理 由

 善右衛門の話のしんは、二十年ほどさかのぼる。かれの元服げんぷく前、十一歳頃のことである。

 藩財政回復への貢献によって特別に褒美を賜ることになったとき、善右衛門の父は謹んでご辞退申し上げる……と言ったそうである。

 相手は、中老の座に就く直前の永沼ながぬま太兵衛たへえである。


 中老ちゅうろうとは、諸藩によって名称はわかれるが、大藩たいはんならば、家老かろうばれることが多い。ここ神坂こうさか藩は、近江国おうみのくにに位置するが、琵琶湖には面していない。彦根藩井伊氏のような譜代親藩とは異なり、三万六千石の小藩で、城はない。陣屋じんやが藩庁となっており、いわゆる陣屋大名である。

 近江国には、加賀前田家、尾張徳川家などの飛地とびち(本拠地から遠く離れた領地)もあり、旗本知行地など幕府直轄地(天領ともよばれるが、天領の呼称は幕末から維新期にかけて定着した用語のようである)などが散在している。そのなかで汲々きゅうきゅうと文字通り肩身の狭い思いをしてきた神坂こうさか藩では、立藩りっぱん当初から人材抜擢と活用は藩是はんぜともなっていた。そうせざるを得ない環境にあったといってよい。

 善右衛門の父が、たとえ一代限りとはいえ、分不相応ぶんふそうおうな屋敷を賜ることに配慮を示したのは、そういったおいえの事情もあった。

 そのとき、かれは、

『……屋敷ではなく、できれば、菊絵きくえどのを賜りたい』

と、永沼太兵衛に言った。

 一人息子、善右衛門の嫁に……といういである。

 当時、菊絵はまだ五つ、六つの頃であったろうか。

 屋敷の件はすでに藩公の裁可をいただいていたこともあって、辞退は不敬にあたると永沼はさとし、菊絵と善右衛門の将来の婚姻を口頭で約した。

 ところが……


「……おれが元服する前に、流行はやり病で父がった。三年前に母が逝くまで、この屋敷のいた部屋を手狭な長屋であえぐ老侍や新規召し抱えの家なき者らに貸すことで、どうにか糊口ここうをしのぐことができた」


 意外にも饒舌じょうぜつな善右衛門の表情をちらりちらりとのぞきながら、総一朗はこの時点で、すでに善右衛門の苦悩の所在を看破していた。

 おそらくは菊絵……のことではあるまいか。善右衛門は無婚独身ひとりみだと聴いていた。つまるところ、菊絵との件は口約束だけで終わってしまったのだろうと察した総一朗は、それでも得心できなかった。 

 なんとなれば、善右衛門は『武士の意地……』と言ったはずである。

 かりに、永沼太兵衛の娘をめとることができなかったにせよ、その一事いちじだけを積年せきねんの怨みとして抱き続けている人物の胸中の闇というものが、どうしても総一朗には理解できなかった。


「……菊絵どのは……」


 しんみりとした表情を隠そうともしないで、善右衛門はぼそりと言った。


「……いまの……菊御前だよ」

「や……!」


 口に近づけた盃を落としそうになって、総一朗は慌てて膳台に置いた。


「……菊御前……! では、殿様の……?」


 予想だにしなかったことを告げられた総一朗は、そんな反復はんぷくのことばでしか返せなかった自分を恥じた。これでは論客としては失格であろう。想定していない事態にも臨機応変に対処しなければならない。

 けれど、菊絵が藩公の側室の一人であることを、今初めて総一朗は知って、

(ひゃあ……)

と、唇を噛み締めた。どうやら善右衛門がこの屋敷に居座る理由の一端が浮かび上がってきたからである。


一言いちげん……」


 善右衛門がつぶやく。

「は……? いま、なんと申された?」

 総一朗はそうたずねるしかない。事情のすべてを浮かび上がらせるには、く、くことからはじめねばならない。そもそも政事せいじの本質は、聴くことからはじまる。論客の心得こころえの第一義もまた、そこからはじまる。古代、朝政ちょうせいの字句は、聴政でもあった。そのことを総一朗は実践で学んできた。


「……たった一言でよい……永沼中老から、あいすまなかったの、と御言葉さえ頂戴いたさば、明日にでもこの屋敷をお返し申そう」

「やはり、そこでございましたか」

「ん……?」

「善さん……いや、小此木おこのぎさまは、武士の意地……と、かように申された。つまりは、お父上と永沼様との約束反故ほごをお怒りになられておられる……と、当初は、そう早合点いたしておりました」

「ん……?」

「いま、あなたのご様子、菊御前さまの御名おんなを口のにのぼせられたときの表情のかすかなためらいを、しかと見届けました」


 ようやく本来の総一朗の感得かんとく力が立ち戻ったようである。論客に必要欠くべからざるものは、聴くこととなのである。

 相手の微妙な表情の変化、口調のとまどい、語調の高低強弱から、真理を紐解いていく……。これが総一朗流の極意というものであった。


「早合点とな?」


 思わず半身はんみを乗り出した善右衛門は、探るような眼つきで総一朗の視線を真っ向から受け止めた。探る……というより、なにか魔物まもの対峙たいじしているかのようなおそれに似た感情の吐露とろというものであったろうか。

「……はい。察するところ、小此木さまは、かみに召される以前の菊絵さまを、ひそかにおしたいされておられたのでは……と、かように推察いたしました」

「な、なんと……! そのほうは……占いもやるのか?」

「いや、さすがにそのようなことは……。ただ何気なにげにそう思うたまでのこと。失礼の段あらば、ひらにおゆるしあれ」

「ふうむ……」


 両の腕を組み視線をおのが膝元に移し、しばし首をひねっていた善右衛門は、立ち上がると文机ふみづくえ抽斗ひきだしから二つ折りの半紙を取り出した。

 おもむろに総一朗の隣に座ると、それを広げた。


「……わしは……三度、菊絵どのにうたことがある。父から未来の嫁御寮よめごりょうと聞かされ、書の師に願って硯持ちにしてもろうてな」

「・・・・・・・・」

「……まだ、七つ、八つの菊絵どのは、いつもケラケラと笑うてござったわ。どちらかといえば、お転婆娘だったな。三度目のとき、菊絵どのが、わしの顔をじっと見つめ、それから筆でこれを書いてな、手渡してくれた」


 総一朗は半紙に描かれた似顔絵をみた。

 どこから見ても、へのへのもへじ……の文字にしか見えないのだが、善右衛門にとってはそこには描かれていない往時おうじの空気と感情のすべてが埋め込まれていたのであったろう。総一朗はそうおもい、

「ならば……」

と、顔を善右衛門に向けた。

「わたしが中老を説き伏せてみせましょう」

「な、なに、説き伏せる?」

「菊御前が……殿様から暇乞いとまごいを許され、たとえば、この屋敷でお暮らしになられたとすれば、あなたは菊絵さまをおめとりになるお覚悟がおありでしょうか?」

「は……?」

「もっとも、菊絵さまのご意思が先……でしょうけれど」

「お、おぬし、何を言い出すのだ! そのようなこと、実現できようはずもなかろう」

「小此木さま、お忘れか? この田原総一朗、だてに〈米寿侍〉の異名を頂戴ちょうだいしているわけではございませぬぞ。たとえ相手が殿様であろうと永沼様であろうと、この総一朗のことばの槍にて、立ちはだかる壁を突き崩してご覧にきょうぜましょうぞ」


 ギロリとあやしげな光を双眸ひとみたたえた総一朗の姿は、善右衛門にはあやかしか人外じんがいのなにものかのように思えてきて、がくがくと膝の震えが止まらなかった……。


 

 

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