第12話 幻視

 先に立って歩きはじめた河本だったが、こちらを振り向かないことには驚かされた。

 これもなにかの異常なのではないかと心配になってきたのは、呼びかけてもずんずんと先に進んでいく様を見たときだった。急ぐと足元が危ないと言っても、追いつけないからゆっくり歩いてくれと言っても、なにかに憑かれたように先へ先へと進んでいくのだ。

 大柄な河本であるから早足でもかなりの速度で、俺は小走りになるしかなかった。強めのライトでも揺れることで足元は時折見えなくなり、つまずくことも増えてきた。おまけに左右の雑草や低木は濃くなってきており、俺の足に絡みつき腕をこする。

「待ってくれ、一旦休んで……」

 そうは言ったが、息が切れてしまい、河本がまともだったとしても聞こえなかったであろう小声になっていた。はぐれてしまうと河本がどこかに行ってしまうのではないかと不安になった。いや、正直に言えば俺が不安になる。この不可思議な出来事ばかりの渦中に独りで放り出されるのは御免だ。

 足がふらつき、登り坂が心臓に負担をかけてくるが、走るしかない。よたよたしながら闇に白く浮かぶ草木の中へ飛び込むように賭けていく。

 おそらく登りはじめて三十分も経過していないだろうが、脳がぼんやりとしてきて、自分がどこを走っているのかわからなくなってきた。ライトに浮かぶ白い草木は押し寄せてくる波にも見えてくるし、枝が左右からしなだれかかってくる光景が巨大生物の肋骨にみえることもあった。逆さまになった鯨の残骸をくぐり抜ける俺はいったいなにをしているのか? 山のイノシシが生涯見ている景色はこんなものだろう。人間であらなければならなかった。目印も道標もない海のような草地で溺れかけている。これほど文明的でない場所は正気を失わせる。塔でも打ち立っていればそこを目指せるし、俺は素直にそれを聖なるものだと思うだろう。速度規制の標識でもあれば、それは今の俺には別の意味に受け取れるはずだ。標識を解釈する必要はない。速度規制よりも一義に意味は決まる。正気の証だ。

 河本の背中はすでに見えなくなり、俺は走る速度を緩めた。鼻が利くわけでもない人間は簡単に行く先を見失う。もはや微かにしか見えない獣道をふらふらと前進していく。死さえ意識の片隅をかすめる。熊にでも出くわしたなら、抱擁して、その直後に食われただろう。その方が一瞬だけでも生きていた意味を知ることができる。

 しかし、滝をくぐったみたいに一瞬にして視界が開けた。海底から一瞬にして土地が浮上したかのようだった。ライトに浮かび上がるのは広場になった丘のてっぺん。LEDの無機質な白い光にも緑色に輝くアーチと、その頂上に二本の木が立っている。

 形象としての解釈なんてできないが、俺の心が感動に震える。ようやく安心できる景色に出会えたのだ。しっかりと根を下ろした二本の木! 片方はオニグルミで、もう片方は木と見えたが、驚いたことに河本の後ろ姿だった。

 足元にバックパックを置き、開けた夜空を見上げている。空の星はない。一切ない。暗闇の空だ。月もない。雲すらない。遮るものがあるわけではなかった。無限の距離を持った虚無が頭上すぐから永遠まで続いているのだ。

 ここがまだ正常でも清浄でもないとぼんやり気づいたが、バックパックにあるはずの水の誘惑には勝てなかった。疲労した足で倒れ込むように河本の足元にひざまずき、水の五百ミリペットボトルを取り出して一気に飲み干した。生き返ったような気持ちにはまだならないが、死から遠ざかった感触はある。

「ここがオニグルミの丘だってことか」

 河本に呼びかけたが、反応はなかった。その代わりに顔を下に向けて、自分が山頂にいるように下方を指差した。

 ここは開けているとはいえ、高さは山とはいえないものだ。さらに周囲は草や低木に囲まれて視界は悪いはずだった。

 が、どういうわけか下界がはっきりと見えた。ビルの窓の光がそれこそ星のように見える都市の夜景だ。軽く首を巡らせると周囲全体が夜の街だ。まるでこの丘の頂上だけが宙に浮いているようだった。都市の輝きは遠いようで近い。どこの都市とは特定できなかったが、人間の文明の栄華を誇っているかのように様々な光を放っている。見下ろしていると人類のここまでの道程を感慨深く振り返りたくなる。このような地を作り出せるほどになったのだ、人間は……。

 と、夜景の端が暗黒に飲み込まれはじめた。段々と光が消えていく。どういうことかと目を凝らすと、黒い液状のものが都市に押し寄せているのだとわかった。津波が来たのだ。まるで子供が砂場に直接ホースで水をひいて砂の城を崩してしまったように漆黒の液体は広がっていく。波しぶきこそ立たないが、波紋が広がる境界の建造物は液体の圧力により倒れ、流され、断線した電源が火花を散らして瓦礫へと姿を変えていく。

 あの時と同じ絶望的な光景。人類の栄華は黒い水の中へ巻き込まれ、瓦礫となり漆黒と混ざり合う。人間の力程度では押し止められない黒い波状の力。

 俺の足元にまで激流が流れてくる気がして立ち上がったが、丘は安全のようだった。

 背後で奇妙な音がした。クラクションともトランペットともつかぬ炸裂音のような振動を背中に感じた。振り返ると俺と同年齢ほどに見える男が立っていた。

 奇妙な雰囲気の男だった。立派な口ひげを生やし、丸メガネをかけている。立て襟のシャツにゆったりとした和服を羽織っていた。大正時代のインテリといった風情だ。それでいて武士のごとく身にまとっている威厳が違和感の正体だった。新規の紙幣に印刷されていてもおかしくない非現実感がある。

「神が全能であるとして試練を与える必要があろうか?」

 教会のパイプオルガンみたいな声で男は言った。

 俺に語っているのではなさそうだった。

「全能であるならば人間は完全であったはずです」

 河本が俺の頭越しに答えていた。

 予定されていた問答のようでもあるが、河本が熟慮のうえで答えているのだと思えた。

「信仰者に災いあれ! 七つの星と七つの燭台は、七つの量子重ね合わせとなり、七人の凡人となるであろう! 現に神を奉じる者は常につまずき、偶像と信じて美を破壊し、不品行を戒律としている!」

 大正時代のインテリ男は講談師のように朗々と声をあげる。

 都市は消え去り、上空に張られた強化プラスチックの蜘蛛の糸みたいなラインを人間の一団が渡っていく。ところどころ宙から落ちてきて瘤状に固まった石みたいな塊にたどり着くたびにバンザイをしながらさらにどこかを目指していく。ラインを外れることはまったくなさそうな恩寵に満ちた幸福な足取りで軽やかに。一群の中には信仰者も主義者もいるが、時折呼び止められて議論をふっかけられている。

「弁証法が自然科学を援用するなら量子化学と目的論から離れた進化論に従わなければならず、人間の行動も変革すら目的としない新しい弁証法が必要となるのではないですか?」

 バックパックをくれた紳士が信仰者と主義者を戸惑わせている。

 講義をしている紳士に手を上げて質問したのは地味めの女子大生。眼鏡に長い黒髪。ネルシャツを羽織ってキュロットスカートの裾で緊張から片方の手を握りしめている。

 陰鬱な階段教室はその急勾配を千段も伸ばし、転げ落ちる者のために合成皮革で覆ったクッションが巻かれたバーが何十段かごとに設置されている。エスカレーターもあるが、一部の席ごと動いているので適度なタイミングで降りる必要があるばかりか講義時間中には上にも下にも至れない速度だ。

「わたしたちの願いはどこにも届かないのでしょうか?」

 質問はもっともなものだ。心からの叫び。その声とてこの広大な教室では教師たる紳士にさえ聞こえそうにない。しかし、いないのは全能者であって神ではない。

「願いは届く。捧げるものも自らの目と手のみで。見るものを神と同じくし、手は地を耕し美を生み出すべし」

 どこからか声が響く。それは神の声であるとすぐにわかる。

 カーボンの黒光りを右足に。分光性塗料の銀河的艶やかさをまとったFRPを左足に。胴体は色とりどりの宝石を包む鋭角にカットされた無垢チタンの虹色。銘木と光ファイバーが絡み合った右腕は振られるたびに光輝の筋を空間に残す。意思を持った液体のような緑のゲルでできた左手は天と地を指差し、叡智をあまねく行き渡らせよと宣言しているかのようだった。そして頭部はチェレンコフ光に青白く輝き、位相速度ながら光を超える粒子の奇跡を讃えている。

 神は天空に数式を描く。素粒子の振る舞いを記述し六次元のトーラスを空中に幻出して見せる。智者、法術者を呼び寄せ、解き明かしてみよと迫る。

「宇宙が閉じているとしても、人間は死ぬ数よりも多く生まれます。それはいずれ宇宙を埋め尽くすことになるでしょう」

 コンビニの制服姿も勇ましく東南アジア系の若者が正解を導き出した。

 人間でいっぱいの宇宙。人間を分解してみればその中が人間にとって理想の住まいであることは明らかだ。脳細胞の気まぐれな電流により計算と発電を行い扁桃腺に集会所を設ける。たまに熱も出るが人間が退散しさえすればそれは平熱へと戻っていく。切除だけはご勘弁願う。消化器の川と海は上水と下水を兼ねる。いくら流水量を増やしても流される集落はない。押し寄せる津波も絶え間なく続く排泄も宇宙の外部のことだけの問題だ。

 人間の代わりに機械がやってくる日が訪れた。分解された人間は機械にも似る。いや、分割された人間のイデアこそが機械であれば、機械は自ら完成体を目指したに過ぎない。流れるパルスはノイズも減少、電子はノード間を直接飛び交うとなれば思考力もアップしている。筋肉である微細シリンダーの組み合わせは潤滑油に非ニュートン系オイルを採用しておりいつまでもなめらか。循環系はクーラント液と燃料系をきっちり分割しどちらもリサイクルにぬかりはない。

「機械の神はどうなるのです?」

 またも女子大生の問い。それには神が答えるまでもない。コンビニ店員は大抵のことはできなければいけないからだ。

「人間を分割したものが機械であります。ならば神を分割すれば良いのです!」

 未来では人と機械が助け合って暮らす。高層ビルは行き過ぎて軌道エレベーターとなり、高層階への移動は高額な旅行へと変化している。ファーストクラスの席にはアテンダントがつき、いつでも酒と料理を提供してくれる。内装はシックで観葉植物などもあり、絨毯の毛足は長い。ロボットには特にサービスはないが充電はいつでもOKだ。ロボットのエリアと通路に絨毯はなく、なめらかだが滑りづらく汚れもつきにくい新素材。ロボットと人間の棲み分けはきっちりなされているが、差別というわけではなく、人間とロボットは仲良くエレベーターオリジナルの映像コンテンツを楽しむ。座席にも充電エリアにも小型のモニターとヘッドホンは設置済。

「今月の異端審問のコーナーだ!」

 ラッパーにしては素人臭く労働者にしては粗暴すぎる見た目の男が電子タバコ片手にタイトルコール。リキッドはTHCかニコチンか見た目ではわからないが、その目はほんのりと赤い。顔のトライバルな入れ墨をなぞりながら口を歪めて喋っているが、彼自身はなんのトライブなのか謎なのも人気の秘密だ。

「鞭身派ってのも悪くないんだけど、やっぱり去勢派まで行き着かないと異端じゃねぇよな! ロボットの皆さんは自己複製も禁じない方がいいんじゃねぇか? バイブス感じたらドッグってわけよ。だけど、今回の異端は去勢派じゃねぇ。ましてやカタリ派ってわけでもねぇ。驚きのJK妹派ってわけだ! ピース!」

 画面が切り替わり、一般家屋を外から見た撮影用の小型セットが表示される。つまりは国営放送の子供向け人形劇というわけだ。“場面その一、おうちのまえ”である。

 そこに画面右側から入ってきたのはうさぎの人形。若い男の髪型をしたうさぎで、古風なイギリス式スーツを着ている。これは誰が見ても伊月だった。

「僕はついに有楽の家を突き止めたぞ! さぁ、これから対決だ!」

 下から突き出された棒がうさぎの手に繋げられている。棒を握った何者かがぴょこぴょこと伊月うさぎを揺らしている。切れ目の入った口がパカパカ開く仕掛けもあった。わかりやすく大口をあけて「対決だ!」と意気込んでいる。

 住宅のミニチュアがするすると横に滑っていき、塀と門、背景の空と町並みの書き割りも左右にスライドしていく。替わって左右から滑り込んできたのはリビングのセット。ミニチュアのソファセットとテーブルが中央でパズルみたいに組み上がる。背景にテレビと電気スタンドの置かれた壁の書き割り。左側からもう一体の人形がひょこひょこと現れた。

 熊の人形で藍色のチェックのワンピースを着ている。パーマのかかった軽い紫の髪と口紅から中年の女性とわかる。口は人形の横一直線に裂けたものなので、中央にちょこんと紅がハート型に入っているのだが。

「こんにちは。有楽です」

 親切に誰だかセリフで教えてくれる。それに続いて観客の笑い声が起こる。シチュエーション・コメディに特有の別撮りされた笑い声が合成されているのだ。

「私が小泉伊月です」

 うさぎも頭を下げる。笑い声は続かない。

「あなたが私から聞きたいことというのはなんなのかしら?」

「貴方の神が真に神なのかということですね」

「神とはなにか、というところからおはじめになる?」

「それはどちらかといえばインド哲学ですね。世界を作った至高神は存在するとした上ではじめましょう」

「それであれば神学論争を繰り返すだけではなくて?」

「繰り返したくはないですね。ただ貴方がたの神話がグノーシスのそれなのであれば、至高神はこの世におらず、精神の奥底にしか影響していない」

「それを肯定いたします」

「しかしながら観察するところ、霊と呼ぶものにより信者をコントロールし、事故死を演出し、巨人によってなにごとか為そうとしている。これは至高神への信仰ではない」

「それも肯定できますわ」

 ドッ、と笑い声。

「なにがおかしい!?」

 伊月うさぎが画面の方を振り返り口をパクパクさせる。

「おかしいですわ。グノーシスにおいて三番目の神とされるヤルダバオートを信仰してなにが悪いというの?」

「な、なんだってー!」

 両手をバンザイにして伊月うさぎがクルクルと回転する。

 有楽熊がその周囲を回りながら言葉で伊月うさぎを責め立てる。

「妖術の塔に隠された宝……中国語で妖塔宝と書かれ、ピンインではヤーターバオというところかしらね。魂を遣わす王とも読んでいたけれど、これも遣魂王という語呂合わせかしら? もちろんこの神が現実世界を作成してしまった以上、至高神でなくこれを信仰することになんの不都合もないわ」

「しかし、人間の良き側面は至高神バルベーローにあると貴方がたは信じていた」

「それも真実。ですが、現世で人々が信じる神が不完全であると断じつつも、その神が人間に対して効力を持つとなれば、それを使用することも実用主義というものでなくって?」

「ヤルダバオートは誤っていても人間を導くのでないのか?」

 さらに爆笑の笑い声。

「確かに創造の神は創造の神。しかしヤルダバオートを奉じるどの経典を読んでも、神は人間に不可思議な罰を与え、生殖を禁止し、進歩を縛る。ここから導かれることは、ほとんどの人が薄々気づいているのに目を背けていた結論。あなたはわかるはず」

 伊月うさぎが呆然として口を開け、舞台中央に進み出た。そして、バッ、と手を広げ。

「神は人間よりも知的に劣っている!」

 拍手と歓声が降り注ぐ。

「然りですわ。被造物が造物主より賢くはないと考えがちだけれど、泥をこねただけかもしれないのではないかしら? それならば人間と世界を壊せる力しかない世界最強の猛獣となんの違いがありましょう?」

 拍手の後、有楽熊が観客に問いかける。

 おおっ、と歓声。

「それならば自らの目的のためだけに猛獣を飼いならそうとしたのか」

「そういうことになりますわね」

「目的は? そもそも飼いならせるというのか?」

「焦ってはいけませんわ。それより私も正体を明かさないと、その先のお話はできませんものね。少々お待ちになってくださる?」

 有楽熊が舞台の中央に進み出た。腕に繋がった棒が左右に引っ張られる。それは人形を動かすのでなく、壊す動きだった。意図的に緩く結ばれていた糸が切れて腕が左右に引きちぎられる。熊の体の中から新たな腕が現れた。下から人間の手が出てきて、今度は熊の体を左右に引き裂く。腕に操り棒を接続し、これで熊の変身は完了だ。

 それは神様めいて登場した大正時代のインテリ男の人形だった。針金の丸メガネに和服。動物でなく人間だ。

「私は夢海麻耶。かつてグノーシスの黙示録を読解した者だ!」

 伊月うさぎは口が平面になるほど大きく開いて驚愕を表現する。

「黙示録を読解しただと?」

「あなたはビジョンの獲得が神通力の源だとご存知だろうか?」

 夢海は教師めいた後ろ手をして左右に歩きはじめた。

「知っている。神と視界を共有すること」

「然り。人間精神の不可思議は世界認識のための扉がひとつしかないこと。宇宙の有様を文書情報から計算で推測することは可能となるも、観測そのものを分け合うことは不可能。常に目に入り込む光の範囲しか見えておらず、時空は自身が中心となる。空間の広がりを二次元に、時間の経過を三次元に置けば、生まれた時点を起点にしたコーン状に広がっていく。人間は個別に宇宙を持っているのだ。コーンの交わることは多々あれど、同じものを観測しているとは限らぬ。まして抱いた幻想の光景はそれ自体が宇宙と合一している。すなわち神と視線を同じくすれば、それは神である」

 拍手。

「人間に共通の幻視が存在することが脳の構造を由来とするのか、経験を由来とするのかはわからないが、それが人間の精神を不可逆に変えてしまうことには同意している」

「無論それは神にとっても同様であるのだ。いや、猛獣の喩えで云えば餌であると」

「餌?」

 笑い声。

「造物主である神は盲目だ。世界そのものであり内部を見る目など存在しようもない。神が世界を見るのは人間の目でなければならない。全知であることなど可能であろうはずがない。盲目で無知のままに預言者を待ち続けるのがヤルダバオートの姿なのだ。預言者と黙示映像を共有することのみが神の喜びであるのだ! これまでの歴史上の預言者は総てそれを知っていた。なればこそ最後の預言者であろうとしたのだ。バルベーローは黙示などしない。ヤルダバオートは黙示をするが、そこには破滅的な映像しかない! 盲目で無知故に世界を壊そうとするのだ。神は智慧をつけるべきなのか? 私は宣言したのだ。然り、と」

 万雷の拍手。

 客席に向かって夢海は頭を下げる。

「それが貴方の意思だというのか」

「神は智慧をつけ世界を破壊するであろう。だが一縷の望みはある。智慧が神を変革することだ。新しい文明によって作り出された美的映像を黙示映像として共有することにより、智慧を得るであろう」

「黙示録に登場するコンピューターというわけか」

「私達もその一部となる。そして黙示を理解せぬ者や、幻視にも至らぬほどにしか世界を見ていない者はすべて預言者の資格を持つ者を保護するためだけに働いてもらう。ヤルダバオートの信者たち。そして神を否定する社会運動家たち。どちらも等しくヤルダバオートの無知を引き受ける者たちだ。生殖を不潔なものとし、人体の美を表現することも受容することも禁ずる。人類が見たことのない映像を表現する美術を禁じ、科学的事実から背を向ける。ヤルダバオートは実にお勉強嫌いであることか」

 これまででいちばんの笑い声。

「理解しました。では神がなんなのかに戻りましょう」

 伊月うさぎが状況を理解していないボケ役の呼吸で言った。

 ええっー、という声が返ってくる。

「今更、なにを?」

 夢海も戸惑いの声をあげる。

「神はほとんどの神話で悪魔の存在を肯定している。何者も貴方の信仰先がヤルダバオートでなく悪魔であることを否定しない」」

 伊月うさぎが中央に出て演説する番だった。

「悪魔は世界の構成要素であり、この世界に封じられている。肉体も悪魔のものである。ヤルダバオートが無知であることと悪魔が人間に無知な行動をさせることは真理値を見るまでもなく両立する。貴方の神は悪魔ではないのか?」

 激しいブーイングが巻き起こる。

 夢海は否定の意思を人形の体全体で示した。

「それは古来から無意味な議論だ!」

「知っていますよ。だが私は別の現世の神を知っているので」

「それはただの女子高生だ! そんなものを信仰するのですか?」

 夢海の声にブーイングが同調する。はげしい反対の声の雨の中、伊月うさぎは叫ぶ。

「するさ。悪魔ならば祓われて終了するはずだ。少なくとも教団においては」

 伊月うさぎがさらになにか言おうとするが、そこに下から直接手が出てきて人形を抑え込んだ。やや揉み合いながら右側に退場していく。

 残った夢海が高らかに宣言する。

「それが悪魔であろうと、これを操り従わせ、我が利のために使ったとて道理は少しも曲がらないではないか! 人類を進歩させる信仰である! その視界を捧げよ! 黙示を幻視せよ! さすれば人類の存亡に全存在を賭けたこととなろう! 勝利の暁にはヤルダバオートがミロクとなり魂は光へと導かれるだろう!」

 万雷の拍手とともに幕が下りる。

 画面は再び電子タバコ片手のラッパーに。

「ドゥ・オア・ダイのビーフだったな! だがドープなブロのフロウはキラー! ヘッズも大満足のコンフィデンスにサッカーはキックアウトってわけ。それじゃピープス、自分の道を貫いていけよ。ピース!」

 そしてディスプレイの画面はブラックアウト。

 夏のお茶の間でテレビを見ていた野良仕事姿の老人も思わず「終わったか」とつぶやく。

 縁側の外は入道雲の目立つ真夏の日差し。蝉の声がちゃぶ台の麦茶についた水滴を震わせている。吊るされた風鈴は無風のためチリンとも鳴らない。

 ここは平和だが暑い。恩寵を求めて老人は外へ出かける。ホームセンターでは冷房が出迎えてくれる。並んでいるのは無意味に冷やされた電動工具たち。十字架を背負って歩くにも後で組み立てた方が効率的。建材はツーバイフォーよりは太いが日本の伝統的な相欠き継ぎならロープで縛ってひとかつぎ。金具と釘は何本か必要だけど、体を固定する杭と針金をまとめた袋にちょい足しするだけでかさばりはしない。苦難の道も背負う罪は軽くなり、スキップは無理でも足取りはトロットに。やっぱり運搬には分解しておいた方が楽だ。十字架を並べられて「どっちにする?」と聞かれたら「バラバラの方を!」と誰もが答える。

 解体こそが神の秘跡に迫れる行為なので老人はリチウム電池式のマルチツールを買い求める。高速切断で圧倒的な低振動。アタッチメントの交換により研削も剥離もこれ一台。噂好きの主婦も「これで真理に到達できるんじゃない?」と興奮気味に推薦してくる。

 老人が勇んで解体するのは出入り口のない小屋と人間の体。どちらも開けてみなければどうなっているのかわからない。

 屋根に登るが軽やかな足取りは落下の心配もなし。日に炙られた瓦を滑り落とし、防水シートを引っ剥がす。木地を晒した野地板は神秘を記したパピルスの色だ。容赦なくカットしていくのは流石のマルチツール。老人を中心に円を描くようにノコギリの刃は走っていく。もちろんこのままだと老人は落下するが、神の恩寵が味方している。完全にカットされるまで落ちはしない。最後の抵抗を示す分子間力までも切断した瞬間に重力は働く。絶え間なく続く重力は人間の不幸の象徴かどうかは議論あるとしても、すべての力を消し去ることは神にもできない。存在が重力であるからだ。繰り返すが恩寵が無重力なのである。老人も落下の間だけは無重力を獲得する。この矛盾!

 しかし、落下した老人は小屋の中身を見ることがついに叶う。正確には輝ける聖杯の中にドボン。老人は無傷だし栄光の只中にあるといっていいが、満たされた液体はワインでなく血である。血とワインの間に違いはないはずなのでワインでないからといって消費者庁に訴え出ることはできない。ワインを人体に循環させるのは無理であるからだ。

 それでも意味はある。老人が人体も解体することを忘れてはならない。聖杯はすべての肉体の中にあるということなのだ。分解される人体。そのサンプルであるのは聖杯を探し求める騎士自身である。すなわち俺、樋口宗太郎だ。

 表皮から順番に剥がれていく。マルチツールは剥離用のグラインダー。撫でればすっと真皮、脂肪、筋肉と除去されていく。ダイエットにも最適だったが、不純な動機でマルチツールを使う者には災いがある。

 血が流れ内蔵も溶け出す間から光が漏れる。聖杯の登場である。

 光が漏れ出す。周囲を明るく照らしていく。

 路上に落とした針を探していた噂好きの主婦に聖職者が「どこで針を落としたのか?」と問いかけるが主婦も「室内です」とは答えない。光は等しく内にも外にもあるからだ。それでも聖職者は常に真理に気づかない。「それならば頑張って探すべきですね」と挨拶をして、救済はどこにあるのだろうと永遠に彷徨う。

 救済が見えない者に対して神は手を差し伸べるが、見えない者は当然ながら見えない。「これで啓示は最後にします」「救済最後のチャンス」「明日には世界は終わります」「これで本当に最後の預言」そう繰り返すうちに千年も万年も過ぎていく。見えていようと見えていまいと文明は進化してしまう。詐欺は神が行っていたことになってしまう。

 真相としては神の甘さである。「最後通牒はしたのに」とか「交渉の余地を残してあげたのに」と言い訳が欲しいだけなのだ。救済が見えている者にできることは神を慰撫することなのである。力だけは強い甘えん坊ね、私は理解していますからね。男性も母性を発揮しよう。進歩した世界ではそれも不可能ではない。

 神が慰撫されれば世界も上機嫌になろう。ご機嫌な世界において実のところ浮上してくるのは、今度こそ「最後の預言」である。今度は預言者の言葉が正しいことは神も保証できない。論理命題はこの世界という限定された形式内では決定不能な命題を内包してしまう。「あの世なら矛盾しないのだけれど、あっちじゃ数を加算していくことしかできないそうですわよ奥様」と主婦も噂を振りまく。ひとつ積んでは神のため。いや、神はあの世にはいない。壊してくる鬼もいないので無限に石は積まれていく。「いや、奥様、無限はありません。数えられますので」。

 夢海が最後の預言されていない預言者として、つまり自らの言葉を語る。

「過去行われてきた預言における世界の最後とはなんと貧困だったことだろう。結局の所、天災、戦争、いずれにせよ人間が死ぬというだけだった。死ならばありふれている。これまでの信者はなんと裕福だったことか。あるいは恵まれていたとて、子を虐待する親は自らが最終戦争を子の中に起こしていることに気づいていない。政府も革命家も同じ過ちを犯している。すでにして終末は訪れている。この世界に目を開いたときから」

 夢海は眼下の人々を見る。そこには貧困と死と争いがある。見ているのは単なる地方都市なのだが、画面にカーソルを重ねるとルーペ機能が立ち上がる。給食費を盗んだ子供がクラスメイトからボコボコにされ、義父から犯されている女子小学生が泣くのにも飽きて「早く終わらねぇかな」と虚空を見上げ、生活保護費の半分を巻き上げられている老人が濃いハイボールだけで栄養をとれば死ねるだろう考えている。紋切り型ですが、きっちり悲惨なものを見つけておきましたよ、とルーペ・カーソルがお辞儀をするが、まだ邪教が足りないでしょ! おっと忘れていました。輸血を拒否して子供を殺しておきながらなぜか泣いているおっかさん。人種平等にどっぱまりして白人に値段をつけて売買し「一度足ふきマットに白人を使ってみたかった」とご満悦の黒人。全財産をぶちこんで出家して教えてもらったクンダリーニ・ヨーガで魔境に入って狂ったが師匠も魔境なのでどうにもならないアジア人。女性に布を被せたがる人についてはもう語った。

「それならば救済はどうか」

 砂糖とか牛乳とかはちみつとかが沸いてくる草原。脂質とタンパク質が牛乳頼みなのは大問題。アニマルライツに照らして大豆が沢山生えるようにしなくてはならない。牛乳も豆乳かアーモンドミルクに変更してもらえます? ナッツアレルギー? 困りましたねぇ。宝石の実る金の樹木は救済の地に採用で満場一致ですよね? え、十二番目の宝石が真珠? それは貝からの搾取です。

「救済も人類の幸福を考えれば現世で実現可能なものしか存在しない。故に救済とは進歩にしかないのです。我々も見たことがない美を生み出し、限界まで自然科学の真理を突き詰めることにのみあり、それは現世で行われなければなりません。変異種が進化を加速させるように異能を愛さねばなりません。現世に進化を加速させる程度の争いを! そしてすべての知識は不完全なる神に蓄積されねばなりません! 視界を捧げるのです!」

 文化芸術のデータベースとしての神。それは個人が宇宙であるという程度には宇宙であり、受け継がれる限り不変である。クローンは同一遺伝子を持つとしても視界は別である。個人であるということは視界だけが保証してくれる。種や類は普遍であると言わざるを得ない。木の葉に化けるコノハムシ、蛇に擬態するスズメガの幼虫は、敵の視界が存在することによって姿を変えていく。普遍概念とて外部からの視界で変化する。いわんや人間をや! 忘れるな。神が見ている。人間の目で。

「見よ! わたしはすぐに来る! いや、もう来ている! 変化せよ人類!」

 夢海は私が神だと宣言している。

 しかしそれは傲慢ではない。人間ならば誰でもそうなれるということだ。

 人間は神をすでに従えている。

 俺は聖杯のサイズを図る。百四十四リットル。

 リットルとはなにを利用した単位だったっけ……?

 そういえば喉が渇いている。

 ああ、何度目かの夜が明けていく……。

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