米寿侍、咆哮せり
「な、なんと? 菊絵を……いや菊御前のほうから
永沼太兵衛は絶句したまま、二の句が継げなかった。甥の真吾を総一朗に付き添わせたものの、三日三晩、総一朗と善右衛門の二人はささやかな酒宴を開き続け、語り合ったということである。いや、さらにそれから数日、姿を見せなかった総一朗は、いきなり現れたかとおもうと、開口一番、おのが
「……幸いにして、菊絵さまには、いまだ、お子をお産みなされてはおりませぬ」
「さ、さいわいじゃとぉ! 何たる言い草、何たる不敬、何たる不忠、何たる……」
「ご中老、お気をお
「ぎゃあぁ、き、きさまぁ、そ、その……」
「そうです、そうです、そうですとも。女人の幸せは、
「独り身のおまえに、な、なにが分かるというのか!」
永沼中老は唾を唇に蓄え、さらに咳き込みながら
「
頬に軽い笑みを
「こ、これ、真吾、おまえは、いったい、誰の家来じゃ」
実は総一朗に同行して以来、真吾が総一朗の話題を口にしない日はなく、そのことに永沼はこころよくおもっていないようであった。
「ま、ま、ご中老、ご中老、お気を確かに……」
普段通りの口ぶりで総一朗が言う。
「おまえに、ちゅうちゅう言われると、こちらが
「ま、そういうことでございますから」
「何がそういうことだ?」
「ま、世間では、菊絵さまの齢になると、
「むむむ……」
そこまでずけずけと指摘されれば、さすがに
正室は江戸、側室は
「ふん、おのれ、かくも遠慮配慮なく言いたいことをほざきおって」
「いえ、ご中老、そこでございます。りょ、でございますぞ」
「ん、何を申したいのじゃ」
「これを深慮と申さずしてなんと申せましょや。かりにです、永沼家のほうから菊絵さまの御暇乞いを自ら願い出られたと知ったご正室さまは、さぞや、そのご英断に深謝されますでありましょう。これ、すなわち、永沼家のご繁栄の
「なにがしんしんだ! よしんば、そのほうの計を為さんと欲してもだ、菊絵が……菊御前が首を……」
「お待ち下されよ、すでに振られたのです、首を縦に……」
一昨日、総一朗は単身にて菊絵に拝謁を願い、こちらの
へのへのもへじ、と幼少の菊絵が
「……どうして、そのほうのごとき
そう言ったものの永沼中老には察するところがあった。
永沼は、
「……願いを
と、心の傾きの一端を吐露した。
「……そのご心配に及びますまい」
「ん……? すでに、
「な、なに……?」
「あとはご中老直々に、菊絵どのの
「
「は……けれど、あと一つ……」
まだ総一朗には言い足りないことがあるとみえて、坐したままである。そして、永沼のうなづきを待たず、あの屋敷をそのまま二人に与えよと進言したのである。
「……改装し、藩の道場にしてはいかが、と存ずる。小此木善右衛門という
「我が娘をだしに使って、善右衛門を出世させよと……?」
「さにあらず。将軍家五代の
「わかった、わかった、もうよい、考えておこう。の、総一朗、もう、ここらあたりでわしを解放してくれ」
ため息混じりに永沼が言うと、総一朗は無言で
小此木善右衛門……である。
総一朗は何も発せず、ただ、頬に
「ひゃあ」
善右衛門が
「とは申せ……」
総一朗が言った。
「……まだ一年ばかりは要しましょう。道場を広げ、壁なり屋根なりを修復いたさねばなりますまい。わたしも手伝いますゆえ」
「さ、さようか……」
ぼそりと善右衛門がつぶやいた。
「
「さにあらず」
論客の顔に戻った総一朗は、思いついたことを口に出した。
「米という字……、ほら、十の字が、二つ重なっているようにも見えます」
右
なるほど、善右衛門の目にも、〈十〉の文字が方向を変えて交わっているようにもみえた。
「つまりは……」
と、総一朗は続ける。すでに歩き出していて、慌てて善右衛門がそのあとを追った。
「……十と十……、とうとう想いが
「ほ……! 米寿さん……あなたは不思議なお人じゃわい」
善右衛門が言うと、総一朗はぴたりと足を停め、振り返って笑った。
「いやいや……あの菊絵さまが描かれた、あのへのへのもへじに込められたあやしい力ほど、不可思議なものはございませぬぞ」
(第一話・ 了 )
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