第7話 進展

 伊月の紹介でメールをやり取りし、すぐに面会の手はずと相成ったのは某私立大学の准教授で、水野理沙という名だった。大学時代の伊月の先輩なのだそうだ。

 こちらから研究室に訪ねていく。大学の受付で許可証をもらい、提示された部屋に向かう。宗教学のプレートを見つけノックして部屋へ入ると、文系の研究室ということもあり、圧迫感のあるほどに狭かった。白い事務用の長机がふたつくっつけて中央にあるだけで、壁の一面が本棚。反対側にはユングの赤の書のコピーやら東大寺曼荼羅の縮小ポスターやらが貼られている。

「いらっしゃい。こんなだからお茶は出ないんだけど」

 こんな、の部分で両手を広げて見せて水野先生は言った。

「伊月から給湯室はないって聞いてました。それと必ず微糖にしろって指示が」

 俺は学内の自販機で買った缶コーヒーを長机にふたつ並べた。

「まだ覚えてたんだ」

 微糖の方を彼女はつまみ上げ、俺は甘いコーヒーの前に座った。

「送られてきた資料は見たけど、そっけないメールでさ。伊月クンに言っておいて。電話のひとつもよこすのが礼儀だって」

 愛想笑いを返しておく。

 水野先生は前髪を揃えたショートボブで、着ているのはグリーンのサマーニットとパンタロンというどちらかといえばふんわりした印象を与える趣味をしていたが、その顔立ちはひと目見てわかるほど知的で鋭利だった。そのギャップが不思議な魅力を彼女に与えていた。

「樋口宗太郎さんでしょ? 伊月クンがよく話してたわ」

 話し方もふんわりしている。

「悪い評判でしょうね。以前は無茶をしていました」

「そんなことないよ。昔はワルだったっていうやつ?」

 意地悪な笑みを見せ水野先生は俺の肩をつつくかのように指を動かす。

「いえ、伊月の制止を聞かずに、まったく無関係なふたつの宗教団体を対立させる噂を流しました。それからは呪い合戦になり、もちろん効果なんかないので、信者同士が決闘するという警察沙汰になりましたね」

「それをワルっていうんだよ」

 ケラケラと水野先生は笑ってくれた。

「伊月は俺にも水野さんのことを話してましたよ」

「え? なんて?」

 彼女は興味深そうに身を乗り出してくる。

「宗教がホスピスにいかに協力できるかなんてつまらない研究をやるより、もっと才能を活かせって」

「勝手なことを言うよねぇ……でも伊月クンらしいわ」

 大げさに落ち込む演技をしてから、水野先生はコーヒー缶を開けた。

「伊月の伝言を復唱しているだけなんで、悪く思わないでください」

「いいや、お主はワルで決まりじゃ」

 ひとしきり笑ってから俺は本題を切り出した。

「申し訳ないんですけど、俺自身もよくわかってないんですよ。今回の件でなにを疑問に思っているのか、きっちり質問できる自信がない」

「そうだろうねぇ。こりゃあたしも難題だと思うよ。でも、伊月クンは答えを持ってるはずなんだけどな」

「考え方がかなり違うから水野先生のお話を聞くべきだと言われました」

「うーん、なるほどねぇ。しょうがない。無料で講義しますか」

 水野先生は背伸びをしてから姿勢を正した。

「缶コーヒーがあります」

「それだけかい」

「いや、後で伊月からなにかありますよ」

「期待して待っていよう。さて、もらった資料はあたしから見ても疑問点はいろいろあるんだけど、とりあえず切り離しておかないといけない考えは、霊の正体とか霊を見る条件とか洗脳の方法とかなわけよ」

「それを切り離すという意味は?」

「霊の実在論とか論理哲学もからんでくる精神についての考え方とか、そっちの方は伊月クンの領分だってだけね。伊月クンがあたしから聞きたいのは、あたしが持っている文献情報だけなんじゃろうよ。ショックですなぁ」

 水野先生はおどける。

「いえ先生の見解は重要です」

「ワルから少しだけワルに昇格させてやろうぞ。そこであたしができることは、このスピリチュアル団体の公開されている教義から秘匿されている真の教義を推測することじゃ」

「そんなことができるんですか?」

「それが伊月クンには無理な分野ってわけよ。彼は本質にこだわりすぎて、宗教おのおのの違いにはあんまり興味がないからね。結論から言えば、これはグノーシス主義の末裔って推測できるの」

「グノーシス」

「古代ギリシャ語で“認識”って意味ね。ユダヤ教、キリスト教と古代ギリシャ哲学の融合の結果生み出されたんだけど、その特色は魂と身体の二元論にあるの」

「確かに魂を別個のものとしてますね」

「グノーシス主義は聖書解釈のひとつではあるんだけど、キリスト教では異端とされた。これはギリシャ哲学を掘り返したのが中東だからって考えられているの。ペルシアにギリシャ文明が入り込んだ……ヘレニズムってやつね。そこから逆に地中海に戻ってきた。詳細はわかっていないんだけど、ナグ・ハマディ写本の発見で西暦四百年前後にはエジプトのキリスト教修道士共同体にグノーシスが伝わっていたことがわかっている。これには正統のキリスト教会からは偽典とか外典とされる文書が含まれていて、当時のグノーシスの姿がわかるんだけど、ここで大事なのはそこじゃないの」

 やや難しくなってきたが、後で単語を調べればわかるだろう。俺はうなずいて先を促す。

「大事なのはペルシアからエジプトまで交流があったということね。そして四百年よりも前の二百年代にマーニー教があったことがより大きな注目ポイント」

「マニ教ですね」

「そう。一般にはマニ教と呼ばれている。マーニーは教祖の名前で、より本場の発音に近いというだけなんだけどね。このマーニーはメソポタミアはバビロニア生まれ、エルカサイ教団というユダヤ・キリスト教系の団体が支配していた村で少年期を過ごしたことがわかっているの。その教えに反発し、マルキオン派、バルダイサン派というシリアのキリスト教分派の文献を読んで、これらの考えを取り入れることで、自分の宗教観に確信を持ったらしいわ。マルキオン、バルダイサンともグノーシスだったから、ここでグノーシスに染まったわけね。このマーニーは旅をして布教をするということにこだわりがあった。どうも労働と定住が嫌いだったみたい。マーニーは自ら経典を書き、それを手帳サイズに写本して信徒に持たせた。労働と定住が嫌いだったから、行商人中心の宗教だったのね。信徒は世界に旅をして布教を行い、マーニーもインドにまで布教の旅をしている。なんと存命中にササン朝ペルシアの皇帝に経典を捧げるまでになっているわ。それからしばらくしてゾロアスター教との対立で異端として処刑されるまでに、すでに最初の世界宗教としての基礎を獲得しているの」

「え? 世界規模の」

「うん。詳細は長くなるから省くけどね。ただマーニー教には世界宗教として存続するには大きな欠点を持っていたの。それは布教に熱心なあまり、現地の宗教を取り込みすぎたこと。そもそも最初の神話にもゾロアスターの神格の名を使っているわけよ。キリスト教グノーシスの影響ももちろんあるから、ゾロアスターの神がギリシャ語で階級化された下級の神を生み出し、キリスト教のアダムとイブがさらに生まれる、みたいなことになってしまっているのね」

「めちゃくちゃだ」

「布教が第一、経典が第二、というわけね。でも経典を読むまでの信者はそうは育たないから、現地の宗教的慣習はそのままにしておいたのね。本来は菜食主義なんだけど、厳しかったわけじゃないし、宗教独自の儀式も現在ではまったく残っていないの。マーニーの死後はマーニー個人への崇拝儀式が追加されたのだけれど、どれも断食とか安息日というだけね。現地の祭りとも融合している。だから各地で政治争いに負けてからは、現地宗教に吸収されて消えていった。それでも影響は各種残っていて、修道院はマーニー教布教者のための現地逗留施設を真似たものという説もあるし、イスラム教のアブラハムの宗教でありながら教祖を最後の預言者とするシステムもマーニー教をオリジナルとする説もあるわ」

「経典ではなにを大事にしていたんです?」

 儀式を通じて生き方を律することを捨てているのだから、政治的に強くあることは難しいだろう。共同体維持にも熱心でないなら、その大事だった経典とはなんなのか。

「経典はいろいろあるけど、大半はキリスト教系の外典そのままに近かったりするから、神話は中核部分を簡潔に語れるわ。しかも神格の固有名は他の宗教から拝借しているから、最終的にはマーニー教の神話は概念だけで語れることになるの。光の王国において時間神と生命の母が最初の人間を呼び出した。ところが闇の王国の攻撃により、この主神と光の要素は闇に捕らえられてしまう。そこで第二回の呼び出しを行い、生きる精神を作り出す。これがミスラとかミトラとか呼ばれる他所の神話の神。仏教では弥勒のことね。この生きる精神が最初の人間を救うの。でも光の要素は捕らわれたまま。そこで生きる精神はこの世界を作り出し、さらに第三の呼び出しを行い、この神格によって悪魔たちに射精をさせる」

「え?」

 最後の部分の飛躍に思わず聞き返してしまう。

「いやー、二度言わせるとかセクハラだなぁ。マーニー教は反出生主義の元祖みたいなもので、生殖行為を悪としているの。悪魔は誘惑されて射精すると捕らえた光の要素を吐き出してしまうわけ。善神が誘惑する側なのすごいでしょ? こうして吐き出された光の要素は大自然に進化したの。でも悪魔はもう光の要素を吐き出したくないってわけで、悪魔同士の性交で人間を生み出した。これが世界の有様ってわけ」

「その人間がアダムとイブ?」

「そう。そこは聖書なのね。でも人間の肉体は悪なわけ。知恵の実の部分は性交の暗喩だって解釈ね。それで現世の人間は光の王国を忘れてしまっている。だから預言者を現世に生まれさせた。それがセトとかノアとかアブラハム。さらにはイエス、そして最後の預言者がマーニーというわけ」

「それが最後なら人類の存亡がマーニーにかかっていたことになる」

「そういうこと。それが終末思想ってものに繋がるの。マーニー教はふたつの宗教的特色を後に残した。ひとつは終末思想。もうひとつはグノーシス出自の不完全な神。どちらもマーニー教の専売特許ではないけれど、拡散を加速した側面は確実にあるわね」

「なるほど……」

 俺は唸った。『神塔の会』の神話とずいぶん似通っている。

「グノーシス主義者は聖書を読み込む中で、この世界を悪と分析したのね。必然として神が不完全であるのが原因ってこと。プラトンが神を例示してデミウルゴスと呼んだのをグノーシスでは引用している。これは職人って程度の意味ね。造物主を気安く呼んでいる感じになるわ。この世界を不完全なものとしたのは神の傲慢なの。固有名ではヤルダバオート。語源不明とされているけど、おそらくはシリア語の語呂合わせね」

「ヤルダバオート」

「これは『神塔の会』でいう塔に捕らわれた神ね。グノーシスでは原語が不明な神がもうひとつ。それはバルベーロー。こちらは最初の光で、栄光の完全なる時空にして命の母。『神塔の会』では螺旋状に八方に飛び散る光の露とかいってるわね。これが後で重要になってくるわ」

「バルベーロー、ですか」

「そう。ナグ・ハマディ写本にあるこのグノーシス文書をマーニー教が保存していた可能性はあるわ。まったく証拠はないから推測でしかないのだけれどね。グノーシスは異端として大規模に弾圧、焚書されたことで、隠された写本の発見まではその記録も正統教会からの反駁本でしか知り得なかった。でも書物を保管することを伝道師の逗留施設の存在意義にしていたマーニー教なら、それを東方に伝えられた可能性はある」

「マーニー教は東方にも伝わったんですか?」

「最後まで生き残ったのは東方でなの。中国では則天武后がこれを保護して摩尼教となっている。明朝を築いた白蓮教に流れは引き継がれたとされているんだけど、これは様々な要素が混ざりすぎて別物になっているわね。それでも白蓮教に一部弥勒信仰が残ったことはわかっている。終末論とそれからの救済論。下生信仰というんだけれど、弥勒の到来が最後の審判で、それが目前に迫っているから世界を変革しようという考えね。白蓮教は地下組織化して衰えていくんだけれど、これは日本にも伝わっているの。白蓮教としてでなく、弥勒信仰としてね」

「それじゃあ、今回の件は……」

「おっと、まだ早いわ。『神塔の会』の神話はグノーシスでしょう? だけど、弥勒信仰が伝わったのは、主に日本でも南方なのね。日明貿易までは大陸との交易は九州中心だもの。東北方面じゃあない。ポイントはマーニー教がウイグルで九世紀前後に国教化していることね。国は回鶻。その期間は唯一のマーニー国家だったんだけど、民族の入れ替わりが激しい地域だから異民族に侵略されることになり、回鶻を支えていた民族も散り散りになる。モンゴル帝国もその後広範囲を支配するしね。ただ天山ウイグル王国としてマーニー教の経典を保護は存続した。現在でも周辺の様々な言語の経典が今の新疆ウイグル自治区から見つかっている」

 水野先生は用意していた古い本を持ち出してきた。いわゆる古文書ではなく、昭和初期に出版されていたであろう古書だ。『転神武術秘伝』とある。

「胡乱なタイトルの本ですね」

 今回の話と関係があるとは考えにくい本だ。

「宗教調べているとそういうのもとりあえずは目を通す必要があるわけよ。これは武術家が宗教をどうやって術に活かしていたかっていう普通に読んでもわかんない本なんだけど、ここに摩尼教を活かしたとされている人物がいるわけ」

 ページを開く。田連貫一という武術家の紹介だ。

「この田連貫一、大正末期に満州に渡って馬賊になっているの。馬賊といっても張作霖のスパイね」

「そんな無茶苦茶なことがあったんですね」

「当時は普通だったみたいね。合気道開祖の植芝盛平と同じ経歴だけど、数年だけ時期が違うから一緒に行動していたかどうかはわからないんだけど。ただ、植芝盛平はもう大本教の信者だったから、仏教の一種だと信じていたらしい田連とは気が合わなかったはずね。まぁ、そっちは本題じゃないわ。ともかく、田連は、ここで摩尼教の漢文経典を手に入れたと自称している。その経典については詳しく書かれていないんだけど、ほら、“全土に広がる法螺貝の響きこそ甘露なり。清浄、光明、大力、智慧。これぞ八露唄螺”と書いてある」

「あっ……」

 にわかには信じがたかったが、『神塔の会』の用語と重なる。

「マーニー教は自身の経典で神格の名は布教先の他宗教の名を借りたから、概念として多言語に訳せる呼び名を選んだ。光とか、第何番目の支配者とか。だけど、後年になっても翻訳者が由来のわからなかった神格名については、そのまま書いてしまったと推測できるの。漢語だと発音をそのまま漢字に当てるしかない。八露唄螺は、発音すればバルベーロー、と読める」

「そんなことが……」

 バルベーローは先程聞いた出典不明の光の神の名だ。栄光の完全なる時空……。

 俺はひどく間抜けな顔をしていたのだろう。

「そんなに驚いてくれて嬉しいわぁ。おそらく純化された西方グノーシスの未発見文献の漢語訳が日本に持ち込まれた。それを元に宗教が国内で立ち上げられたとすればどうかしら?」

 有り難い。田連貫一などまるで聞いたことがなかったが、調査可能な手がかりには違いない。

「本当にありがとうございます」

 俺は頭を下げた。

「いえいえ。でも伊月クンはある程度までわかっていたと思うなぁ。最後の確認だけをあたしに依頼した感じだと思うの。『転神武術秘伝』だけうろ覚えだったんじゃないかしら」

「それでも俺にはグノーシスの解説は役に立ちましたよ。伊月から聞くより何倍もいい。あいつはこっちが基礎知識を持っていると思って大半をすっとばすから」

「そういうとこあるよねー。さて、あたしが持っている情報はここまで。唯一仏教化もキリスト教化もされずに日本に入り込んだグノーシスは知る限りこれだけ。それじゃコピーしてあげるからコピー室へ行きましょう」

 水野先生は自ら本を取り上げて先に立ってあるき出した。

「伊月クンにも来るように言ってよね」

「もちろんそうしますが、来るかどうか」

「うん。わかってるんだけどね。大学でも彼と話してたのあたしぐらいだったからさぁ」

 そりゃあそうだろう。彼が気さくな性格だったとしても、話についていける者は少数だろう。

「大学唯一の友人が美人だったなら、俺からすればそれだけで最高の大学生活ですがね」

「お上手ぅ。彼の恋人はまだ亡くなられた妹さんなの?」

 水野先生は伊月の事情を知っているらしい。

「ああ、ご存知なんですね。それだけで伊月は貴方のことを親友だと思ってますよ」

 俺は言った。これは本心からそう思う。

「あたしは奇跡を信じないけど、彼が内心で決着がつけられるといいね。あたしはそれを待ってるから」

 そう思ってくれている人がいる伊月は幸福だろう。だがあのことを気にせずに生きるには、真理とか世界とかってやつは残酷すぎるのだ。

「今回の情報のお礼はすぐに届けますよ。そこにメッセージカードでも入れさせるよう努力します」

 俺はコピーの束を受け取って言った。

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