第8話 狂奔

 田連貫一。

 それほど有名な武術家ではないらしい。『転神武術秘伝』のコピーを読んでみると、大正時代にはまだ存在していた剣術流派の末裔ということだ。源義経の創始した剣術という他にもいくらでもある伝説を持つ流派で、よくある総合武術だったと分析がなされている。

 しかし、田連にとって、この創始伝説は大きな意味を持っていたらしい。明治中期から存在する“義経が大陸に渡りチンギスハンとなった”という伝説を信じたとある。多くの剣術流派と同様、明治期に刀を奪われている田連にとって、真剣を振れる大陸馬賊という立場は二重の憧れだったことになる。

 大陸に渡った田連は、人斬りによって自らの流派の正しさを確信し、さらには義経が大陸に渡った証拠を探して古文書を漁るという行動に出た。今ではひどく野蛮なことだが、これは他ならぬ田連自身が自慢していることだった。おそらくはマーニー教が秘匿していた写本を持ち帰ったことになる。

 秘伝であるとして書名は明かしていないが、どうも漢文の写本だけは読めたようだ。それをどう誤読したのか、これぞ義経の書と断じ、そこから「我が身を宇宙と一体とし、丹田より光の気を生じさしめ、これを螺旋と念じ腕脚を通じ手足の指まで通すべし。さすれば剣気兜を割る」という秘術を得たと語っている。「全土に広がる法螺貝の響きこそ甘露なり。清浄、光明、大力、智慧。これぞ八露唄螺」という部分こそが紀要として田連が引用を行っている部分だ。

 調べたところによると、清浄、光明、大力、智慧、とはマーニー教から摩尼教になっても保持された原則として今でも知られているようだ。これはグノーシスにおける光の神の別名でもある。

 田連がこれを義経が大陸に渡った証拠と考えたのは、法螺貝を鳴らすという部分を重視したからのようだ。日本の武人の風習が大陸に伝わっていたというわけである。ここはさして考慮する必要はないだろう。なにからなにまで間違っている。

 こうなると、田連の持ち帰った写本が鍵になっているのは間違いないが、『神塔の会』に田連が直接関係している可能性は低いように思えた。人を斬りに大陸に行くような人物であるから善人ではなかろうが、当人の語りやエピソードを見る限り、あっけらかんとしているというか、有り体に言えばバカなところがある。複雑な教義をまとめたり、信仰組織を作れるような人物とは考えがたい。

 もっと複雑で邪悪な何者かが関係しているという確信のようなものがある。

 田連が読めなかった書物を日本で隠し持っていたとしたら、後に解読した者が出てきてもおかしくはない。調べてみたところ、ウイグルでは、死語である中世イランのソグド語、その派生文字を使っているが言語が違う古ウイグル語、さらには古代から中世までのペルシア語のあらゆる派生言語などで書かれたマーニー教の経典が発見されている。日本では馴染みのないこれらを読める者など数えるほどしかいないだろうという問題はあるが。

 ともあれ、推測よりも田連の消息を追わなければならなかった。時代的に本人はすでに死んでいるだろうが、親族が残っていないとも限らない。なにより珍しい名字だ。手がかりが見つかればそこからは早いだろう。

 幸い、近場にこの手のことに詳しい人物がいた。『MOST』とも非常に関係が近いオカルト系出版社が、武術系の雑誌も刊行しているのである。その筋の人には反論する向きもあるだろうが、武術とオカルトは親和性が高い。特に気で人間を吹き飛ばしたり、ものすごい力を発揮するという魔術と変わらぬことを喧伝している武術家などオカルティストの親戚みたいなものだ。そんなわけで、ある種の武術を取材するなら、ルートも記者の態度もオカルト取材と同一のものが求められる。

 いつでも顔が出せる利点を活かして予告なく編集部に行ったが、幸い、顔見知りの男がいて『転神武術秘伝』と田連について質問することができた。

「いやー、当たり前だけどその名前は知らねぇな。本については知ってるぜ。俺らの雑誌の元祖みたいなもんだからな。剣道の制定に反対した運動の一環として書かれたらしい。そんで田連ってのはなにを言ってるの? え、義経チンギスハン説! あはは、昔に流行ったらしいね……あ! 思い出した。バックナンバー見てみな。書庫にあるかもしれねぇ。“こんなにあった義経が伝えた剣術”……っていうようなタイトルの特集があったんだよ、俺が入社する前だったと思うんだけど」

 バックナンバーは書庫とは名ばかりの雑然とした倉庫にある書棚に並んでいた。全部をチェックするのは骨だったが、幸いにして過去をそこまで遡る必要はなかった。古すぎて返却不要となったリース品のDTPマシンの箱をどけるだけの肉体労働で目当ての本にたどり着けたので、余裕を持ってその号を読むことができた。

 源義経を扱った時代劇が人気だったとかで特集することになったらしい。義経が学んだとされる京都の剣術流派の紹介がほとんどだ。他には頼朝との対立で全国を逃げ延びる過程で義経に師事した者や当人が開祖となったという伝説のある流派が紹介されている。当然、これらは嘘八百なのだが、記事は茶化すことなく流派を継いだ道場主の声と技術を紹介している。検証の結果、義経は太刀、弓は言うに及ばず、手裏剣から鎖鎌までこなすバケモノだったということになる、と嫌味っぽいというかお笑いの文章で締められていたが。

 そんなことより田連の義経流である。それは特集最後のページに見つかった。

「義経が成吉思汗であったことを証明するためにモンゴルに渡った武術家……」

 大半が『転神武術秘伝』からの情報であったが、注目点はその最後の部分だった。

「現在では現地の武道研究家が資料を保管しているが注目する者は少ない……」

 これが俺が掴んでみるべき細い糸なのは間違いない。

 急いで友人のデスクに戻って、この武道研究家とやらの名前がわからないか聞いてみたところ、誰かはわからないがこの中の誰かには違いない、と東北で懇意にしている武術研究家のリストをもらえた。雑誌名を出せば話を聞いてもらえるだろうということだった。

 それから数日に渡り電話をかけることになった。何件かの空振りと折返しの電話を受けつつ、ようやく該当の研究家に的中した。

「あー、多分あると思いますよ。私は全国の、言っちゃあなんだけどお笑い系の武術を集めてますからね!」

 豪快な性格らしい件の武術研究家は、田連の名を聞いても思い出さなかったが、義経チンギスハン説の話をしたらわかってくれた。詳しく知りたいと言ったら、田連の書いた本を一冊保管してあるとのことだった。それならコピーを送ってもらうより直に見せてもらった方が早い。幸い、近日中に面会の約束まで取り付けることができた。

 かろうじて細い糸はさらに先に伸びた。雪村のタイムリミットもある。金はかかるが飛行機とレンタカーでの移動を選択し、面会日の夜には帰れるようにした。

 空路、東北はA県へ飛ぶ。そこからはかなりの距離を車で走り郊外へ。

 目当ての岩坂氏の家は大きめの納屋があるとはいえ一般的な日本家屋だった。武術研究家は職業として成り立つ性質のものではないので、訪ねるとなると自宅になる。広めの庭にレンタカーを停めさせてもらった。

 岩坂氏は頭髪が見事に一本もない禿頭で、電話での印象通り豪快な笑顔が特徴的だった。当人も若い頃は地元の剣術をやっていたらしいが、今では小柄な老人らしい体格となっていた。

「ほう、宗教の方面からの調査でしたか。いいですなぁ、武術と宗教の関係は深いですからな! 電話でお話しした一冊以外はありませんでしたが、お気に召しますかどうか」

 居間で土産物を渡し、一通りの挨拶が終わった後、岩坂氏は古書を出してくれた。

「田連が書いた自費出版のようです。こちらの地元で安く出版するため共産主義運動の草の根出版を使ったようですな。大陸馬賊は共産主義と対立しとったから、お笑いというところですわ! 内容は剣術指南書というよりは義経チンギスハン説の繰り返しになっております」

「それでは失礼して」

 タイトルは『義経秘術奥伝』。まったく上質ではない紙の束という印象の茶色く焼けた本田。印刷もガリ版ではないという程度。ページの最初と最後、献辞や奥付を先にチェックしてみる。出版社はS出版となっており、献辞は出版社を紹介してくれた“夢海麻邦”に感謝するものとなっていた。出版社名と読み方のわからないその名をメモしておく。

 岩坂氏の言葉通り内容は目新しいものはない。いや、ある意味でははじめて目にする意見ばかりといえる。つまり、ほぼ妄言の域を出ないのである。それでも俺が理解できないだけで、貴重な証拠となる文言が記されているかもしれない。

「全文を撮影させていただいても?」

「撮影?」

「ええ。カメラの性能が上がっているので、ページをめくって動画撮影しておくだけで、後で読めるんです」

「ほう、コピーはちょっとした手間ですからな! 良い時代だ」

 俺は撮影をしながら、岩坂氏に質問をはじめる。

「田連氏については些細なことでもいいのでお調べになったことをお教えくだされば」

「ぎりぎりで当時の噂を知っている方に話を聞くことができましてな。農民の用心棒のようなことをしていたのはいいのですが、粗暴だったようで最後には酒で死んだという話でした。死ぬ間際には耄碌して呪われたとか妄言をわめく始末だったそうで」

 呪い? その言葉に俺は反応する。

「なにに呪われたって言っていたかわかりますか?」

「真面目に追求する話でもないと思ってましたから、聞いておりませんな。当時はなんやら警察沙汰で揉めたとも聞いてますので、敵は多かったんじゃないでしょうか? そのくらいです」

 言われてみればそうだ。普通はそういうものだ。

「田連氏の住んでいた村に取材に行かれたんですか?」

「ええ。私が取材した時期も、もう十年以上は前ですよ。普通の村です」

「その村の所在と名前を教えていただけますか?」

 村はS村。当時から今までどうということはない村だし、特に気になったこともないと岩坂氏は説明してくれた。

 それから失礼にならぬ程度に話をし、俺は急ぎ荷物を片付けはじめた。帰京は先延ばしになりそうだ。田連の住居があった村と同じ名前のS出版について調べなくてはならない。そして間を繋いだという夢海麻邦についても。ゆめうみ、むかい? あさくに、まや? 読み方もわからないが、新しい人名が登場したのは事態が先に進んでいる感がある。

「そんなことだけでいいんですかな?」

 岩坂氏はむしろ名残惜しそうに言った。俺は再取材することもあるだろうと挨拶してからレンタカーに乗り込んだ。

 まずは該当地域の図書館をあたってみることにする。幸い車ならば日が高いうちに都市部に戻れる距離にある。S村がある市の図書館在中の司書に「S出版について調べている」と告げると、それについての本はないんですよとあっさりと言われた。

「ない?」

「調べに来る方が何年かに一人はおられるので。お調べになるには、大学か政党だと思います。概説は郷土史のこのあたりを……」

 大正時代と近過去の地元のことだからすぐにわかるだろうと気楽に考えていたのは間違いだったようだ。少し詳しく話を聞いて郷土史を読んでみると、S出版というのは岩坂氏の言葉のように共産党というわけではなかったようだ。当時共産党は違法であったので、それに近い思想の政党が無産政党と呼ばれて地方に乱立しており、その泡沫組織のさらに末端の自費出版ということになる。

 無産政党とは、無産者のための政党ということだ。資本家ではない、という程度の意味で無産者と呼んでいたらしい。インテリが共産党に集まってしまったのと対照的に農民や労働者を中心に組織しようとした無産政党は、必然的に左翼的というよりは、貧乏人の噴き上がりという色が強くなり、国民社会主義、反ファシズム、世界市民主義、自然回帰、アナーキズム、末期には天皇崇拝まで入り込むという状態だった。そうであれば、田連が農民の用心棒であり、バカな本を書いたという背景も見えてくる。

 無産政党の中には過激化し、共産党と同様に弾圧を受けたものもある。そういう流れであるから、郷土史にも概略はあるものの、詳細となると左派系の大学か政党の方が資料を保存しているだろうということだった。

 そうなるとしばらくこちらで粘るしかなくなる。都市部へ移動してレンタカーを返却、宿泊費を浮かすためネットカフェで眠る。翌日の早朝から地元の左派大学や政党、左派出版社に電話をかけ続ける必要があった。

 ネットカフェのリクライニングシートで眠るとき、「そういえば自分は公調の情報提供人だった」と気づいたが、誰もそんなことは知っちゃいないだろう。騙しているようで申し訳ない気も少しだけしたのだが。

 翌朝、持ち込んだコンビニのサンドイッチと無料のコーヒーで朝食をとりながら電話をはじめた。こういう取材の場合、大学名を出して研究の一環とことわっておくとスムーズなので、水野先生の名前を使わせてもらう。田連の取材であることも隠す必要はないだろう。

 電話での取材はうんざりするほど長く続き、めぼしい情報にたどり着けた頃には午後五時を過ぎていた。政党の事務所にも出版社にも一応は就業時間というものはある。それを過ぎても話を聞いてもらえたのは最後に到達したのが小さな出版社だったからだろうが、最初は面倒そうにしていた相手に用件を告げたところ、態度がコロリと変わったのには驚かされた。

「是非に来てください! 大きなネタなんですよ! ようやく取材が来ましたか!」

 左派政党からの紹介で大きめの政治出版社に連絡し、そこからさらにふたつばかり経由して行き着いた小出版社なのだが、そこまで興奮されるとなにか誤解されているんじゃないかと思いたくなる。

「いえ、そんな大した話じゃないですよ?」

「いえいえ、S出版の話でしょう? 知られていない隠れた国家による弾圧の記録が残っているんですよ! 世に出してはいるんですが、見向きもされなくて! タイミングが合えば絶対に話題になることだと思ってるんですよ!」

 やはり誤解だと思うが、断りにくい空気である。それに手がかりはもうこれしかないのだから、行くしかない。向こうは、すぐに来い、今晩の飯をおごってやるとまで言っている。まず先方の事務所にこちらから訪ねることにして、俺は移動を開始した。

 事務所使用も住居使用も可能なマンションの一室が該当の出版社だった。チャイムを押すや否やドアが内側から開けられたのには驚いた。

「樋口さんですね! お待ちしてました!」

 マンション自体は大きいのだが、事務所として貸し出しているのはワンルームで、ここもいわゆるうなぎの寝床状態だ。左右に金属キャビネットが置かれており、人が動けるスペースはさらに狭い。細長いテーブルが置かれているのだが、その端と端に座って長い距離をおいて向かい合う姿勢になった。俺のすぐ背後がトイレで、左には電熱の一口コンロがありヤカンが乗っている。

「あ、お茶を……」

 向こうが動こうとしたので、俺は首を横に振った。

「動くと大変でしょう、自分でいれても?」

「はい、そうしてもらえると」

 脇の水道でヤカンを満たし、コンロのスイッチを入れた。湯が沸くのを待たずに、高橋と名乗った男は話の口火を切った。

「S出版は戦前に一時だけ存在した出版社です。それだけだと他の無産政党系出版と変わらないんですけど、関係者が全員弾圧されたことが珍しいんですよ!」

 高橋は小柄で体も細かった。髪は不自然な七三分けで、この手合には多いが、瞳孔が常に開いている真っ黒な目をして、常に希望に燃えているような薄い笑みを浮かべている。雑に分類すれば狂信者の顔である。表情だけ見れば宗教関係者と政治運動家の見分けはつかない。

「左派政党への弾圧は普通だったんじゃないんですか?」

「え……ええ。弾圧はそうです。言い方が悪かったですね。スパイ事件が関係しているんですよ!」

 どうにも話が要領を得ない。何度か質問をしていくと、ようやく核心部分にあたる言葉を聞き出すことが出来た。

「関係者が全員殺されているか自殺しているんです! これは意図的な虐殺なんです!」

 ヤカンが沸いて笛の音を立てた。

 なるほど。妙なところにたどり着いた。

 俺は棚のインスタントコーヒーを拝借し、二人分をいれる。高橋はその間も話し続けた。

「本当だとしたらかなり大きな事件なんですけど、当時でもこれを問題にした人は誰もいないんですよ! そこが奇妙なんです。なんでも呪いとかそういうのが絡んだみたいで。いえ、呪いを信じているわけではないんです。これはそういう噂を特高警察が流したに決まってるんですよ。自分たちの行った虐殺を隠すために!」

 俄にこちらのフィールドに話が近づいてくる。向こうは一方的に自分の推測を含めてまくしたてるので聞き取りには苦労したが、高橋の主観含みの情報としてはこうなる。


               □ □ □ □ □


 S村に農民政党が作られることになった。中心となったのは村の地主のKだ(本件の一次資料は発覚を避けるため人名はほぼアルファベットで書かれている)。無産政党としてはすでにこの時点で歪んでいるのだが、Kは農地を改良する化学肥料の研究に希望を見出しており、共産主義の科学的なイメージに憧れを持ったのであろう。

 このような地方政党は緩やかに中央の政党に統合されてしまうのが常だが、このS村においては独自路線を保つことが可能だった。その理由はKがMを呼び寄せたことにある。

 Mは海外留学していたKの親戚筋(とはいうが実は正体不明)の若者で、大変な天才との印象を村人に与えたそうだ。この時代における共産主義者のステータスであったロシア帰りでなく、英領インド帰りではあったが、多数の原語に秀でており、種々の学問にも通じていたという。

 これを機に、S村はKの影響かMの影響か、自然崇拝と疑似科学が融合した奇妙な主張の集団となっていく。屋内で農業を行うことが可能になり都市部の住民も農家になれば権力は農家へと緩やかに移譲されるであろうというものだ。無害というか、夢想に過ぎない主張である。

 しかし、特高警察の地方への配置により、捜査の手はS村にもやってきた。S出版の内容は精査されることになるが、これは特高警察に理解できる内容ではなかったようで、不敬であるとされる部分に検閲を受けるだけで済んでいるものの、理解できなかったが故にS村は要監視対象になったのだった。

 これにより新規加入者、つまりMにスパイ嫌疑がかかることになった。それまで権力とは無縁であった村人たちにとって、国家から目をつけられたという衝撃は現代の我々からは想像しにくいほど強烈なものだったに違いない。まして政治闘争に慣れていない集団は簡単にパニックになった。馴染みのない思想や知識を持ち込んできたMが疑われるのは当然のことだった。

 ここでTが重要人物に浮上する。これは田連のことだろう。対特高、対スパイの用心棒として注目されたのだ。田連は大陸でのことを吹聴していたから、余所者ではあるがスパイであるはずがなかった。

 同じ頃、田連にはMも接近していた。これは身を守るための行動だろう。MはS出版を実質仕切っていたから田連の主張を出版してやることでご機嫌をとったというところか。

 ところが、その行動が村人がMへ向ける疑惑を深めることになってしまった。Mは大陸帰りの魔術的な知識を活かして田連を操ったと噂されるようになっていった。

 今の知識ならばわかるが、S出版の発行物はヒンドゥーとイスラムの面から思想的にインド独立を支持する作品や、神智学の政治体系化を模索するもの、原始共産主義の非実在とそこからのマルクス批判など、当時の知識人でも理解しにくい、まして無学な者には到底読めはしない代物だった。Mは魔術師扱いされたのである。

 やがて田連と地主のKは苦境に立たされる。地主でありながら左派運動に理解を示したのがやはり傲慢だったということなのか、Kは村人により突き上げを喰らいはじめる。地主との契約不均衡を訴える小作争議と、稲作政策への反対デモという当時の流行がS村にも持ち込まれたのだ。さらにそういった運動が特高警察を呼び込んだのが明らかながら、村に大規模な捜査が入ったのをきっかけに、Mのスパイ疑惑が再燃、さらには田連の警察への無反抗が問題となった。これらにより、村人は過激な行動へと向かって行く。

 田連にKとMを殺せと迫ったのである。

 そこからは高橋と俺の推測が入る。記録上、Kは病死。Mも行方不明扱いとなっている。だがその時期は近い。おそらくは田連が斬ったのだ。

 無論、それで事態が好転するはずもなかった。特高警察の捜査も厳しいものになった。拷問まがいの尋問が行われ、死者こそ出なかったものの、これがさらなるスパイ疑惑を村人に生み出した。互いに疑心暗鬼となり、事実無根の密告や闇討ちも起こった。

 そして変死が続いていく。どれも病死、事故死、狂死となっている。高橋は特高警察のスパイによるS村皆殺し作戦と呼んでいる。

 だが、この記録を残してくれた、ある村人の日記では、これを呪いと断じている。


 Mの云ふ事、深刻。自分には皆目わからぬが尋常ならぬ鬼気。

 Tの回族より奪つた魔導書解読せりと云ふ。己に手を出せば天誅必ずアリ、我が身、亜拉毘亜の神と合一せり、とも。

 皆一笑に付すも不安アリ。


 T愚か。他愛もナシであつたと笑ふ。

 W、Kの家族に病死と伝ふ。火葬急ぐ不自然にKの家族は事情を察するも我々の非情に声も上げず。

 M、行方知れず。仔細判らず。


 T、自殺。Mの行方を知る一人。死顔凄まじと聞く。


 Y、来訪。

 Kの家族、都会へと引っ越す。呪ひの言葉伝へられる。

 Y、誰其がスパイであると云ふ。それでは皆スパイ也。


 幽霊の噂。

 Mがじつと見てゐた。

 行方知れずなら当然との言アリ。恐らく事情を知る者のみ青ざめり。


 Mの噂深刻。数人集まり夜を明かすことにしたと聞く。

 翌朝、Mを見たと狂乱する者、見てゐないと戸惑う者に分かれる。


 Mを見た者。死せり。


 M殺害の噂広まる。皆事情察すれど困惑。Mより恨まれなかつた者もMを見てゐた。

 T詰問されるも、Tの知能で策謀不可能と皆諦める。

 O、Mの魔導書を見つける。漢文読める者少々、亜拉毘亜語誰も読めず。


 O、漢文解読により呪文を得たと笑顔。Mの呪ひこれで終わると狂喜。

 信じがたくもすがる者多数。致し方なし。


 O、呪文により内心が解りスパイ発見可能と自信。半信半疑もOの云ふ通り特高来る。

 しかし、Oの狂気明らか。


 村の雰囲気、悪し。雑談減り、活動家と家族らの対立はっきりする。そもそも活動家は特高にリスト取られ後に引けぬ。一斉逮捕の噂。Oの流したものか。


 O、信ずる者を連れ暫く山に隠れると云ふ。

 巨人を見たとOが云ふに至り、多くの者が狂気を知るも、巨人とMの姿似たりとのこと、Mの幽霊を見た者これを信ずる。其れ故家族を連れた者含十五人が山へ入る。行く先告げられず。


 魔導書、大学の先生に見てもらうとA主張。魔導書探すも保管先にナシ。Oが持つているか。


 特高、行方不明を知る。山狩り。十五人総て死亡とのこと。いずれも身体に傷ナシ。食料飲料沢山残る。特高、斯様に凄惨な現場は見た事ナシと云ふ。傷ナシ故に凄惨に為りようナシと聞くに、彼らの表情一様に絶望スとの事。


 特高警察、警察、駐在皆来る。服毒自殺と噂す。


 T、狂う。但し幽霊も巨人も見ず。

 恐らく事態終われリ。

 くれぐれも誰も政治せず、誰も念仏唱えぬよう。


               □ □ □ □ □


「このMの幽霊というのが特高警察の変装だと思うんですよ! そしてスパイのOを使って怪しい者を集団で山におびき出し、全員、特高が毒で殺したんです!」

 高橋は日記の超常的な部分をまるで信じていなかった。巨人もOのでっち上げか、天皇を示す符丁だと考えていた。

 しかし、今の俺はこの日記の簡潔な記述をすべて信じる。

 信じる他ない。

 現状と過去の状況のリンク。しかもそれが巨人と霊の存在だ。

 不安が俺の動悸を早める。核心に迫ってしまった後ろめたさにも似た感情が、何者かから超常的な手段で監視されているかのような感覚を呼び起こしていた。

 一方で正解にたどり着きつつある喜びもある。以前の俺ならあり得ないとしていた結論になりそうではあるが。

 狭い室内にそれぞれ違う理由で額に汗した二人が向かい合い、時間はすでに深夜になっていた。古いエアコンのぬるい空気が充満し、活動家たちが全滅した村の陰鬱な気配を身近に感じさせた。

「コピー、もらってもいいですか?」

 俺は気を取り直し、渡された資料を振った。高橋は自説を広める機会を常に狙っていたようで、彼が集めた情報はあらかじめ幾部かにまとめられていたのだ。

「もちろん。それでですね……!」

 高橋がまだ喋ろうとするのを俺は制した。

 悪いが特高警察の悪事を告発するのは今度にしておいて欲しかった。空腹は感じていなかったが、部屋に満ちている薄気味悪さを外に出ることで晴らしたかったのだ。

「食事、してからにしませんか?」

 時計を見た。二時である。二十四時間やっているファミレスしか開いていないだろうが、相手の経済状態を推測してもそれで充分だった。

「あ、もうこんな時間ですか」

 高橋が練習に熱中していたアスリートのように汗を拭った。

 深夜の路上に出る。

 外の空気はぬめるようで、陰鬱な気配を振り払うことはできなかった。俺の気分の問題のはずなのだが、空気に血の臭が混じっているような気さえしてくる。血を流した裸の男が背後から抱きついてきているかのようだった。

「一般に言えば怪死ですが、やはり特高警察のせいだと思っていますか?」

 黙っていると嫌な気分が増してくる。一度中断させた話ではあるが、高橋に勝手に話し続けてもらうことにして、改めて話を振った。

 空腹を思い出したのか静かにしていた高橋に再び火が灯った。

「集団自殺に見せかけただけですよ。それに集団自殺だったとしても怪死というには弱いです。村人をスパイで追い込んで残酷な殺し方をしたところをみれば、これは特高警察以外にはあり得ないですよ」

 民家と公園に挟まれた小道である。俺は声を抑えるように言ったが、高橋の熱心な語りは尻上がりにトーンを上げていく。

「特高警察は残虐ですからね! スパイ活動、盗聴、拷問、すべてやるんですよ!」

「ただ怪死だからこそ高橋さんの説が受け入れられにくい側面はありますよ。一次資料から抱く印象のことです。大半の人は村人の死について、陰謀よりは狂気のせいだと思うでしょう」

 聞き流すつもりだったが、高橋のあまりの極端さに自然と反駁するようなことを言ってしまった。それがいけなかった。

「そこも特高警察の罠なんですよ! ターゲットが狂っていると見せかけることで、ターゲットが取るに足らない存在だと一般の人々に思わせるのです! 今でも公安がやっているんですよ、そういうことは!」

 高橋は道案内のため俺より少し前を行っていたのだが、振り返って後ろ歩きをはじめた。手を振り回し、熱弁をふるいはじめる。

「公安のそういう手口を知っておいたほうがいいですよ! それとも心霊現象を信じているとでも? あるわけありません! そもそも宗教というものですがね大衆の弱さが生んだ幻想なわけです」

 後ろ向きになって手を振り上げたり広げたりする高橋の姿は、普段運動に慣れていないぎこちない動きのせいで、それこそ幽霊のように見えた。

「神がいたとして、こんな権力者が好き勝手やるような世界にしたはずがないでしょう! 宗教は大衆のアヘンとまでは言いませんが、現実逃避には違いないんです!」

 昭和初期からそのままであろうブロックを積んだだけの塀の横をよろけながら後ろ向きに進む痩せっぽちの高橋は、それ自体が悪い夢のようだ。深夜の闇に時折消えるその表情は権力への憎しみで歪んでいた。

「神がいるとしたら大馬鹿者です! 祟りだ呪いだとあるはずがない! その」

 高橋がふらふらと交差点に差し掛かった。その体が一瞬にして消えたように見えた。

 ドガシャ! という音が信じられないほどの大きさで響き渡った。

 黒い乗用車が闇の中で高橋を吹き飛ばしたのだと認識するのに数秒かかった。

 ブレーキを踏んでいなかったのか、衝突の衝撃で進路を逸れた車は公園の低い柵に衝突し、横転して止まった。

 事態を認識した俺の心臓がきゅっと締まった。

「お、おい!」

 息を吐きだし、小走りで遠くに跳ね飛ばされて横たわっている高橋のもとに駆け寄る。

 彼はぴくりとも動いていなかった。

 権力への憎しみも霧散したかのように表情から消えていた。驚愕したように目と口を大きく開いていた。

 スマホを取り出し、警察を呼ぶ。

 意外に冷静に必要事項を告げることができたが、思考力は俺に残っていなかった。体から力が抜ける。電話をしながら高橋の体の横にしゃがみ込むと、割れた頭部から流れた血が路上に広がっていたのが見えた。

 周囲の闇が深い。

 俺は嫌なぬめりに輝く黒い水の真ん中にへたりこんでいた。

 横転した黒い車から這い出してきた若い男は、自分がしたことを信じられず呆然と立ち尽くしていた。轟音に気づいた周囲の住人であろう老人が下着に短パンだけの姿で出てきて、轢いた男の体を気遣っていた。

 警察と救急車は呼んだと俺は声をあげた。

 こちらに歩いてきた老人を血が流れていると制して立ち上がり、そちらに向かったが、俺の足はふらついた。老人に手を貸され、まだ冷静さには程遠いことがわかった。

「無灯火で、結構なスピードで突っ込んできた」

 老人に言った。

 しばらくしてやってきた警察に事情を聞かれたが、そのように繰り返すしかなかった。警官はそんな異常な走行をするかと訝しがったが、現場を見て俺の言葉が正しいとすぐに理解した。車は横転してすっ飛んでいる。ブレーキ跡もない。専門家でなくとも理解できる。

 俺は運転していた若い男とともに所轄の警察署に運ばれた。若い男は「自分がどう走ったか覚えていない」と証言していたので、早々に俺の疑いは晴れた。今夜の宿が無かったのと身元確認などが明日になるということで署に泊めてもらうことにした。

 留置所に寝転がると疲れから眠気は来たが、心の奥から湧き上がってくる不安が消せなかった。これを呪い、あるいは神からの妨害と考えている自分がいる。確信してさえいると言っていいだろう。

 だが、そうなると、なぜ俺じゃない?

 雪村と高橋。俺に協力してくれてはいたが、中心人物は俺と伊月だ。

 そして、止めるなら、呪うなら、目立っている俺のはずだ。

 巨人。霊。呪い。俺の頭上を通り過ぎていく。

 俺を苦しめるためにしているとも思えない。だが、これ以上、先に進むと俺の周囲にさらになにか起こる気がしてくる。

 S村。そして、M、おそらくはムカイと読むのであろう夢海……。手がかりはあるが、進む勇気が持てなかった。

 ここにきて俺は帰京する決心をしていた。

 気が小さいことだと我ながら思うが、逆襲のための材料が欲しい。生かされているということは、利用されているということなのかもしれなかった。

 結局、体の周囲からぬるくて黒い空気は消えぬまま眠りについた。

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