかとおもうと、開口一番、おのが企図きとを永沼の前に滔々とうとうと披露したのである。


「……、菊絵さまには、いまだ、お子をお産みなされてはおりませぬ」

「さ、さいわいじゃとぉ! 何たる言い草、何たる不敬、何たる不忠、何たる……」

「ご中老、お気をおしずまりなさいませ。そう、何たるも重ねては、に儲けさせるばかりですぞ」

「ぎゃあぁ、き、きさまぁ、そ、その……」

「そうです、そうです、そうですとも。女人の幸せは、つましくとも、いつも二人がそばにいるをつくるのが、これ、一番じゃと、いつでしたか、わたしと論争した京の学者が申されておりました」

「独り身のおまえに、な、なにが分かるというのか!」


 永沼中老は唾を唇に蓄え、さらに咳き込みながら前屈まえかがみに倒れ込む寸前に、そのからだを横から支えたのは真吾であった。

白湯さゆを、ご中老に……」

 頬に軽い笑みをたたえながら、総一朗が言った。うなづいた真吾は永沼の躰を起こしてから、座を立った。

「こ、これ、真吾、おまえは、いったい、誰の家来じゃ」

 実は総一朗に同行して以来、真吾が総一朗の話題を口にしない日はなく、そのことに永沼はこころよくおもっていないようであった。

「ま、ま、ご中老、ご中老、お気を確かに……」

 普段通りの口ぶりで総一朗が言う。

「おまえに、ちゅうちゅう言われると、こちらがねずみになってしもうたような心持ちになる……やめよ、やめよ」

「ま、そういうことでございますから」

「何がそういうことだ?」

「ま、世間では、菊絵さまの齢になると、中年増なかどしまと呼ばれるとか。殿様のお側におつかえする女人の方もおおございます。奥向おくむきの経費も、これ、かさみつつあるようで、経費削減の観点からも、ここはご中老から殿様に菊絵さまの御暇乞おいとまごいを願えれば、ほら、江戸にお住まいの御正室さまのご悋気りんきも少しは安まろうかと存じまする……」

「むむむ……」

 

 そこまでずけずけと指摘されれば、さすがに辣腕らつわんで知られる永沼もぐうのもでない。ご正室さまの嫉妬深さはこの本国まで伝わっていたからである。

 正室は江戸、側室は本国ほんごくに居るのがならわしである。江戸にいる正室は、いわば、幕府の人質のようなものである。


「ふん、おのれ、かくも遠慮配慮なく言いたいことをほざきおって」

「いえ、ご中老、そこでございます。りょ、でございますぞ」

「ん、何を申したいのじゃ」

「これを深慮と申さずしてなんと申せましょや。かりにです、永沼家のほうから菊絵さまの御暇乞いを自ら願い出られたと知ったご正室さまは、さぞや、そのご英断に深謝されますでありましょう。これ、すなわち、永沼家のご繁栄のいしずえ盤石ばんしゃく……これぞ、こちらの深慮を、あちらの深謝へとつなげていく、深々しんしんの計と申すもの」

「なにがしんしんだ! よしんば、そのほうの計を為さんと欲してもだ、菊絵が……菊御前が首を……」

「お待ち下されよ、すでに振られたのです、首を縦に……」


 一昨日、総一朗は単身にて菊絵に拝謁を願い、こちらの企図きと言上ごんじょうした上で、善右衛門の真情を伝えたのである。

 へのへのもへじ、と幼少の菊絵がいた半紙を手渡した総一朗は、翌日、つまり昨昼、再度菊絵に会って、内諾を得ていた。むしろ、菊絵のほうが肩身の狭い思いをしていたことも決断を促したきっかけともなったようであった。


「……どうして、そのほうのごとき微賤びせんの身で、いとも安安やすやすと菊御前をおとのうことができたのだ?」


 そう言ったものの永沼中老には察するところがあった。奥祐筆おくゆうひつをはじめ、奥付きの茶坊主、はては腰元こしもとにいたるまで、総一朗の評判は上々じょうじょうで、なかには、行人掛こうじんがかりというかれだけに与えられた特別の職掌しょくしょうを、中老ちゅうろうと同程度の地位と誤解していた者も少なからずいたようである。

 永沼は、

「……願いを奏上そうじょうしたとしてじゃ、かみがそれをお許しにならねば、わが永沼の家は……恥の上塗りと申すもの」

と、心の傾きの一端を吐露した。

「……そのご心配に及びますまい」

「ん……? すでに、奥祐筆おくゆうひつどのから、江戸のご正室さまへ使者を差し向けるように手配済みでございます」

「な、なに……?」

「あとはご中老直々に、菊絵どのの父君ふくんとして、同じことを願い出れば、事はうまく運びましょう。よしんば、殿様が逡巡しゅんじゅんなさるのなら、この総一朗が、説き伏せてみせましょう」

かみを説き伏せるなどと、二度と申すな。聴かなかったことにしてやるゆえ、早々に立ち去れ」

「は……けれど、あと一つ……」


 まだ総一朗には言い足りないことがあるとみえて、坐したままである。そして、永沼のうなづきを待たず、屋敷をそのまま与えよと進言したのである。


「……改装し、藩の道場にしてはいかが、と存ずる。小此木善右衛門という御仁ごじんほどのつかい手、御領内で二人とおりますまい。ここは藩営道場として、小此木様を師範代、あるいは剣術指南役にお命じになられれば、菊絵さまの御体面も保たれると……」

「我が娘をだしに使って、善右衛門を出世させよと……?」

「さにあらず。将軍家五代の御代みよとなり、ようやく世もひとのこころも、たいらかになりつつあります。やがては道場を、剣術だけではなく、各地から儒者や学者を招聘しょうへいし、家中の部屋住へやずみの者らを教え学ばせるが得策でありましょう。名付けて……」

「わかった、わかった、もうよい、考えておこう。の、総一朗、もう、ここらあたりでわしを解放してくれ」


 ため息混じりに永沼が言うと、総一朗は無言でこうべを垂れた。そのままり足で、急ぎ屋敷から出ると、門の傍らの巨石に腰をおろして腕組みしていた人物が立ち上がった。総一朗にすがりつくように前にたたずむと、唇を固く噛み締めている。

 小此木善右衛門……である。

 総一朗は何も発せず、ただ、頬に笑窪えくぼを浮かべた。

「ひゃあ」

 善右衛門が頓狂とんきょうな声をあげた。

「とは申せ……」

 総一朗が言った。

「……まだ一年ばかりは要しましょう。道場を広げ、壁なり屋根なりを修復いたさねばなりますまい。わたしも手伝いますゆえ」

「さ、さようか……」


 ぼそりと善右衛門がつぶやいた。

米寿べいじゅ……と冠された御仁だけに、おもわぬ寿ことぶきごとをもたらしてくれ申した」

「さにあらず」

 論客の顔に戻った総一朗は、思いついたことを口に出した。

「米という字……、ほら、十の字が、二つ重なっているようにも見えます」

 右かかとで総一朗は地をこするようにして、〈十〉を描き、重ねた。

 なるほど、善右衛門の目にも、〈十〉の文字が方向を変えて交わっているようにもみえた。

「つまりは……」

 と、総一朗は続ける。すでに歩き出していて、慌てて善右衛門がそのあとを追った。

「……十と十……、想いがかなった……というところでしょうか」

「ほ……! 米寿さん……あなたは不思議なお人じゃわい」

 善右衛門が言うと、総一朗はぴたりと足を停め、振り返って笑った。


「いやいや……あの菊絵さまが描かれた、あのに込められたあやしい力ほど、不可思議なものはございませぬぞ」



            (第一話・ 了 )



 

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