第13話 墜落

 俺は朝日に目を細めていた。

 目覚めたのだ。

 気づくと丘の上にいる。周囲を見回すが、オニグルミの木とその下にバックパックが置いてあるだけ。ここは草地だが、低木と背の高い草に囲まれており夜に見ていた都市群はもう見えない。

 空腹と乾きに立ち上がり、バックパックに取り付いた。水はまだ残っていたし、サンドイッチと菓子類も入っている。サンドイッチを食べ、水を飲んでから冷静になった。

 なにをするんだっけ?

 そうだ。河本がいない。探さないといけない。いや、行き先はわかっている。救済のために作られた場所に向かったはずだ。俺とて聖杯持ちなので、その程度のことは推測できる。疲労感はあるが、俺も歩いて行こう。

 バックパックを持つのは面倒なので、菓子類の袋から個包装のものだけを取り出し、ベストのポケットに詰め込んだ。救済の地まで何マイルだっけ? 近くて遠いはずだから携行食と水だけは必要だろう。

 もう必要なくなった懐中電灯をポケットにしまい込み、ペットボトル片手に丘を下る。来るときはかなりの距離があると思ったが、下りはなんてことない。ほどなくしてポルシェを停めた場所に出る。

 ありゃ、まいったね、河本が乗って行ってしまったらしい。まぁいい。最初から歩くつもりだったし。行き先は神が決めてくれるだろうと小枝を拾って投げ上げた。先端が向かう方向へ行けばいい。

 子供っぽいが古来からの占術だ。ご存知だろうか? 上の如く下も然り。つまり天界で起こっていることと下界で起こっていることは相似形ということだ。偶然など無い。

 道を示していただき、俺は歩いていく。

 疲労はしているが気分は悪くない。どころかむしろ爽快。使徒であった七人も及ばない重責を俺は果たした。河本を救済の場に向かわせたわけである。

 まだ見ぬ救済の地は素晴らしい見た目だろうことは理解している。見ていないのに知っている。これは期待しているのでなく、二重の思考にも似ている。素晴らしい。俺は真の信仰者的現実変換の手段を手に入れたのだ。

 苦難も悦楽も現世で手に入れられるもので、それらをコントロールするのは極めて現実的な問題だ。要するに救済とはきちんと生活しましょうということなのだ。栄養管理に適度な運動、ストレスを減らして病気には医師が必要、とこういうことだ。ところが世の中には短気な人がいる。一足飛びにこれらを解消しようというのが宗教的問題に他ならず、そのためには現世では救いはないということを真剣に主張する必要がでてきてしまった。え? 聖職者って健康できちんとした生活をしたら駄目なんだ。太って元気で何不自由なくニコニコしている聖職者は、常に嘘を吐いていることになってしまう。そんなあなたに二重思考。天国で性奴隷の処女に囲まれるのは聖なることですが、現世で性奴隷を作るのは不品行なので考えることさえ罪です。同じ口で矛盾したことを言える。そのどちらも心から信じている。それこそが真の聖職者になる道だ。

 俺は自分が聖職者の資格を得たことに気を良くして田舎道を町へと下っていく。多神教と祖霊信仰とアニミズムとの奇妙な融合である神殿――すなわち神社――の角を曲がって、ようやく集落と呼べる家々の並んでいる通りに出た。

 神社の作りは四畳半くらいしかない真四角の赤い瓦屋根をした木造のものだが、鳥居はかなりの敷地を占める豪華な作りになっている。どちらが主体なのかを忘れている面白さがあってずっと眺めていたくなるが、誰にとっても興味深いのはむしろこの集落の方だった。道の左右には農地と宅地しかないのだが、建っている住宅はどれもかなりの豪勢さなのである。

 日本の風土から石造りやレンガ造りは難しいが、外壁は最新のサンディング素材でデザイン性も高い。城壁風からモノトーンまでこの集落だけでも幅広く揃えている。余所じゃ嫌われそうな紅白の塗り分けも敷地のタイルまで徹底すればオシャレな一体感。屋根もカラフルで、スタイルも切妻、寄棟、袴腰に差掛け個性を出している。農地は味気ないものの作業小屋には最新のトラクターとドローン。こいつらは自動運転で耕作と農薬散布を勝手にやってくれるスグレモノ。人間はその間で庭に色とりどりの花を咲かせ、一年一回の収穫だけのために海外の珍しい果樹を世話している。

 これもすべて信仰の賜物である。収入は動画配信と出版だけではない。ビジョンを見せられた者、つまり巨人より滴る聖なる肉体の一部と接触した者は、適性にもよるが多かれ少なかれ神に浄財を捧げることになる。恵まれた者は収入と労働を捧げ、この集落での生活を得るのである。実に健全なことだ。ここでは大半の者が二重思考を使う。神社の祭りで神輿を担ぎ消防団にも参加する良き地方自治体の構成員であり、賄賂をもらえばきちんと与党に投票するあっぱれな日本国民でありながら、既成宗教の信者や政治行為に熱を上げる者を狂信者と憐れむ日常も持ち合わせているのである。こうして弾圧とは無縁でいられるのだ。

 それでも外部に信仰を知られる事態も起きる。例えば俺がそうだ。だがそのリスクは秘密の教団も負う必要がある。なにより聖なるエピステメを保つための神殿だけは維持しなければならず、その新陳代謝は物資の搬入と搬出を伴う。食事と排泄でも言葉の差だけだ。あるいは誕生と死滅でも良いか。巨人はたまに出歩かねばならず、常に新人はスカウトされなければならない。

 目的であると知っているがはじめて見た住宅が見えた。門構えはないが、白いテラスを備えた瀟洒な白磁の器にも似た高級住宅だ。壁面は小さな城にも似ており出窓も洋風だが、屋根は日本風でソーラー発電機が設置してある。屋根だけが張り出した駐車スペースにポルシェ・カイエンが停まっていた。やはり河本はもう着いている。

 チャイムを鳴らした。使徒である噂好きの主婦がインターホンに出る。

「はい?」

「河本さんをここにつれてきた者です。遅れました」

 そう言うとオートロックが解除された音がする。焦げ茶色の金属扉を開いて中に入ると、白い壁紙の廊下が延びている。土に汚れた靴を脱いで正面にある白木の扉を開ける。そこが広間として使われているリビングで、すでに河本がソファに座っていた。

 バスケットコートを思わせる広さの空間に防音構造の天井がさがっている。東の全面と南の半分の壁面がガラス張りで外が見えており、北側にキッチンコーナーが設けてある。中では噂好きの主婦が軽食を作っている最中だ。その横にダイニングテーブルが並べておりカゴには季節のフルーツと気が利いている。西側の角には独身者の憧れながら設置してみたら後悔するインテリアナンバーワンのバーカウンター。小型のワインセラーも並んでいる。背の低いソファセットが南の壁面に埋め込まれた大型モニターの前に置かれている。

 ソファに注目すべき四名が座っていた。

 二名は言うまでもない河本姉弟。姉である姫子は日常生活に必要なこと以外はすべて神に捧げるビジョンを見ることに残りの人生を費やしている。今も黙示的な映像を脳裏に全力で思い描いていることだろう。その美貌はうっすらと微笑み、瞳は恍惚感のみを湛えてこの世を見てはいない。なんと素晴らしいことだろう。これぞ世界で最も聖なる行為である。全エネルギーで神と交信しているのだ。その体全体が静かに輝いているのも見間違えではあるまい。白く薄い肌の肉体はほっそりと整っており、白いワンピースも妖精めいて風と一体化しているかのようだ。黒髪は腰まで伸び、神の言葉に敏感に反応するアンテナのようにチラチラと陽光を反射していた。

 弟の信彦は、姉に会えた喜びから放心している。姉の前に跪き、その膝にすがりついてぼんやりと姫子の顔を見つめている。その姿は姫に傅く騎士さながらだが、その手には広口の女性用尿瓶が握られていた。素晴らしき献身! 動くことも最低限にしたい姉のために甲斐甲斐しくも世話をしているのだ。これまでその栄誉ある役目は地味な眼鏡の女子大生のものだったようだが、やはり弟君の到着とあっては聖なる役目も譲らねばなるまい。

 三人目は地味な眼鏡の女子大生。最重要な役目は信彦に譲るも、姉の前のテーブルに小型冷蔵庫を据えていつでもドリンクを提供できるようにしている。添えてある軽食はブルーチーズにドライフルーツとバランスも良い。

 そして四人目が俺を立って迎えた。教師風の紳士だ。初老だがその動きはスムーズ。

「ようこそいらした。我々はこうして神に仕えている!」

 紳士は手を広げた。俺は近づいて抱擁を交わす。素晴らしき信頼と親愛!

「完璧な信仰を神がご用意されたのですね」

「そうとも。我らは常に神と対話するのみ。美酒と珍味で生を賛美するのだ!」

 紳士は俺をバーカウンターへと招いた。俺も酒は弱いが味は気に入っている。特に濃い蒸留酒を少量だけストレートでやるのが好きだ。

「スコッチは?」

 示された複数のボトルからアードベッグを選んでショットグラスに注ぐ。濃厚な香りが神を賛美する。ソファに戻って乾杯。ブルーチーズはロックフォール。いちじくとはちみつを添えれば複雑な香りと味が古代から変わらぬ感慨を与えてくれる。スコッチで口を洗えばこここそが天界だと感じさせてくれる。ハレルヤ。

 まったくこれを用意できるなら、放浪させるにしてもバックパックに入れておくのはサンドイッチや菓子でなくてよかったじゃないか。ベストのポケットから溜め込んだ菓子をテーブルに並べていく。

 紳士が苦情めいた俺の意図に気づいて「ははは」と笑いハイボールを一口やった。親愛さを示す悪口が冗談として機能し、俺は満足。

「安い菓子です」

 個包装の菓子ひとつをつまんで顔の前で振った。薄い紫色の細長い菓子をタクトみたいに三角に。中の菓子は紫から薄茶色。薄く焼き上げた壊れやすいクレープ生地。幸いにも割れていないので、俺は個包装を破いた。ココアクリームはスコッチにも合う。

 全部を一気に口に入れ、噛んだ。

 サクサクとした軽やかな感触。

 その感触が素晴らしい快感であることに気づいた。瞬間に電撃的な本質的映像が脳裏に浮かんだ。映像未満の素早すぎる回想。人間の記憶の機能が三次元的な、いや四次元的なものであることが理解できる。記憶の全体像が建造物のように脳内に屹立した。

 よみがえったのは陽鞠との素晴らしい記憶。幼少期のブランコの軋み。頬にキスをされた感触と照れて気まずくなった思い。カッコつけて鉄棒から落ちて笑われたときの奇妙な誇らしさ。好きな娘を聞かれてすっとぼけたときの後悔。震災の日の行き場のない暗い気持ち。最後の数日のダンスと分け合った食事の味。それでも表現できなかった好意。

 ああっ! 俺は誰を信じている? 俺の信仰は彼女に捧げるものでしか有り得ない!

 そして俺はリビングを見回した。

 そこに居るのは仲間じゃなかった。

 なんてこった。完全に廃人にされてやせ細った姫子さんが排泄物を垂れ流し、それを河本が始末している。河本は昨日丘に登ったときの細かい傷だらけで、惚けたように姫子さんの体を拭っている。姫子さんは髪が伸び放題で、死なない程度にしか食べないのか筋肉が完全に衰えており、肌には静脈が浮いている。白いワンピースは着たまま数年も経過しているであろうもので、排泄のために下半身後方が裂かれていた。下着も付けておらずソファの下に尿瓶と便壺が置かれているではないか。

 他の使徒の皆さんも目が正気ではない。こちらは日常生活は送れそうなレベルだが、ここでのそれなりに金のかかる生活は搾取の元に成り立っている。

 嫌悪感と怒りが正気に戻るのと同時に俺の中に流れ込んできた。だが立ち上がって叫びそうになったのを押し留めたのは恐怖が続いて沸いてきたからだ。

 俺は狂信者の本丸に唯一人乗り込んでしまった異教徒なのだ。

 おいおい、俺はどう振る舞うべきなんだ?

 先程までは確信していた人生の意味も二重思考の方法も綺麗サッパリ脳内からなくなってしまった。ということは、彼らの仲間のフリをする方法を失念してしまったということだ。

 とりあえず口実を設けて外に出るか、と言葉を探そうとすると、外でクラクションが鳴った。クラクションなどどれも似たような音だが、聞き覚えがあった。社用のハイエースだ。さっきまでの俺と同じ状態になった雪村が到着したのだ。

「彼のことは知ってる」

 俺は立ち上がり、玄関へ向かった。幸い、使徒の方々から疑われてはいないようだった。急いで靴を履いて外へ出る。

 雪村が俺を見て両手を広げてハグしてきた。

「真の仲間になれましたよ!」

 熱烈な再会の光景ではあるが、俺は困惑と恐怖とがごっちゃになった脳で「この場をどう切り抜けて教団を滅ぼすべきか?」という難題に挑んでいた。

「先に入っていてくれ。沢山の仲間と真の信仰者がいらっしゃる」

 そう言ってとりあえず雪村を中に入れた。扉を開けておいてハイエースを指差した。

「俺は車を帰らせる。撮影されるわけにいかないだろう?」

「助かります。帰れって言ってるのに、聞かなくて」

 雪村は靴を脱いで中へ。俺は扉を閉めてからハイエースの後部座席に飛び込む。スタッフは正気だったはずだ。

「大丈夫か?」

 そう聞くと、疲れと恐怖を体全体で表現するように弱々しく運転席でびくりとしたのはスタッフの長田だった。一人暮らしの放送作家志望でこうして便利に使われている若者だ。運動部出身のガタイの良さはあるが心霊ビデオ好きが高じて放送作家志望となったオタクである。今回は実に可哀想な目にあったが、これを機に心霊配信で人気になれるかもしれない。

「そっちこそ正気なんですか?」

 長田はビクビクしながら言った。

「正気だよ。まだ配信している?」

 答えより先にハイエース内のノートPCを見た。まだ千人に届くかという視聴者がおりコメントが流れている。

 新展開。ディレクター登場。いよいよ到着したのに雪村さん追わないんですか? とっとと現場に踏み込め! 突撃! 隣の宗教の現場!

 コメント欄では皆勝手なことを言っている。

「雪村さんは帰れって。個人宅だから入ってくるな。配信したら法的措置を取るって」

 長田が困惑しつつも状況を伝えてくれた。

 画面は誰もいない助手席に固定されている。長田は一晩中車を走らせ、コメントと対話していてくれたわけだ。

「法的措置ができる状態じゃねぇだろ。配信続けてくれ。ちょっと相談してくる。警察は呼ぶと思う。行方不明者が中にいるんだ」

 俺が配信に乗るように声を張ると、一斉にコメントが盛り上がった。

 視聴者の相手を長田に任せておいてハイエースの外に出た。スマホを確認する。着信履歴がない。そうなると繋がるかどうかわからないが、祈るような気持ちで伊月に電話してみる。あの幻視で見た人形劇は本当のことのように思えている。とすれば、伊月の方も俺がのっぴきならない事態になっていると知っていそうなものだが。

 祈りは虚しくならなかったが、拍子抜けしたのも事実だ。伊月はワンコールで出た。

「おい、本人だろうな?」

 俺は言った。

「それはこちらのセリフでもある。だが、状況は把握していたよ。配信を見ていた」

 伊月も珍しく冷静ではいられない声だった。そして、ほぼ同時に俺たちは言った。

「あの夢海とのやり取り……」

「有楽の家での対話だが……」

 それで双方とも同じものを見ていたとわかる。

「手短に聞くが、有楽が夢海になったってのは、実際どうだったんだ?」

 人形劇では人形ならではの表現になっていた。

「憑依だよ。有楽は精神を半ば乗っ取られたスピリチュアル好きの中年だ。精神は神……いや、ヤルダバオートと融合した夢海だ」

「って、ことは夢海は結局、こっちにいる……?」

「そういうことになる。そしてこれから起こることもわかる」

 断定的なことを伊月は言った。

「なにが起こる? 俺はどうすればいい?」

「幻視で宣告されていたことそのままだよ。ヤルダバオートに視界を捧げる役目を河本信彦さんに引き継ぐ」

「それはわかっている。そうなれば姫子さんは死ぬだろうよ。俺はどうすればいい?」

「そこが問題なんだ」

 苦々しく伊月は唸った。

「言えよ」

「できることはない……多分。もう公安警察から地元警察に連絡は行っている。行方不明事件が複数解決されて、その犯人は有楽と集落の共犯ってことになるだろう。そして信彦さんが被害者として助けられ、またヤルダバオートに視界を捧げ続ける」

「なにもないってのかよ。だが、気づいているんだろ? お前が多分ってつけるってことはさ」

 長い付き合いだ。口調から考えていることはわかる。リスクのある手段が残されているのだろう。

「多分、ある。リスクはあるが」

 ほら来た。

「それだけでも聞いておきたい」

「鍵は夢海麻耶が実のところ神を一切信じていないということだ。他者の雑多な信仰心をヤルダバオートへのそれへと変換して他人を配下にしているだけだ。つまりヤルダバオートと夢海の間にのみ強固な繋がりはない。ヤルダバオート側に不満があるとしたらそこだろう」

「それなら、どうしたら?」

「その先は……わからない」

 俺には伊月がその先を言わないことがわかった。彼はなにかに気づいている。だが、それを俺にさせたくないのだ。

「俺にそれをさせたくないってのはわかった。そして、知らないならやりようがない。そういうことでいいか?」

 返ってきたのは珍しく怒った声だった。

「そうだとも。僕は君が逮捕劇を中継するだけに終わればいいと思っているよ。つまり、なにもするなってことだ」

「拝聴した。しかしね、河本だって俺たちに似た信仰を持ってる。できる限りのことはするさ」

「君はそう言うだろう。無事を祈っている」

「神に?」

「もちろん陽鞠に」

「俺もだ」

 通話を切ってハイエースのドアを開けた。電話を切ったことで長田も準備していたらしい。即座に配信装置を装備して飛び出してきた。

「行くぞ」

 玄関に向かって踏み出した。

 と、空が陰った。

 いや、快晴だったはずだが。

 振り返ると、巨大な顔が俺の上にのしかかっていた。

「うわっ!」

 叫んだ。

 膝と手をついた巨人が俺を見下ろしていた。子供が蟻の行列をじっと見つめるかのように。

 アステカの翡翠仮面のような顔はそのままに、新鮮な部分はトライポフォビアを恐怖させる人体のパッチワーク、新陳代謝のない部分はミイラ化した人体に苔が生えている。それがニヤつきながら昆虫を観察する子供の表情で俺を見ていた。

「入るぞ!」

 反射的に家の扉を開けて中に飛び込んだ。が、ついてきた長田はキョトンとしている。

「なにかありました?」

 見えなかったのか。

「後でコメントを見ればいい」

 視聴者には見えている者もいたはずだ。

 靴を脱がず、一直線にリビングに飛び込む。向こうも俺が裏切ったのに気づいていたようだ。ソファの前に集合し、こちらに見せつけるかのようにポジションをとっていた。

 大型テレビの前にバーカウンターが移動させられていた。上にあった酒瓶がどけられ、そこには姫子さんが座らされていた。簡易的な祭壇だと反射的に理解できた。彼女が贄というわけだ。

 バーカウンターの横に雪村が立っている。正気を失った顔で古い紙質の本を大事そうに抱えている。司祭の役割だ。彼はこのために召喚されたということか。

 姫子さんに跪く形で河本がこちらに背を向けている。彼が次の王であり、神と合一する存在。ただ静かにその時を待っている。

 見届人は三人。俺に背を向けて立っている主婦、女子大生、紳士の三人。

 儀式は今まさに始まろうとしているというわけだった。

「中継は認めていませんが、妨害しないのであればよいでしょう」

 まさにこの場を取り仕切っている態度で雪村が言った。元々が芝居ががっている男だが、今回ばかりは厳粛そのものといった声である。ボサボサの長髪に髭面の司祭など聞いたことはないが、見ている者を静かにさせてしまうだけの迫力があった。

「いや、中止してもらう。姫子さんはどうなる?」

 俺はなけなしの勇気で言葉を絞り出した。なにしろどうしていいのか自分でもわかっていないのだから、無茶もいいところだ。

「あなたには世話になってたので失望したくないんですよ。下がってください」

 雪村が軽蔑を口調ににじませた。脳は信仰に持っていかれているが記憶はそのままだ。俺がさっきまでそうだったからわかる。判断力は低下しているが、知性も落ちているわけではない。だからこそ知り合いがこうなってこちらに敵意を向けてくるのはこたえるものがある。

 怒りと侮蔑の混じった視線を見届人の三者がこちらに向けてきた。これも地味に精神にくる。こうなったら全員を殴り飛ばして強制的に止めさせるのがいいのだろうか。

 俺がいよいよ一歩を踏み出すと、見届人たちに緊張がはしったが、それを雪村が声で制した。

「神がきています。もう始まります」

 ズン、とくる振動が家を襲った。長田はどうだったかわからないが、見る限り全員が体のバランスを崩した。幻の中で家の天井が裂け、そこから巨人の両手の指が侵入してきた。指は天井を左右に引き裂き、飴細工のように曲げて穴を広げた。

 裂けた天井から仮面めいた顔が覗き込んでくる。怪獣映画でしか見ないような恐怖の光景。絶対的な力の前にひれ伏すしかないと本能が感じる。

 暴力に出ようとしていた俺の気力が急速に萎えていく。

 ただ立ち尽くすしかない。

 天井からなにも落ちてこない以上、これは幻視であることも理解しているが、脳の深層は幻視と現実を区別してはくれない。

 三人の見届人が一斉に膝をついた。

 俺が立ったままでいられるのは意地があるからに過ぎない。

 そして仮面の顔は、俺に敵意の表情を向けてきた。ひどく子供めいた不機嫌な顔。頬に力が入り、歯を剥き出している。目は細くなり、眉が釣り上がる。いまにも癇癪を起こしそうだ。幼い頃にだけ持てる純粋な敵意。あるいは自己否定への完全なる抵抗。いずれにせよ言葉は通じないだろう。

 猛獣に殺されるのと、悪意を持った大人に蹂躙されるのとどちらかを選べと言われたら、人間の悪意を避ける者は多いだろう。天災で死ぬのと理不尽な悪意で殺されるのとでは後悔の種類も違う。巨人=ヤルダバオートに襲われるのは、猛獣であり天災だった。

 俺はほぼ諦めかけた。俺が引き下がれば、この式次第もおそらく用意されていないであろう奇妙な儀式は完遂されるだろう。そうなればすべては何事もなかったかのように平穏になる。これは天災と同じだ。そしてそこから逃げるのは恥ずかしいことじゃない。少し不幸な女性が増えるだけだ。それもただ一人だけ。

 ――それは世界を救ったことになる?

 声が聞こえた。

 俺にだけはっきりと。

 畜生、なんだってこんなときに。愛しい声。忘れたことのない声。

「お前はわかってるのか!?」

 叫んだ。

 俺の声だ。俺じゃないみたいな気がするが、これは俺の声だ。

 神に苦情を言い立てている。ヤルダバオートにも陽鞠にも。

「神は搾取するしかできないのか? 俺たちに示すのは破壊と脅迫以外にないのか? いつも沈黙しているのは幼さゆえか? 神にはなにもできないのか?」

 これで怯むようなら神などやっていないだろう。夢海に信仰心がないというのが鍵だ。

「神に捧げるものが他人の視界だけであれば、餌付けと変わらないぞ! 神も智慧を得ることができるんだろ? 今の神の僕が恭順していないことくらい理解しているはずだ! 戒めの道具としてしか機能しない神は虚しいぞ。神自身の慰めは動物と同じではすでにないはずだ! 理解しろ、さらに新しい約定を結ぶときが来ている!」

 俺の言葉はヤルダバオートに通じた。その証拠に仮面の表情が困惑のそれに変化した。

 子供から青年になったというところだろう。自身の存在理由に神も悩むことができる。

「やめろ! 言葉で神を惑わすなど!」

 姫子さんの背後にあった大型テレビにいきなり映像が出現する。大正時代のインテリが映し出された。それは幻視なのか本当の映像なのかわからなかったが、いずれにせよ夢海は中々に新規の技術を理解しているらしい。

「そいつと結ぶ約定などない! 儀式によってさらに成長できるのだぞ! 私は捧げるのだ、さらなる人身を! これからも捧げ続ける! この国の政府が、政治運動家が滅ぶまで! その人数を数え上げてみろ! それを失うのか? この先も忘れられ、世界を見ないまま永遠に揺蕩うつもりか?」

 夢海はヤルダバオートに呼びかけている。それは懇願でもあり、脅迫でもあった。

 しかし神の幼児期は終わりを告げていた。

 空から血と肉が降ってくる。誰とも知らぬ人体が、おそらくは過去の信者たちの肉体の一部が、ばらばらになって俺たちに降り注ぐ。血はその脂で俺たちの髪を重く濡らし、手が、脚が、臓腑が室内に積もっていく。

 視界が赤に染まる。

 幻視のはずだが、かつての信者の血肉は想像以上に重く、死の香りは俺の意識を朦朧とさせた。

 救済/棄教/聖戦/供犠/殉死/苦難……その他にもまだある旧い信者たちのむせ返るような思い。意識を失いかける。

 逆説的に夢海の言葉が俺の正気を保った。

「儀式を進めよ!」

 俺と同様に気を失いかけていた雪村がハッとしたように首を振ってから古い本を開いた。おそらくは夢海が翻訳したグノーシスの奥義書。

「語り得ないものよりも語り得ず、世界の諸力を合わせたものよりさらに強く、智慧あるものの考え得る智慧よりさらに優れたもの。かのものは世界にあることができず蒼穹よりも高くにおわす。我らが神はかのものの子であり盲目である。神は嫉妬したことにより他に神のあることを示し、傲慢により万物の長を名乗り万物に対して罪を犯した。しかしながら我らの神である。盲目で無知であるがゆえに……」

 雪村の声が序文を読み上げていく。煩雑であるためろくに聞き取れはしなかったが、その読み上げにより河本に反応があった。恍惚とするような表情を上方に向け、バーカウンターの祭壇に座っている姫子さんの脚を伝って這い上がっていくように体を起こしていく。

 どのようにして生贄の王が交代するのかわからないが、儀式を完遂させてはいけないことがわかる。

 上方を見る。巨人=ヤルダバオートはその体を崩壊させ続けていた。

 低いうめき。部屋中を埋め尽くしている。苦しみか喜びか。

 俺は突進する。紳士のタックルが飛んでくる。カウンターの右フックが失敗。

 転がされる。背中を絨毯/血まみれの人体に打ち付ける。

 俺は無茶苦茶な蹴り。逆に殴られる。鼻に氷みたいな衝撃。

 立ち上がる。脳は揺れていない。歯がぐらついている。鼻から血が流れた。俺には誰の血かわからない。

 大ぶりで殴りかかり、受け止められてから膝蹴りを入れる。金的に入った感触。

 紳士が倒れ血しぶきが上がる。

 前進する。

 女性二人を手荒く引き剥がす。

 河本の背中から腕を回す。雪村は俺に襲いかからず読み上げを止めない。

 難敵は最後にいた。河本はぴくりとも動かない。俺の体重ではどうにもならない体格差がある。

 朦朧とする意識に夢海の声が響く。

「信仰は不要だ。神は世界の有り様であり、それを使うのみ。お前の信仰は勝ったか?」

 瞬間的に怒りが沸き起こる。脳が沸騰し河本の首に背後から腕を回す。

 肘打ちが飛んできた。クリーンヒットは避けたがこめかみにもらう。

 今度こそ脳が揺れる。脚がなくなった感触。

 頭から後ろに倒れた。ソファ/誰かの大腿部で頭は無事。立ち上がれない。

 河本姉弟が見つめ合っている。恋人の抱擁にも似ている。あってはいけない視線の交換。

 なにもできなかった。

 朦朧とする頭で自責する。

 いや信仰は俺をここまで連れてきた。陽鞠は俺を救ってくれた。救ってくれている。

 お前はどうだ? そういう目で神/ヤルダバオートを見る。

 巨人の仮面は外れかけていた。その信者たちで覆われた偽りの表情筋は崩壊し、その下から神の素顔が覗いている。

 本当の顔があるじゃないか。親戚の子供に呼びかけるみたいに思考していた。

 ヤルダバオートの真の顔は端正で中性的な、天使のようなと形容できる顔だった。

 しかし、その表情は悪意を持って歪んでいた。

 意地悪な/試すような/嗜虐的な/嘲笑的な/邪気に満ちた/毒を含んだ笑みだった。

 笑っていたのだ。

 俺に笑いかけていた。

 取引/契約/約定/談判……要するにこうだ。

 自分には状況を終わらせることができる/お前はなにが提供できる?

 夢海麻耶よりも優れたものを提供せよ。それが新しい約定となるだろう。

 魅力のある申し出。俺がなにかを差し出せば沈黙せし神に戻るのだろう。誰も救わないが犠牲を要求もしない神に。

 救いたいのは河本姉弟のこれからだ。俺が約束できるのはせいぜいが新興宗教の教祖の首くらいだ。これまでの仕事からしてもそのくらいだ。神って複数この世に存在するんだっけ? それなら他の神にこれからも敵対するってことで駄目だろうか?

 内心で懇願する。

 生涯で神への祈りが通じたのは俺くらいのものだろう。

 ヤルダバオートはさらに邪悪な嫌らしい笑みを浮かべた。

「いいだろう。貴様のこの後の人生をもらっていく」

 そう言ったように俺には聞こえた。

 巨人の体はさらに崩れ、血と肉を洗い流してその下から完全なる天使のような姿が出現した。その体は奇妙な光を放ち、部屋で倒れている俺たちに恵みを降り注いだ。

 その光に当たって幻視の血と人体が段々と消えていく。

 最後の抵抗とばかりにもう一度、紳士が俺に飛びかかってきてシャツを握ったが、拳を横に振り回すと吹き飛んだ。シャツが破れて袖がぶら下がった。俺はシャツの残骸で鼻血を拭って放り投げた。

 血に汚れたシャツの残骸が床に落ちたとき、完全に幻視が消えた。

 河本が後方に倒れてきて、俺の足元に転がる。どうやら息はある。

 俺はふらりと倒れかかった姫子さんに駆け寄り、その体を受け止めた。ひどく軽い。抱きかかえてソファに移した。

 三人の見届人は、殴り飛ばした紳士はもちろん、主婦と女子大生も力なく床に横たわり、意識を失っていた。

 雪村はしばらくぼんやりとしていたが、パタンと本を閉じ、俺の姿を改めて認めると「ワオ」と短く声をあげてから部屋の入り口に立っていた長田を指差した。

「樋口さん、すごいものを見ましたね! 長田くん、撮ってた?」

 長田のカメラにはおそらくもみ合う俺たちしか映っていなかっただろう。長田は困ったようにうなずいた。

「終わった……ってことでいいのか?」

 俺は自分自身困惑して言った。

 と、幻視の消え去った室内で、まだテレビが消えていないことに気づいた。

「夢海麻耶……」

 そこにはまだ夢海が映し出されていた。詰め襟のシャツに和服姿のくせに、どうやら配信機器を実際に使いこなしていたらしい。

「あんた、現実に存在しているのか?」

 俺は聞いた。もし彼がS村の夢海なら百年以上前の人物のはずだ。

「実在だとも。その本は君たちに贈ろう。私はまた来る。日本から信者と主義者を根絶やしにするのに適切な別の神を見つけたときに」

 静かだが深い恨みがある表情で夢海は言い、テレビはその電源を落とした。

 外で複数の車両が停まった音が聞こえてきた。伊月が呼びつけた警察がおっとり刀で駆けつけたのだった。

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