月には煙管、木には風

律華 須美寿

月には煙管、木には風

 草木も眠る丑三つ時。構わず元気な満月の空。

 命の気配の何一つない夜の林に、しかし一つの影が蠢く。

「…………」

 影はしきりに周囲へ視線を投げかける。そのたび不安定に体が揺らぎ、先を急ぐ足元をもつれさせる。

「…………」

 影は若い女だった。若草色の小袖を身にまとった町娘。こんな時間、こんな場所にいるのが場違いでならない。その手に提灯をぶら下げていることにすら違和感を覚えそうになる。いっそのこと、物の怪の類いであると言われた方がしっくりくるほどに。

「…………」

 このあたりに人里はそう多くない。主要なものは彼女の背後の村。木々の壁で全く見えないが、それなりに栄えた人の世界だ。そこには彼女の居場所と、ここにはない安らぎがある。

 それでも彼女がこの荒れた林道を急ぐのには相応の理由がある訳で。それは今この場でしか果たされない目的な訳で。

 故に彼女は走るしかない。ここにどんな恐怖や危険が隠れていようとも――――

「やぁお嬢さん。 こんな夜更けにどこへ行く?」

「!」

 突然の声。弾かれたように首を向けた先。僅かに離れた所、あの大きな樹木の影から聞こえた。

「隣の村かい? 良い医者がいるってね……。 にしても、いけないなぁ……こんなところに一人で……。 いけない、いけない。 危ないよ」

 ぬるり。そんな音が聞こえそうな不気味さと共に影から人が出てきた。薄汚れて乱れた長髪の男。無精髭にまみれたその相貌からは不潔さとはまた別の嫌悪感を覚える。女は自分の体が硬く縮むのが分かった。提灯の中で蝋燭までもが怯えて震え始めた。それは決して、男が徐々にこちらに近づいていることだけが理由ではなかった。

「……聞いたことないのかい? きみ、あそこの村の人なんだろう? ……ここで最近何が起きたのか、とかさぁ……」

 顔と同じく汚れた黒装束。いかにも浪人と言ったその風貌の中、袴の結び目に強引に差し込まれた『それ』が女の視線を引きつけて離さない。刀ではない。鉈でもない。あの鈍い光沢は、あれは。

「……『首狩くびか鎌鼬かまいたち』が現れたって、聞いたことないのかなぁ~!?」

「……あ……っ!」

 刹那。振り上げられた男の腕が女の意識を覚醒させた。あれは鎌だ。畑仕事で使うもののはず。

 しかし月夜に晒され一段と輝くあの刃には土など一欠片もついてはいない。代わりにまとうのはそう。赤黒い衣。

「死ねやああぁっ!!」

「…………」

 女の体から噴き出すはずの、血。

「……………………」

 勢いよく肩口に突きたてられた鎌が吸い取るはずの、生命の奔流。

「…………あれ?」

 得物を握り締めたまま、男の眉が寄った。同じものがこびりついた鎌が、なぜだか今日は乾いたままだ。なぜ。

 というかこの女、どうして体に刃物が刺さったのに棒立ちでいられるのだ? 叫びもせず逃げもせず。そのまま。

 これではまるで、人形でも相手にしているようだ……

「ふゥん。 そうかい」

「んっ!?」

 もう一度刺してやろうか。そう考える男の頭上から声が降ってきた。聞きなれない女の声。おかしい。突然の事態に男の体は素早く動く。おかしな町娘は放っておいて、声のした方向から距離を取るべく飛び退る。声は上から。しかも背後。納得はいかぬが仕方ない。姿勢を低く保ちつつ、声を飛ばす。

「誰だ!」

「や、名乗るほどのものでは」

 帰ってきたのは間の抜けた呑気な声。どこからだと探す必要もない。鮮やかな月の照明を背に受けて、目立つ木の枝に目立つ女が腰かけていた。赤やら金やら目に痛い彩の着物を纏い、肩から浅黄色の羽織を引っかけている。袖口から覗く白い腕には煙管が乗っかっていて、今も細く煙を吐いている。

 町娘も場違いだったがこの女ほどではなかったろう。言葉を失う男をよそに、下駄をはいた足をぶらつかせつつ煙管女が口を開く。

「今の見てたよ、全部。 ……そこのカワイ子ちゃんにあんたが手ェ出すとこ、全部。 ……どうしてそういうことすンのかな。 掟を知らない訳じゃなかろうに」

「なっ……」

 掟。その言葉に男があからさまに動揺する。こんな女が、なぜそれを。

「大天狗のじい様だってもうトシなんだよ? も少し穏やかな余生を送らせてやろうとか思わないンかい……。 ま、思わないからンんなことしてんでしょうが…………よいしょ」

 大天狗? 余生? この場で聞くとは思ってもみなかった言葉の連続に男の動揺はますます加速する。どうしてそれを。こいつ、本当に何者なんだ!

「一応聞いたげる」

 不安定な木の上に立ち上がりつつ、一服。こちらを見下ろすその眼光は、手にした鎌よりいっそう冷たく、鋭い。ここに来てようやく男は、自身の額が冷や汗にまみれていることに気がついた。両足がカタカタと震えていることにも、ようやく。

「う……うるせぇやい!」

 こんなやつがどうして。

 女の声を遮って、男の叫びは続く。

「お前に話すことなんて一言もねぇ! 大天狗の老いぼれにもだ!」

 鎌を構えて、力いっぱい。

「……テメェ終わりだあああぁっ!!!」

 雄叫びとともに、降り下ろした。

 この距離からこの武器で攻撃できる訳がない。それは誰の目から見ても明らかだ。でもその前提も、この男が『ただの一般人』であった場合の話でしかない。そうではなかったら。もっと別の存在であったなら。

「首狩り鎌鼬、ナメんなやあああっ!」

 鎌の一撃で、空気を搔き乱すことの出来る『妖怪』であったなら、ことは変わってくる。果たして、振り切った鎌の軌跡からは剃刀のような鋭い風の刃が撃ちだされる。

「なにっ!?」

 しかし、意外なことに直後に上がったのは男の驚愕の声だった。彼の周囲にはいつの間にか白い煙が充満していたのだ。それがまとわりつくように鎌風を包み込み、本来不可視なはずの凶器の姿を露にしている。煙などどこから。まさか、あの煙管からではあるまい。

「“煙怪芸えんかいげい 煙分身けむりぶんしん” ……どうだい、良く出来てたろう? あの人型」

 バラバラと激しく崩壊する枝。鎌風は狙いを外していた。否、狙った場所にいたはずの女は、既に空中に飛び出すと、これ見よがしにくるりとその身を翻してから危なげもなく地面に着地していた。

「今、術を解いた……。 おかげであんたの攻撃も丸見えサ」

「な……っ、この…………!」

 不敵にほほ笑む女を前に、もはや男は成す術もなかった。この女、なぜか妖怪全土に通達された『伝令』を知っている。大天狗を『じい様』と呼ぶほど見知っている。そしてこの煙。どんな術かは知らないが相当高位なことだけは確かだ。普通じゃない。ありえない。

 こんな人間、いるわけない。

「もう一度だけ、聞いてやろうか?」

 一歩。女が足を進める。鎌鼬は下がる。

「……じい様の言いつけを守る気は? 『人を襲うな。 人と交わるな』……むつかしいかい?」

「それ、それは……お前、本当に知って…………!」

「あァ、勿論だとも」

 目を見開く鎌鼬。その相貌が向く先では、女がゆっくり煙管を吹かしていた。

「……アタシ、じい様の娘だもん」

「なっ……!」

 大天狗の娘。それが指す人物に心当たりがない訳ではなかった。ない訳がなかった。本当の娘ではない。大天狗が拾い、育てたはぐれ者の小妖怪。今や動物妖怪の総大将を担うともいわれる影響力の持ち主。

「お前が……だと?」

 それならあの人ならざる能力にも合点がいく。しかしまさか、まさか。

「お前があの……? あり得ない。 あり得ない」

「どうでもいいよそんなの。 ……それより早く群れに戻れって。 あんたら三人一組が普通だろう? 追い出されたンかい? だから腹いせに人の子を?」

「うるせぇ!!」

 女の言葉を掻き消す大きさで、鎌鼬が叫んだ。同時に巻き起こる突風が、彼の髪を、女の羽織を激しくはためかせる。

「聞いてりゃさっきからごちゃごちゃと……。 お前が『大天狗の娘』な訳がねえ……! どうやって妖怪社会こっちのことを知ったのかは分からねえがそこまでだ! おかしな術で俺を惑わそうったってそうはいかねぇ! 俺は斬るんだ! 人を! それが俺たち鎌鼬のはずだ! アイツら腰抜けとは違うんだ!」

 男が言葉を放つたび。語気の強まりと呼応するように風の勢いが増していく。それは次第に周囲の枝葉を脅かし、樹木を揺らす竜巻へと変じていく。

「それが仲たがいの原因? ……随分身勝手だね」

 女の声などとうに届いてはいなかった。竜巻の中心。鎌を携えた男の瞳は獰猛に見開かれていた。まさしく怪物。人の皮を被った異形だ。

「今度こそ……終わりだあっ!!!」

 乱暴に振り抜かれた鎌が、先の刃とは比べ物にならない大きさの鎌風を放つ。もうすでに煙は残っていない。遮るものの何一つない夜空を突っ切って、男の渾身の一撃が女に迫る。

「しょうがない、か……」

 対して女は余裕な態度を崩さない。大きく一つ息を吐き、すった煙草を吐き出している。

 今から回避は間に合わない。獰猛な鎌鼬の瞳に喜色が浮かぶ。

「責務は果たしたもんね。 うん」

 故に男は気が付かなかったのだろう。女の変化に。

 否、女から吐き出された煙の変化に。

「“煙怪芸えんかいげい……”」

 が立ち上り、渦を巻きつつ徐々に一つの形を取りつつあることに。

「“龍頭煙火りゅうとうえんび”!」

 煙で出来た一匹の竜が、鎌風めがけてそのあぎとを開き、空を走った。




「な……っ、お前、本当に…………」

 すでに風はやんでいた。鎌風を打ち消した煙の竜もまた、夜空に飛び上がりその姿を消していた。

「本当に……大天狗の……!」

「だからそう言ったじゃないか」

 ひときわ大きな樹木に体を打ち付けた鎌鼬の言葉に、呆れ気味な女の声が被さった。変わらず煙管を口に咥えて、女はくるりと踵を返し、歩き出す。

「アタシがそうだよ。 じい様の言いつけを守らない奴らにお灸をすえて回ってる煙使い……刑部太夫狸おさかべだゆうだぬきだよ」

「そんな……そんな」

 反省なさいね。言い残して女は去った。最早この男を見守るものなど一人もいない。夜の林に命の気配などないのだから。

 満月のみが唯一の、すべてを知る観客であった。

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月には煙管、木には風 律華 須美寿 @ritsuka-smith

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