第10話 告白
伊月からの音声ファイルには有楽が住所を言っている部分もあった。意外にもそれは東北でなく首都圏のK県で、俺を混乱させた。
心配ではあるが、報告を待つしかない。雪村のイベントは明日に迫っており、俺は河本とともに東北へ向かわなければならなかった。
自分のSUVと河本が言っていたのはポルシェ・カイエンで、彼の財力に驚かされた。逆さにした黒いボートみたいなフォルムがコンビニの駐車場に滑り込んできたのだ。
「前にお話しした通り、仕事がうまくいくんですよ」
大きな体を申し訳無さそうに丸めて河本は言った。
「経緯を聞くと不気味なのはわかるけど、努力の結果ではあるんじゃない?」
「そうだといいんですが。幸運が続きすぎると嫌なんですよ。姉さんのこととチャラにされている感じがして」
河本は苦笑いにしても暗い顔をした。
俺は持ってきたトランクを叩いた。
「すぐに取り出せるようにしておきたい物もある。後部座席でいいかい?」
「あ、シート倒れますよ」
河本が後部座席を前に倒した。荷物室が広がりフラットになる。俺はトランクを寝かせて助手席から手を伸ばせる位置に置いた。
「運転を任せても?」
俺は聞いた。長距離なので、途中で交替しないわけにはいかないだろう。
「行きは大丈夫ですよ。疲れたら言います」
「有り難いけど、行き先はなんとなくしかわかっていないからね。長丁場になるかも」
「いえ、僕にははっきりわかっていると言えるかも」
河本が虚空を指差した。彼には巨人が見えているのだ。
「向こうが近づいてきているにしても、方向だけは確実ってわけか」
俺もなにも見えないがそちらに目を凝らした。
飲み物を買って出発する。
「時々、見えなくなることもあるんですが、だいたいは見えてますね」
高速インターを目指しながら河本が口を開いた。
「まだ小さい?」
「はい。でも、近づくと段々大きく見えてくるんだろうと思うと嫌ですね」
軽く笑うのにつられて俺も笑う。
「近づいたらどんな巨人なのか説明してもらわないといけないからね。薄気味悪いものじゃないといいけど」
「愉快なものじゃないって予感はしますよ」
「しかし、確かめないわけにはいかない、か」
「そりゃあ姉さんがいなくなってしばらく経ちますからね。ヤケクソみたいな気持ちはありますけど」
「それが普通さ。わかるよ」
そう言うと、河本が少し表情を変えた。
「わかるもんですか」
怒鳴ったりこそしなかったが、内に様々な感情を溜め込み、爆発しそうになるのを抑えている表情だった。普通ならもう少し自暴自棄になってもおかしくはない状況だ。俺は河本に好感を持った。このように毅然としていることは中々できるものじゃない。
車は高速に乗った。夜にできる限り進んでしまうプランだった。夏の長い日が暮れてきて、高速の行先表示が逆光で暗く通り過ぎた。
しばらく互いに無言だった。
河本が耐えていることは俺にも理解できた。超常のものを見てしまった戸惑い。姉を何者かに奪われたという純粋な怒り。得体のしれない現象に巻き込まれてしまっている恐怖。味方がほとんどいない苛立ち。姉のように狂うのではないかという不安。
流れていく景色は夜景になりつつあった。車のオートライトが灯り、白線を浮かび上がらせた。
俺は引き結んだ唇で運転に集中しようとしている河本を横目で見た。
「昔、あなたと似たようなことがあったんだ」
俺は言った。
「え?」
戸惑いと疑いが河本の声にはあった。
「いえ、その、感情的になったのは謝ります。僕も動揺していたんです。いや、今もしている。僕の妙な体験を信じてくれている人に当たっても仕方ないのに」
「あー、いや、気まずくはあったし、これから長丁場だ。仲良くしようってのもある。でもさ、同情というのじゃないけど、共感しているんだ」
俺は多弁になっていた。
「共感?」
疑いの声ももっともだった。
「長い話になる。いいかな?」
「いいですよ。先は長いんだから」
□ □ □ □ □
俺の友人の話だ。昔からつるんでいた。小学校のときからだ。
そいつに妹がいてさ。仲が良かったんだ。俺とも。
好きだったかと言われると困るんだが、幼馴染にはなるからね。感情は複雑だった。中学を越えると大半は性欲だが。
兄貴も妹は大事にしてた。年齢はそれほど離れてない。兄貴の方は口下手で押しが弱いけど頑固。妹は頑固なところがまるでなくて、気弱な方だったから、なにかというと妹を守ってた。妹は兄貴が鬱陶しくなると俺のところに来ていたから、ありがたかったところもある。
ごく普通の子供だったよ。もちろん今だって俺はごく普通の男だと思ってるけど。
そのごく普通ってのが崩れてしまったのは、震災だった。
ちょっと北の方に住んでてね。俺たちが高校二年。妹が一年だった。
津波も来た地域さ。だけど、明暗はきっちり分かれた。俺の家が高台にあって無事。あいつの家はやられちまった。
学校にいた俺たちはまだ良かった。妹は風邪で休んでいてね。
俺たちは学校から避難することになったのを二人して抜け出して、家に向かったんだ。だけど途中で動きが取れなくなった。道が込んでいて、それよりも途中で津波が来た。
そのとき誰もがそうだったけど、津波を少し軽く考えていた。だから、そのときに近道をしていたことは幸運だった。高台の公園を抜けようとしていたんだ。
黒い水と瓦礫とが一気にきて、公園を上にあがりながら俺たちは絶望してた。生きていることが不思議だったよ。そのときは自分たちが幸運だったなんて思わなかった。なんで生き残ったのかって思いの方が強かった。
家族のことが心配だったけど、その日はどうにも動きようがなかった。避難所にさえ行けなかったからね。動かなくなった自動販売機を壊して、そこからコーラを取り出して、それだけで過ごした。
翌日、水が引いて家に行ったら、そこは瓦礫の山だった。予測はしてたけど、ショックでどうにもならなくてさ。それで俺の家に行ったら、そこは無事だった。あいつには申し訳ない気持ちになったよ。
それから近所にあるいくつかの避難所に通って物資を分けてもらいながらあいつの家の残骸に通った。他の人達と同じで、避難所に家族と妹がいないかって探しながら、残骸の中に思い出の品が残ってないか掘り返してたんだ。
やることもないから、毎日そうしてた。段々泣くことにも期待することにも飽きがきて、忘れるための作業になっていったけどさ。
異常が起きたのは三日目だった。瓦礫を掘り返す作業を機械的にやってたから、段々大きな柱をどけるみたいなことになって、二人して梃子を使ってそうしていたら、下から手が出てきたんだ。白い、女の子の手で、俺たちは驚いて叫んだよ。死体を見つけたショックで動転してた。
さらに驚いたことには、その手が動いたんだ。
霊現象とか、そんなことは考えもしなかった。
だって、瓦礫をどけて引っ張り出してみたら、パジャマ姿の妹が目を開けたんだ。
「あ、お兄ちゃん!」なんて言ってね。生きていた。生きてたんだ。今でもそう思ってる。あれは完全に生きた人間だったって。
家に連れて返って、水を飲ませて、自分で体を拭かせて、とっておいたお菓子を食わせて……。妹が生きていたってんで、あいつの喜びようったらなかったよ。
俺ももちろん嬉しかった。でも、頭のどこかには引っかかってた。あの状況で助かることなんてあり得ないって。
そんな気持ちも彼女の顔を見たら吹っ飛んだ。もちろん兄貴の方はなおさらだ。だって生きてるんだから、それより確かなことはない。奇跡だろうがなんだろうが、生きていさえすれば、それ以上の説得力はないからね。
心配になってきたのは、それから様子がおかしくなってからだ。
いや、本人じゃなくなったみたいとか、錯乱してたとか、性格が変わったとかじゃない。普通に生活していたんだけだけど、大きなことを言い出すんだ。
「世界を救うってどういうことだと思う?」
「人類が滅びるってどういう風景だと思う?」
みたいなことをね。俺たちは震災でまいっているんだと思っていたから、ごく普通のことを答えていたと思う。彼女が生きていた嬉しさの方が勝っていたから、流せていたんだけど、段々と聖人みたいなことを言いはじめた。
「救済について本気で学ばないといけない。魂の救済は、富とか、義とか、生命とかではないでしょう? 審判からの復活にさえ救済はないの」
「犬の自我を犬を飼う人は感じている。魂とか救済はどのくらいの生物にまであるか考えて。他者を捕食することは単細胞生物ですら行っているの。それは化学物質の働きじゃなくて、他者を認識しているということ。あらゆる生物は世界の中に溶け込んでいるわけじゃなく、世界を内包しているの」
ある程度は今でもそらんじることができる。当時からなんなんだろうと悩んだからね。彼女は過去にもそんなことを勉強していたことはなかった。もちろん震災後にはネットはおろか本すらなかった。
それから彼女は段々と思いつめたようになっていった。なんというか、死期がわかっている猫か象みたいな雰囲気だった。「もうすぐ消える」とさえ言っていたね。そうなると俺たちなんて哀れなもんさ。自分の食料を分け与えたり、昔好きだったアイドルの曲なんて歌って踊ってみせたり。誰かを性愛抜きで好きだって表現するのはえらく難しいもんだよ。特に文明がない場所じゃそれこそ犬みたいになるしかない。彼女のまわりをぐるぐる回るくらいしかないんだ。
そのときに食べた救援物資のお菓子は今でも覚えている。紫のパッケージで細長いあれだよ。壊れやすい薄いクレープ生地の棒をココアで固めたやつ。すぐに割れちゃうから静かに食べたっけね。普通ならなんでもない大量生産のお菓子だけど、彼女と食べる最後の食事だと思うと特別だった。
どういうわけか、俺たちは彼女が消えてしまうんだって知ってたみたいだ。だけど、死なないでくれって言葉にするのはなにかが違うともわかってた。どうしていいか本当にわからなかったよ。守れなくて悪かったって謝ったりしたけど、なんの意味もなかったしね。
そして彼女は兄貴に言ったんだ。
「お兄ちゃん、世界を正しい方向に導いてくれる?」
と。
うなずくしかなかったよ。
それから彼女は夜に外に歩いていった。俺たちはもちろんついていった。
瓦礫はもちろんまだあって、高い建物以外は全部壊れた荒野みたいなところに立って、彼女は俺たちを振り返った。
「お兄ちゃんをよろしくね」
と俺に言って、兄貴の顔を正面から見た。そして、不思議な形に手を動かしながら言うんだ。
「人類を愛してる?」
もちろん肯定するしかなかった。俺も言葉にはしなかったけど、そうだと強く思った。
「それなら、もうすぐ起こる破滅を救って」
そう言って、また手を不思議な形に動かした。
今でも覚えているし、そういう風に動かせるよ。星みたいな形だけどそれぞれ頂点で指を組み替えるんだ。
それから、不思議なことには、あと二回、同じことを聞いたんだ。
「人類を愛してる?」
「それなら、もうすぐ起こる破滅を救って」
「人類を愛してる?」
「それなら、もうすぐ起こる破滅を救って」
やっぱり不思議な形に手を動かしながらね。そう言ったら、天から光が降ってきた。夜の空から一直線に光が差したんだ。
マンガでUFOにさらわれるときみたいな光の束だった。
その光が彼女を包んで、体がふわりと宙に浮いたんだ。
深刻なのに、笑っちゃったよ。驚きと絶望かな。信じられないものを見たら笑う他ない。
光の差してくる方を見たけれど、なにも飛んでいなかった。
笑いもすぐに消えて、涙が出てきた。不思議と神聖さを感じたんだ。説明できないけど。
彼女が消えていく悲しみと同時に、神を見たって心の震えが起こった。
それがなんだったのかはいまだにわからないし、同じ感覚も味わったことがない。
宗教的な体験だったんだと思う。でも、確かにあれは現実だってこともわかってる。
夢を見ていたはずはないんだ。俺と兄貴は妹と過ごした数日のことをしっかり覚えていた。光りに包まれて空に消えたことだって、まったく記憶は一致してた。
何度も話し合った。そして、あれは本当だって思った。
それから俺たちはどうするべきなのか考えた。結局、宗教について勉強することになったよ。三度問いかけられたことのキリスト教との一致とか、救済についての考えとか、驚かされることが多かった。
妹が神なのか、神が妹なのか、それとも妹なんていなかったのか。だとしたらむしろ神はいるのか、いるとしたらなんなのか。あのことも単なる霊現象なのか……。狐にでも化かされているってのが現実だったらいいと思うよ。
普通の高校生に神が降りてきて救世主になれとご指名だ。しかも妹がキリストだった……。
その後の人生は狂うしかない。今も俺とそいつは本当の神を探している。
□ □ □ □ □
「……だから、わかるんだよ。そして、俺も本気なんだ。野次馬じゃない」
俺は河本に言った。
高級車のシートの座り心地は最高のはずなのに、むず痒いものがあった。俺は語りすぎていた。
「なんと返事したらいいかわかりませんが……」
河本が眩しそうに目を細めた。
「正しく世界を信じられるようになるにはどうしたらいいんでしょうね」
「どこかの犬じゃないけど、配られたカードでやってくしかないんだろうな。俺は誰も信じないようなことを追いかけていて、兄貴の方はインテリのエリートコースながら宗教を断罪している。正しく世界を信じる方法……たどり着きたいよな」
深夜十二時。
まだ日が昇るまで時間がかかる。
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