第11話 巨人

 深夜から午前中まではサービスエリアで寝ることに決めていた。人のいなくなった食堂で併設のコンビニで買った弁当の夕食兼夜食をとり、車に戻って買った飲み物を飲みながら河本の話を聞いた。

 主に姉の話だ。俺の話を聞いて語りたくなったのだろう。

 消える前から姉に依存していたことを自覚していたらしい。恋人らしき女もすぐにできるのだが、姉のことを語れない以上、完全に心を開いたとは言えない。そして若い女はそういう感覚に鋭敏だ。すぐに自分に心を許してくれていないと別れることになってしまったそうだ。

「別に悪いことじゃないさ。誰だって自分のことをわかってもらうのは難しい」

「オカルト関係の人しか話を聞いてくれなくて。そっち関係ではまともな人がいなくて。でも、あなたのような人がいてよかった」

 河本がやわらかく微笑んだ。

「買いかぶりではあるな。俺だって宗教の信者だ。熱狂的な」

「友達の妹さんの信者……。僕も姉の信者ですよ」

「似たような宗教に入っていない限り、人は仲良くできないのかもな」

 そんなことを語っているうち、眠っていた。河本が眠ったかどうかはわからなかった。

 それから体感にして一瞬、だが長い不安な夢を見ていたような気もする。嫌な予感に急いで目を開けると、運転席では河本がハンドルに突っ伏していた。

「どうした?」

 俺は聞いた。

 ざっと見た限りでも周囲に異常はない。日はすでに高く、深夜より停まっている車が多い程度だ。後方では壁のように大型トラックが並んでいたが、これは昨晩からさして変化はない。

「日が昇って、見ちゃったんです……巨人を」

 熱病にうなされているかのように河本はうめいた。大男が子供みたいに背中を丸めて怯えていた。

「もう近くまで来ていたってことか」

 東北の深いところまで到達している。これまでは夜ではっきり見えなかっただけなのか。

「見ないようにしていても、中々に苦しいんです」

「目を閉じていればいい。どっちに見える?」

 当然ながら北の方を指差した。

「運転を交替しよう。出してもいいか?」

「いいや。顔を洗ってきますよ」

 それで俺も洗面所に行き、二人して用を足してから顔を洗った。ドリップコーヒーの自販機でブラックコーヒーを買って河本に渡し、運転席に乗り込んだ。

「目をつぶってリクライニングでもしておけばいい」

「助かります……。眠りたくない。なにか話してくれますか?」

 助手席の河本は、シートを倒してサンシェードも下げ、目を開けても天井しか見えないようにしながら俺に言った。

「悪いけど、俺には君が正気を保っていることを期待するしかないんだ。だけど、聞かなくちゃわからない。なにを見て、どう感じているんだ? 話してくれ」

 車を出して予定通り北へ向かう。せっかくの高級車だが、運転の楽しみなんてものは微塵も感じられない。

「ゴジラ映画で一般人が下から怪獣を見上げちゃった風景です」

 強いショックを受けていたら言えないような比喩を河本は口にした。意外に余裕があるのかもしれない。

「それだけじゃショックを受けないだろう? なにがあった?」

 踏み込んで聞いてみると、河本は口ごもった。

「体の……巨人の体ですよ……表面というか……」

「言いにくかったら単純化していい……いや、単純化ってなんだろうな? 俺もちょっと慌ててる」

「ははは……いいですね、単純化。そうですね、単純に言うなら苔の生えた人体です。それが内側が空洞なマネキンみたいに所々修繕されている」

 冷静に観察していたらしい。

「嫌なのが人体みたいに血が通っているのがわかることです。青い静脈のラインも見える。でも皮膚の色は様々な人種が混じっているみたいにマーブル状で……それに目を凝らすと、嫌なことがわかったんです。その皮膚は、すべて人間の、つまり僕らと同じサイズの裸の人間の集合体だったんです」

「そりゃあ、薄気味悪いな」

 呑気に聞こえるかもしれないが、俺はそう答えるしかなかった。

「薄気味悪いなんてもんじゃないですよ! だって、それは皮膚になっているだけじゃなく、垢みたいに落ちてくるんですよ、ボロボロと……人体のパーツが時々、落ちてくるんです。人間が生えてきて、新陳代謝している。中には完全に人間になっているものもいて、それが幽霊ってものの正体だってことがわかるんです!」

 胸が悪くなるような光景を想像する。

 そして、これまでの事態のひとつに説明がつく。

 巨人は幽霊を落として歩いてきていたのだ。新陳代謝する皮膚から剥がれる垢のように。

「風呂に入ったほうがいいな」

 軽口を叩こうとしたが、うまくいかなかった。

 河本は無理に笑ったが、目を開けて少し体を起こした。そして窓を指差して言う。

「足が見える」

「無理をするな。狂っちまったら、俺はどうしていいかわからん。暴れられたら君を止められそうもないしな」

「見ないわけにいかないんですよ! 駄目だってわかるけれど……ああっ、確認しないともっと動いているかもしれないじゃないですか!」

 目を覆ってシートに体を叩きつけるように寝転がった。

「冷静に! それ以外になにか感じていることはあるか?」

 幸い、今は長い直線だ。車のクルーズコントロールに頼ることにして、片手を離して河本の肩に手をやる。

「顔を……顔を見たくなるけど、見ちゃいけないってことはわかるんです……。見たら、相手の意思がわかる気がするんですよ……ああっ! なんだってそんなことを考えるんだよ、僕は! 見ちゃったら、全部わかっちゃうってことでしょ! 駄目なんですよ!」

 そう言いながら河本は体を起こした。凄まじい速度でシートのスイッチを押して助手席の窓を下げる。

「駄目だ!」

 俺は肩を掴んで押し留めようとしたが無理だった。河本は上半身を窓の外に出し、上方を見上げる。そして叫んだ。

「ああああああっ! わかった! すべてわかった! こんなに大きくて! こんなに簡単なことだった!」

 なにかを理解してしまったのだ。

 科学的な大発見をしてしまったかのようにわめきたて、いきなり上半身を車内に戻して、俺に掴みかかってきた。

「急いで! もっと速くあそこに行かないと!」

 止められるのかと思いきや、逆だった。俺の右足をグイグイ押してくる。車はスルスルと加速して、メーターがぐんぐんと上がっていく。

「落ち着いて!」

 河本の体を引き剥がそうとする。だが向こうはえらい馬鹿力だ。足をアクセルからずらすことすらできない。

 エンジンの唸りが車内に満ちる。

 加速を体に感じる。

 どうなっているのかわけのわからぬまま、俺は両手をハンドルから離していた。

 より危険だというのに、そうするべきだという気がしたのだ。正確に言うなら、やるべきことが不意に頭に浮かんだのだ。

 それは陽鞠が空に消えたときにしていたサイン。

 俺は右手を動かした。正確に記憶していたが、どういうわけか今まで再現したことのないサイン。指を組み、星を描くように動かす。なにかに導かれるように、手はスムーズに空間を走った。

 と、体に電撃が走ったように感じた。頭頂部から背筋を通して尾底骨まで爽快感が走り抜けたのだ。体の細胞に至るなにからなにまで生まれ変わったかのようにスッキリとしている。

 世界がクリアに見える。なにか麻薬でもやったんじゃないかと疑うほどに視界が開けている。そして、それは河本にも影響しているのだ、と確信できた。

 河本の体から馬鹿力が消えていた。驚いたようにバッと俺から離れる。

「なにを……していました? 僕は?」

「巨人の顔を見て……なにかを理解してしまったらしい……そういう風にしか見えなかった」

 俺は答えた。アクセルを抜いて速度を抑え、河本の方を見た。

 今度は俺が取り乱す番だった。

 見えていた。巨人の足が。

「み……見える!」

 俺は大声を出していた。

 河本が描写したとおりの巨大な足の横を通り過ぎていた。

 皮膚はやや離れたここからだと人体のパーツがひしめきあっているのだとはっきりわかった。集合体恐怖症でなくとも総毛立つ思いがする。巨人の薄い皮を破って人体が奥から生えてきていたのだ。しかも薄皮の下で人体が蠢いていることもわかる。

 クルーズコントロールに任せて窓を開け身を乗り出した。後方を見上げてみると、それがどのくらいの大きさかわからず頭がクラクラした。かなり遠くから見えていたのだからスカイツリーにでも匹敵するくらいだろうと思っていたが、地上からでも逆さにした卵型の後頭部がはっきりと見える。三百から五百メートルくらいなのだろうかと漠然と思う。だが、非現実なもので、“大きい”というイメージだけが見えているというのが妥当なのかもしれなかった。

 外見とサイズ不明というだけでも恐怖だったが、そいつが動いたことがさらに俺の背筋をゾクリとさせた。その大きさに似合ったゆっくりとした動きで体ごと振り返ってくる。

「うわっ……!」

 河本も同じものを見ていたのだろう。動き出したのと同じタイミングで声を上げた。

「追ってくる……のか?」

 俺は聞いた。

「顔を……顔を見ないほうが……」

 河本の緊張した声がする。

 しかし、俺はその忠告を聞く前に巨人の顔を見てしまった。

 それは河本の言葉通り恐ろしいものではなく、アステカの翡翠の仮面のような戯画化された顔だった。黒曜石のような真円の瞳が巨大な白い目と同心円を描いているのは子供が描いたようだった。唇にあたる皮膚がなく、歯が剥き出されており、それは宝石のモザイクでできているかのように見えたが、おそらくは人骨を組み合わせたものだ。鼻は奇妙な盛り上がりを見せており、皮膚も翡翠のモザイクと思えたが、人体に苔が生えて変色しているのだった。

「見ちまった。気味は悪いが……」

「いいや! 表情があるのが怖いんです!」

 すると違うものを見ていた可能性はあった。表情はわからないし、そこに人間味は感じない。意思疎通ができそうには見えないため、俺が感じている恐怖は人体をパーツ化するグロテスクさと巨人の大きさに対するものだ。

 巨人は完全に振り返ると、車を追って歩きはじめた。実にゆっくりとではあるが、こちらを認識しているのだと思うと、車に乗っているのに走って逃げたくなってくる。

「歩いてる……が、踏み潰される建物があるわけじゃないな」

 脳が混乱してくるが、巨大な足は建物を貫通しているらしい。空間に投影されたはっきりした映像という比喩になるだろうか? が、巨人の移動速度は車のそれよりかなり遅いらしく、みるみる巨人は遠ざかっていく。

「あれが……迫ってきていたのか」

 俺は正面に向き直ってハンドルを握った。

「不思議と、今は以前ほど恐ろしくはありません……でも、大事なことを忘れてしまったような……」

 河本は戸惑いの声をあげていた。恐怖からでなく、理解不能という感覚から頭を抱えている。

「忘れた?」

 俺があのサインを彼に行ったからだろうか? 信じがたいが、それがきっかけだった。俺が巨人を見えるようになり、河本は落ち着いた。

「監視されているような、ずっと視線を……しかも心の中まではっきりと見られているかのような感覚がなくなったんだす。でも、そのせいで行き先がわかっていた感覚もなくなってしまった……」

 呆然とした顔で河本は自分に言い聞かせるようにつぶやき、顔を覆った。

「行き先って、S村で間違ってない?」

 不安になり聞いてみる。

「多分……そうだと思うんですが」

「俺も君も狂っちゃいない。大丈夫……大丈夫だ」

 俺はそう繰り返し、やや走ってから空腹に気づいた。昼をかなり過ぎていた。

 サービスエリアに入り、つい南側を振り返る。

 遠くに巨人が見えた。すでに馴染みの景色であるようでいて、時折映像にノイズが入るようにちらつくのが不快だった。しかも視線はずっとこちらに向けられている。

「追いつかれ……てもなにも起こらないか」

 そうつぶやくと、河本が首を横に振った。

「いや、なにも起こらないかもしれませんが……急ぎたくはあります」

「大丈夫。予定通りには来ている」

 真っ直ぐに休みなしで走っても九時間以上かかる行程だ。今日の午後に着けるのだから、それでなんとかなると信じたい。しかし、急いで食事をして目的の町役場が近づいてくると、楽観的な観測は裏切られていった。

 片側一車線の国道ではあるのだが、どこまでも直線である。左右には平屋か二階建ての建物しか見えず、役場のある十字路はいちばんの繁華街であるはずだが、そこの建物の間も百メートルは優に離れている。しかも、消火栓の立て札のある空き地、なぜか向かいあって違う社のコンビニが二件、工場みたいな見た目の民家に書道教室の崩れかけた看板がかかっているという具合で、少し離れたところにプレハブみたいな喫茶店があることだけが唯一、市民が生活しているのだということを感じさせる程度だ。これまで歩行者は目にしていない。車だって数台しか通り過ぎない。通り過ぎた商業施設の駐車場はどこもサッカーができるくらいに広い。

「この町からさらに奥に入った村がS村だ。旧S村というべきだけど」

 俺は町役場の駐車場に車を停め、河本の様子を伺った。体調が悪化したり、混乱している様子はもうなかった。だが、どうすればいいのか戸惑っているのはわかる。

「村が近づけばなにかわかるという気がしていましたが……なにもないですね」

 なにもない、がこの町のことなのか、自分の感覚のことなのかはわからないが、俺も同感ではあった。以前にS村を調べた際に寄った市の施設にもう一度行くべきだったかもしれないが、ここで調べなければ得られない情報もあるだろう。

「資料をあたってから、村を目指そう」

 それくらいしかできることはない。都市部の小学校みたいな大きさの役場に入る。広々としたフロアの上方を見て、下がっているプレートを確認していく。奥の端に観光課とあった。S村についての漠然とした問い合わせであれば対応してもらえるだろう。

 このあたりでは見かけないデカイ男二人がぬっと現れたにも関わらず、応対してくれた観光課の女性は親切だった。

「N町ははじめてですか?」

「はい。S村についての調査をしていてですね」

「え?」

 観光課の女性は不意を突かれたように背筋を伸ばした。違和感のある反応だった。

「どうしました? ええと、ウェブサイトの取材でして」

「は、はい、合併してなくなったS村ですよね。町史編纂室ができましたので、そちらに行ってみては。案内させていただきます」

 町史編纂室? 観光客に応対する部署じゃないだろう。

 俺は河本と顔を見合わせたが、すでに観光課の女性は先に立って歩きはじめており、その後姿からは感情を読み取れなかった。

 二階の端の部屋まで案内された。観光課の女性はノックもなしに扉を開けた。

「村上さん、S村についての調査の方です」

 中に向かってそう言うと、こちらを見もせずにさっさともと来た廊下を足音高く小走りに去っていく。礼を言う暇もなかった。

 部屋を覗き込むと、灰色の事務キャビネットとデスクしかない部屋で、中年男が一人だけ座っていた。窓はかろうじて設置されているが、一般的な企業なら左遷先なら良いほうで、退職を促す追い出し部屋と呼ばれる類に見えた。デスクに置かれたノートパソコンにはケーブルも接続されていない。

 村上と呼ばれた中年男は、ぼんやりした顔をあげた。絵に描いたような冴えないおじさんで、すだれ頭に黒縁眼鏡ときている。顔の下半分は剃ってもなお青いひげが濃い。

「なに?」

 およそ観光客に対する態度ではない口調で村上は言った。不躾というわけではなく、相手が人間であるかないかすら認識していないように見えた。有り体に言えば精神をやられている者の口調だ。閑職に追いやられたにしても、壊れた人間を置いておき、しかもそこに俺たちを案内するとはどういうわけだ。

「S村について調べているんですが」

 俺が言葉を失っていると、代わりに河本が聞いてくれた。

 と、ぼんやりしていた村上の瞳に色が戻った。

「千九百六十三年にS村はN町に合併されました。この際のN町議会は賛成十一反対一。S村議会は賛成三反対一でした」

 結婚式の時の牧師みたいな熱意を持った口調で村上は言った。だが狂っているというには表情は微妙だった。大事なことを噛んで含めるように俺たちに説明しているというだけにも見える。

 村上はデスクから立ち上がった。半袖ワイシャツにネクタイの事務員スタイルだが、その態度は服装にも部屋にも不釣り合いな厳粛さだ。

「S村はその名を失いました。住民も除々に去っていきました。今では住居にも草が産し、農具は錆びるままになっております。しかし、その歴史的重要性が減ずることはないでしょう。そこをこうして訪ねる者がある限り」

 手を広げ、俺たちを歓迎しているかのようだった。

 異常さは理解していた。だが、同時に奇妙に冷静に戻っていく自分も感じていた。こうなれば、一気に核心に迫る質問をしても答えが返ってくると思えたのだ。

「S出版の事件について聞いても?」

 すると歴史上の悲劇でも語るように村上は悲しげな表情の溜めを作った。

「それは永く悲劇として語られることになるでしょう。それは偽の預言者による不法でした。善良なる人々も言葉のみにては騙されるのです。世を荒らす者が聖なる場所に立つことが起きたのです。それは奇跡や印をも誇示したのです。忘れてしまえば何度でもそれは起こるのです」

 俺の質問を認識していることはわかった。

 背筋が少し震える。

「ムカイ・マヤという者が住んでいたことが?」

「おお、その名は仮初めのものではありますが、最後の預言者が御名であり、軽々しく口にするものではありません。かの方の導きにより善人は善を手にすることができるようになりました。同じように悪人は悪を手にするのです。近く預言が成就するでしょう。かの方の口をもって神は語られます。その目を見えるようにしておきなさい。その耳を聞こえるようにしておきなさい。その手を握れるようにしておきなさい」

 いかにも宗教的な文言が並び立てられる。わけのわからない言い方ながら、やはりこちらの質問に答えていることは確かだ。

 河本もそれに気づいた。

「巨人がこの村から出てきたことはなんなんですか?」

 おそらく自らが考えているより真剣な声で河本は聞いた。信じがたく狂っているシチュエーションではあるが、どうせ狂っているなら情報は聞き出せる限り聞き出すべきだ。

 村上は言葉に詰まるように眼鏡の位置を人差し指で直したが、同じ調子で口を開いた。

「巨人は私達であって、すべての肉であります。神には少しも私達でない部分はありません。神と共に歩んでいると云いながら生きていないということは偽っているのであり真理の道を歩んでいるのではないのです。巨人の歩みは古い戒めを新しい戒めとするものなのです。オニグルミの丘での供え物により新しい戒めは求められました。それにより巨人は歩みをはじめたのです。巨人より生まれた者は罪を犯しません。神の光がその中にとどまっているからです。罪を犯す者は巨人を見ることはなく、巨人も彼らを見ることはありません。しかし、それは古い戒めです。新しい戒めの前には、すべての人が巨人を見ることになるでしょう。新しい戒めによりすべての人々がその行いにより巨人を見ることとなります。正しい行いにより私達が神の一部であることを知るのです」

 いまそういうことを聞きたいのではないが、完全に的を外しているとも言い難い。

「どうする?」

 俺は小声で河本に聞いた。河本は悩む表情を見せたが、すぐに村上に向き直り聞く。

「S村に行くとなにがあります? 僕らはこれから行きますよ」

 村上は「それは良いことだ」とでも言いたげに、ゆっくりとうなずいた。

「オニグルミの丘に登りなさい。神は導いてくださいます」

 そして、村上は糸を切られた操り人形みたいに、ストン、と腰を下ろした。

「オニグルミの丘ってのは、どこに?」

 俺は聞いたが、それに返答はなかった。

 村上は冴えない事務員に戻っていた。こちらの声など聞こえないかのように古いノートパソコンをのろのろと人差し指でタイプしはじめた。

「どうなってるんだよ……」

 俺は完全に毒気を抜かれてしまってうめいた。

「ここまで極端なのははじめて見ましたけど、昔世話してくれた人たちに似てはいますよ」

 河本が町史編纂室の扉を閉めた。

「宗教的人間……ってわけか」

「それに僕は囲まれていた」

 俺に言っているのではない口調で河本はつぶやき、先に立って歩きはじめた。

「同情は今更だと思うけど……想像を絶するね」

 急ぎ足の河本に追いつくのに小走りになりながら背中に声をかける。

「自分でも久しぶりだったんで、過去の自分に同情しているところです」

 階段を降り、観光課の前を通り過ぎるとき、案内してくれた女性がいたので、声をかけてみる。

「村上さんって、いつもああなんですか?」

 俺の口調の微妙なニュアンスに気づいているのかいないのか、女性はにこやかにうなずいた。

「はい。良いお話聞けましたか?」

 俺は「そりゃあもう」とだけ言って、頭を下げて外へ出た。

 駐車場でポルシェの周りをぐるりと一周してみる。なにか車に細工がされていないか確かめるつもりだったが、俺も特殊な訓練など受けたわけではないので、どこを見ればいいのかわからなかった。

 運転席に乗り込みエンジンをかける。異常はないようだった。

 念の為、旧S村にあたる位置にカーナビの目的地を設定する。国道から脇にそれて川を渡ったあたりにある集落だ。もっとも今は集落でなく道路だけが残っていることは事前に確認してあった。

「一時間もかからないな」

 国道をしばらく走らせ、枝道に入る。一車線で左右は畑だ。時折、庭に薪が積んである家の脇を通り過ぎる。自前で山から切り出してきているのだろうか。

 対向車とすれ違うこともなく、山道へ入った。アスファルトで舗装されているし、右側を見るとガードレールの向こうに電柱が立っているが、その他は手入れされていない山林だった。種類のわからない木々の下にシダ類が鬱蒼と茂っている。

「そういえばオニグルミの丘ってのは表記がなかったな」

「地元の言い方なのか、なんでもない場所を宗教的に言っただけなのか」

「問題はオニグルミの木ってのを見てもわからないってことだ」

「スマホで検索すれば……まぁわかんなくはないですね」

 河本が自らのスマホで画像を見せてくれた。あまりに普通の木で、わかるような、わからないような、というのが正直なところだ。

 が、スマホを見たおかげで、俺は自分の用件を思い出した。雪村のイベントに電話出演のため事前連絡を入れておく必要があった。スマホを出してチラと時間を確認する。午後の四時。夏で日が長いため暗くなるまでまだあるが、タイムリミットはイベントの終了する深夜午前零時だ。

 ロックを外したスマホを河本に渡し、車内のハンズフリー通話に接続してもらい、雪村に電話をした。

「心配しましたよ樋口さん」

 逆に雪村に心配されてしまう。その動揺も気負いもない飄々とした声に勇気づけられる。

「こっちが君を心配するんだ。今晩だろ」

「何人かは幽霊を見るかもしれないと思うと、興奮しますね」

 聞いてみると、前回のイベントでスクリーンに蠢くものを見た女性や、情報を様々提供してくれた藤原女史も来てくれるらしい。よくよくあの顔でモテるヤツだ。

「俺も巨人を見た」

 そう言うと、雪村から驚いた声が返ってきた。

「えっ! それじゃ河本さんの仲間じゃないですか」

「そういうことらしいですよ。同じものを見てます。間近で見ました」

 ハンズフリーなので河本が会話に入ってきた。

「それすごいじゃないですか! 巨人って近くで見るとどんななんですか?」

「人間の肉体が集合して作られたみたいに見えるが、大きな人間から小さい人間の体のパーツが次々に生えてきてるんだ。そこからこぼれたものが幽霊なんじゃないかと……」

 電話に雑音が入った。

「えっ……そ……どう……はっ……」

 雪村の返答も途切れ途切れになる。

「すまない、電波が……」

 俺はスマホを確認した。電波の接続を示すアンテナマークは三本立っていた。

「かけ直す」

 俺は言ってから、スマホを片手で操作した。しかし電話はかからない。呼び出し音すら鳴らなかった。

「電波……としか思えないですね。こっちでもかかりません」

 河本が自分のスマホをいじりながら言った。

「しばらくしてからかけてみよう」

 俺は言って、スマホの再起動操作をしてからポケットにしまった。

 運転に集中した。山道の見通しが悪くなったのだ。左右への緩やかなカーブと登りの道が続き、路上にせり出してくる木々も濃くなってきていた。

 景色に変化がなくなってきた。右端の電柱が通り過ぎていくのだけが印象的な変化だ。

「遠いな」

 何度か電話をかけようとして果たせなかった後、俺はつぶやいた。

 時間は五時になろうとしている。目標の一時間はとうに過ぎていた。

「変……ですね」

 河本も不安そうな声を上げた。カーナビを操作して表示を確認した。目的地をそのままに再検索しても、現在地は旧S村へ向かう一本道の途上だった。

「進んでないですね」

「これで走ってないってことはないな」

 スピードメーターを見たが、四十キロ程度は出ている。

 道は左右にうねり、電柱は定期的に後方に通り過ぎていく。

「山だからな。暗くなっちまう」

 時計を見た。六時だった。

「六時?」

 時計が狂っているのだと思った。ついさっきまで五時だったはずだ。河本も車の時計と自分の腕時計とスマホを見比べている。

「六時です……確かに」

「俺たちの感覚がおかしくなっているのか?」

 危険ではない程度に車を加速させてみる。ハンドルを切るタイミングも電柱が過ぎていく速さも上がったが、一向に風景は変わらなかった。

 急速に日が落ち、自動でライトが灯った。ハイビームに切り替えて遠くを見ようとしたが、視界は開けない。

 もう時計を見る気になれなかった。ただ安全に、素早く山道を走らせることに集中した。河本ももう言葉を発しなかった。時折、時計を見て、信じられないと首を振ってはいたが。

 夜の闇はとうに深くなり、ライトに照らされた空間しか見えなくなっていた。もうどのくらい走ったのか、通り過ぎた電柱が何本目かもわからぬほどのうんざりするような時が過ぎていた。

 不意に登りの山道が平坦に変わった。俺は驚きとともにアクセルを緩めた。

「あ、抜けた……」

 河本がつぶやいた。

 左右の木々がぬるりと遠ざかり、舗装されていない道が真っ直ぐに伸びていた。右前方に青色の農作業小屋がライトに浮かび上がっていた。

「S村に入ったのか……?」

 前方に目を凝らす。道は舗装されていないが、交通が途切れたことはない程度に土の地肌がさらされていた。左右は手入れがされていないのか草が伸び放題だが、太い木などは生えていない。

 カーナビは正常に動作していた。村がそこにあったことを示すかのように長方形になった道が地図上に示されており、そのとば口に現在地を表す矢印が点滅していた。

 のろのろと車を前進させる。

 破れたビニールハウスの残骸、トタン引きの空になったガレージ、草に沈みかけたコンクリートブロック作りの小屋などが目に入る。半ばまで錆びて朽ちかけたカーブミラーが明後日の方向を向いており、そこがS村の中心にあたる丁字路だった。

 車を停めて時間を確認する。

「十二時……」

 たしかにうんざりするほどの時間を運転したが、それでもこの時刻は異常だった。

「でも、どの時計もそうなんです」

 河本が俺にスマホと腕時計を同時に見せてきた。複数の時計を見ると、異常な体験をした思いがより強くなる。

「どういうことなんだよ、なんの意味があって……」

 俺は思わず愚痴のような言葉を漏らしていたが、いきなり電話の着信音が車内に響き、俺たちの心臓を跳ね上げた。ハンズフリーのリンクがそのままだったのだ。

「すまない。連絡ができなかった」

 俺は返信のボタンを押して言った。電話は雪村でなく、馴染みのスタッフからのものだった。

「やっと連絡がついた! 大変なことになってますよ! 大成功です!」

 興奮した声だった。

「いや、こっちも大変なんだが……どうなってるって?」

 異常事態に動転していたが、旧知の者の声を聞いてここはまだ現実世界だと安心できた。心を落ち着け、スタッフの話を聞いてみる。

「深夜前に霊が出たんですよ! 雪村さんの言っていた三角帽子にライダースの! 同じものが見えたって言うお客さんが続出して、雪村さんが狂っちゃって、飛び出して行ったんですよ!」

 スタッフの声の背後にざわつきが聞こえる。興奮冷めぬ会場から電話しているのだろう。

「ネット中継は上手く行ってた?」

 聞きながらタブレットをトランクから引っ張り出す。中継が上手く行っていれば動画が会員向けサイトにアップされているはずだ。

「バッチリです。やらせの声も多いですが、盛り上がっているには違いないです。雪村さんの追跡は現在も放送中です!」

「飛び出して行ったって、本当にどこかに移動中なの?」

「そうなんですよ! 移動配信を用意していて正解でしたね!」

 こちらからは配信を確認してからまた連絡すると告げてひとまずは通話を切った。

 雪村が死んだ場合はもうどうしようもないが、彼が失踪しようとしたなら追いかけて中継するように手配しておいたのだ。体に取り付けられる小型カメラと予備バッテリーでスマホから長時間配信できるような装備をしたスタッフが雪村を追う手はずだ。

 動画を確認するためのサイトアクセスは成功した。やはり今は電波は繋がっている。

「雪村さんは大丈夫なんですか?」

「放送中ってことは大丈夫なんだろう。精神はどうかしらないけれど」

 タブレットに窓をふたつ立ち上げて、片方で雪村の生中継、もう片方に放送されたイベントの動画を流す。

 生中継は車の助手席に座りぼんやりしている雪村を映していた。見慣れた車内だ。社用のハイエースをスタッフが運転しているのだろう。ネットでの生放送にしては無言の時間が長かったが、視聴者は千人を超えていた。チャット欄の会話から状況を推理すると、どうやら雪村は本当にぼんやりとした表情で、半ば操られるまま北を目指そうとしているらしい。雪村は演技をしているという派閥と真正の霊による憑依現象を見ているのだという派閥が仲良く喧嘩していた。雪村の放送を日頃見ている者が「雪村さんは演技できないよ。これだけ長期間カメラの前にいたら絶対に笑いだしてる」と正確な評価をしていた。

「雪村さん、こっちでいいんですか? 高速乗り換えますよ」

 スタッフの声がする。雪村はうなずいた。

「東北道……」

 とだけ口にした。

 これでは何時間見ていても状況は変わらないだろう。イベントの動画の方の音量をあげてそちらに目をやる。構成台本の内容は知っているので、霊が見えたと騒ぎになったタイミングを確認したい。カーソルを動かして客席が騒ぎはじめるのを探す。後半の残り四分の一程度の時間でそれは起きていた。

「え……」

「見えた、よな」

 河本と俺は声を揃えていた。三角帽子の霊と雪村がステージ上で向かい合っている。映像を通じても見えていた。

 巨人が見えるようになったとはいえ、それまで見えなかった霊が見えている。これまでは河本さえ霊が見えたことはないと言っていたのに。

「仕込みじゃないですよね」

「出現したタイミングまで戻そう」

 カーソルを後退させていく。その瞬間は突然だった。それまで体験談を話していた雪村の背後に、いきなり三角帽子の霊が出現したのだ。同時に客席の数人が悲鳴をあげる。イベントの放送ではもちろん客席に向けられたカメラはない。声でしか判断できないが、見えていない者ももちろん大半のようで、戸惑いの声が続いている。

 雪村が客席の声で背後を振り返り、弾かれたように立ち上がった。驚愕の表情で、にこやかに微笑む三角帽子を見返していた。

 三角帽子は女性だった。魅力的とは言い難い目の細さと鼻の太さを持っていた。口は動いていなかった。ただその右手をあげて雪村の眉間を指差しただけだ。

 そして雪村が「あっ」と叫んで、三角帽子は消えた。

 雪村は立ったまま正面に向き直り、マイクにかがみ込んだ。

「行かなくてはなりません」

 そう言って、歩き去ろうとするのを走り寄ってきたスタッフが引き留めようとして揉み合いはじめた。しばらくして放送機材をまとめた生中継スタッフが走ってきて、雪村の歩むに任せ、後方をついていった。

「ええと……大変なことになりました。やらせではありません。霊が見えた人も、いるんでしょ? 見えた人はなにが起こったか説明してくださると……え? 配信でも霊を見たってコメントが入ってる……?」

 自称霊感アリの元芸人が自分が見えなかったことを取り繕うのも忘れて司会に収まってイベント進行を続けようとしていた。

 ここまで見ればあとは生中継だけでいい。雪村が目指しているのはやはりこの場所だろう。だが、ここになにがあるのかは俺たちにはまるでわからない。

「ここで夜を明かすしかなくなったかな」

 俺は顔をタブレットからあげて河本に言った。

「またあの謎の時間を過ごすのは嫌ですからね。移動しないほうがいいのでしょうか?」

「とはいえ、水もないし、車で一度村全体を周回して……」

 外に出て懐中電灯を使うよりは車のライトの方が捜索には向いているだろうと外に顔を向けたとき、異変に気づいた。

「うおっ!」

 驚きに声が漏れた。河本も正面に顔を向けてビクリとした。

 ハイビームのままのヘッドライトの光の輪の中に人が立っていた。

 ごく一般的な野良仕事の格好をした老人だった。麦わら帽子にTシャツと作業ズボン。アームカバーをつけて首にタオルを提げている。

 近所の者が出てきたにしても、態度がおかしかった。ライトの明かりの中にただぼんやりと立っている。

「どういうことだ」

 車のドアロックが閉まっていることを確認した。

 横に首を回したことで、闇の中に別の者の姿を見てしまった。

「囲まれてる」

 河本がどう反応したものかわからないといった口調でつぶやいた。

 首を巡らせて闇に目を凝らす。

 確かに車を囲んで七人が周囲を囲んでいた。

 誰もなにも言わずにこちらを見ているだけだった。

 周囲を囲むのが野蛮さならば同様の蛮勇で対処もできただろう。車を発進させて二三人も轢いてしまえば後のことは知らないがこの場を切り抜けることはできる。だが周囲を囲んでいるのは親愛とも拒絶とも警告ともつかぬ未知だった。彼らは悪意をこちらに持っているわけでもなく、ただ我々のわからぬ理由で囲んでいるのだ。

 彼らの格好はいかにも村人Aに一般人Bというスタイルだったが、この場に不釣り合いな具合はシュールな絵画にも似ていた。一般的な格好であるのに、そこに出現するまでの経緯が想像できないのだ。野良仕事スタイルの老人は土埃ひとつなく、一般人と見えた若い男性はクラブで大麻のひとつも吸いたそうなコーディネートだ。教師風の紳士に、噂好きの主婦、東南アジア系のコンビニ店員まで揃っている。彼ら同士を一部屋に集めてもまるっきり会話は成立しないだろう。

「霊……じゃないよな?」

「多分……」

 俺も河本も半信半疑だった。例の映像みたいなチラツキは見えない。

 なにより足音が聞こえた。

 足音?

 彼らが囲んでいる輪の距離を詰めてきていた。

 敵意は相変わらず感じない。相手は全員が電車内で各々スマホを眺めているかのような無表情だ。だがスマホの比喩で言えば画面は俺たちの顔だ。スモークのかかっていないウィンドウを通して真っ直ぐな視線を感じる。

 彼らは俺たちになにかを期待している。あるいはなにかさせようとしているのだ。

「轢くか?」

 俺は肯定されないだろうと思いつつ聞いた。

「話を聞きましょう」

 思ったとおりの言葉が返ってきた。俺一人ではその決断に踏み切れなかったのだ。

 俺は窓を半ばまで下げた。ムッとする夏の空気が入り込んできて、車のおかげで外界から守られていたことを嫌でも感じる。そして、その障壁はいま取り払われようとしている。

「敷地に入ったってことですかね?」

 運転席側に近かった教師風の紳士に声をかけてみる。こんな状況なのに日常生活での口調になってしまう自分が少しおかしく、作り笑いが失笑になった。

 激烈な反応も、穏やかな笑みも返ってはこなかった。紳士はサマースーツの腕を後方に伸ばした。そこに制服姿のコンビニ店員がおり、抱えていたハイキング用の小型バックパックを紳士に渡す。

 小型バックパックは学生が通学にも使うようなありふれたもので、キャンプメーカーのロゴが入っていた。紳士の腕の力の入り具合を見ると、中身は入っているようだ。

 空いている手で紳士は窓を下げろとジェスチャーした。バックパックを渡すつもりだろう。意を決して窓を下げると、その通りバックパックがこちらに渡された。中身に雑多なものが詰まっている感触がある。

 紳士からオーデコロンの香りがして、彼が生きている人間であることを感じさせたが、この場にはふさわしくないという印象は変わりようがなかった。

「なんです?」

 俺はバックパックを抱えたまま聞いた。

 と、紳士が、いや、囲んでいた全員が一方向を指差した。

 自然にそちらに目が向く。だが、そこには闇しかない。

「あっちに行けって?」

 俺は聞いた。

 車の正面からのみ人が退いた。

 指さされている方向はカーナビの地図を見ると道が途切れていた。田舎によくある、それ以上は車が入れない道、ということだろう。

 バックパックを河本に渡す。視線を交わすとうなずかれたので、俺はギアを入れてのろのろと車を出した。

 するすると紳士の顔も野良仕事の老人の顔も後方に流れていく。闇の中に彼らの顔が消え、ミラーからも見えなくなった。正面には土の細い道が浮かび上がっている。一本道だ。

「食料と水ですね。おかしなものはありません」

 バックパックの中身を確認していた河本が言った。

「こちらが夜を明かすだけの用意がないってことを心配した親切な人だったってことだな」

 笑いは返ってこなかった。

 正面にかろうじて浮かび上がっている土の道路はその幅をぐんぐんと狭めていき、緑の侵食によって闇に光る灰色の一本線に変化した。ポルシェのフェンターが草や小枝を弾く音がやかましくなってきた。

「人間は入れるな」

 俺は車を停めて言った。

 背後を振り返る。誰も追ってはこなかった。それでも急き立てる声が聞こえてくるような気がする。

「懐中電灯もあります」

 バックパックから輪になったゴムのついたヘッドランプを取り出し、河本が俺に渡した。懐中電灯なら自前のものがあるので、撮影用の装備をスーツケースから取り出した。受け取ったヘッドランプを撮影用ベストのポケットに突っ込み、首から動画撮影用の小型カメラを提げる。

 エンジンを切った。車の明かりが落ちる。周囲が完全な闇に沈み、俺たちは懐中電灯をつけた。

「もうここまできたら、先に進むってのでいいんだよな?」

 俺は聞いた。

 返事はなかったが、バックパックを背負った河本が歩き出した。後に続いて、ぬめるような空気の中、俺も闇に向かって一歩を踏み出す。

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