第5話 神秘

 気温は除々に上がっていき、気の早いセミも鳴きはじめる頃になった。春物のジャケットすら鬱陶しくなって、何事もなくとも不快感が増す。まして状況が妙な方向に転がっているというのに、俺にできることは事務作業のみというのが苛立ちを感じさせた。

 雪村は霊体験を完遂するのだと意気込み、霊の接近を目の当たりにしても決意は揺らがないようだった。元々がニートのひきこもりとあっては自分の命にあまり価値を感じていないらしい。怪談が自分を救ってくれたので、怪談に命を捨てるとも言っていた。

「いざとなったら印章買うだけだしな」

 俺は言ったが、雪村は怒り出した。

「買いませんよ! 逆に樋口さんだったら買うんですか?」

「買わねぇ」

 自分でも驚くぐらい自然に口から答えが出てきた。これまでの人生経験により、神だか運命だかってものには瞬間的に逆らうような体に仕上がっているのだ。

「そうでしょう。自分で体験しなきゃ気が済まんのです!」

 俺とは理由が違うが、トータルで言えば同感には違いなかった。

「後悔しないようにするべきだな」

「そうですよ! だから印章を勝手に買うのもやめてくださいよ! こっちは毎日きっちり記録つけてるんですから」

 確かに彼は毎日、夜毎に接近してくる三角帽子との距離を目測しては自身で語った映像ファイルを俺に送ってきていた。それによれば一ヶ月くらいで接触することになるだろうとのことだ。

 とはいえ時間はなく、目前にはやるべきことが積み上がっていた。藤原女史がくれたリストはかなりの手間を軽減させてくれたが、このリストにあがった相手にネット通話かメールで取材をし、体験をデータ化していく作業は難航した。かなり前に体験した者もそれなりにいたし、そもそもこういった体験は詳細を覚えていない者も多い。

 その過程で高位の信者であろう人物をリストアップし、これを伊月に流していく作業も並行して行っておいた。伊月は伊月で彼らの語る教義体系を読み込み、高位の信者に接触するための偽の身分を再生する作業に従事していた。

 偽の身分とはオカルト本を多数出版していることで有名な会社の編集者だ。以前より社長を抱き込んでおり、外部委託の契約社員という裏の顔を長年保持していた。それでも社内から疑われぬよう俺が紹介した怪談師の本を出版する作業をここ数週間で詰めている。久々にこの会社と仕事をしたフリー編集者という見た目になる。ここまでくると副業みたいなものだ。

 結局、雪村の答えが出る猶予である一ヶ月のうち一週間を準備作業に使ってしまっていた。焦る気持ちはあるが、実際、これ以上俺はなにをすればいいのか見当もつかないので、作業に目処が付き次第、伊月と打ち合わせることにした。

 食事を兼ねた作戦会議が開けたのは久々だった。長々と居座れる小さな焼肉屋で適当につまむものを頼みながら、小型のガスコンロを挟んで意気上がらぬ顔を突き合わせている。いや主にしょぼくれているのは俺の方だ。。

「まさか時間制限がつくとは思わなかった」

 雪村のことを話すと、予想通りの答えが返ってきた。

「彼の意志なら止めようがないよね。それに実証されるより確かなことなんてない」

 俺とてそう理解はしているが、雪村が死ぬかそれに類する結果になってしまうのはそれはそれで敗北だ。

「だが向こうの好きにさせてやる道理はないぜ」

「僕だってそう思ってるさ。君ほど直情的じゃないし、子供みたいな正義感の持ち主でもないがね。それは僕の残念なところだよ」

 伊月の言葉通り、俺は少し熱くなりすぎているようだった。

 肉をコンロの金属板に並べて焼く。

 伊月はいつも少量しか食べないが、焼き肉では内臓系を好んでいた。普通は噛み切れないのでいつまでもモゴモゴさせてしまうシロコロなどを上品に数口で食べるという特技の持ち主だ。いつもどうやっているのか感心させられる。

「しかし、俺にできることがないってのも落ち着かなくてな」

「僕だって雪村さんの結果が見たいわけじゃないよ。ちゃんと急いでいる。偽の宗教本の出版を持ちかけて、顔合わせまでもうすぐだよ」

 伊月の表情と声は淡々としている。だが内に熱意が秘められているのを嫌というほど感じられた。獲物を仕留める作業に入り冷静さを保とうとしているのだ。宗教団体が生き物で内蔵があるとしたら、やはり上品に食らい付くしてしまうのだろう。

「教祖をぶん殴って脅せば終わりって行けば楽なんだけどな」

「殴って従わせられる教祖に価値はないね。君が苛立っているのはわかるよ。ゴールが見えないからね。だけどそういうときは原因を考えればいい。この場合はなにを追うべきかがわかっていないのさ。この場合、呪いに着目すべきじゃないか?」

 俺のことを完全に理解しているかのように伊月は言った。そしてそれは間違いではなかった。内心を言い当てられて、改めてそこを不安に感じていたのかと気づいた。

「ああ、呪いか。そうだ、そうだな。雪村がアレを見たことに明確な理由はない。あれを呪いだって考えるのか。そうすれば追うべきものが見えてくるかもな」

「うん。まずは一連のことをいわゆる呪いだと考えよう。そうしてから改めて呪いとはなにかについて考えていく。呪いってことについて今更科学的に説明する必要はあるまい。今考えなければならないのは、本当に超常的な呪いのことだよ」

「超常的な呪いだって?」

 俺は繰り返した。

 科学的に説明のつく“呪い”は、オカルト分野では初歩だ。どの文化にも、そして現代にも呪いは実在し、それは科学的にも証明されている。あるコミュニティ内で呪いが信じられている場合、呪われている対象が“自分が呪われた”と知ったとき、対象が体調を崩すなど実際に効果が発動するのだ。これはいわゆる思い込みの力である。有名な実験に、敵シャーマンに呪われたと主張する対象に密かに尿を染色する効果のある薬を与え、偽りの呪術を行った後に「見たこともないような青い尿が出たら呪いは解ける」と伝えた、なるものがある。その結果、尿が科学的に染色されることに無知だった対象は、自らの鮮やかな青い尿を見てあっという間に回復したのだ。つまり、深く思い込むことが自身の肉体に影響を与え、呪いを実際のものとしていたということになる。

 これに対し超常的な呪いとは、もちろん“本当の”呪いのことだ。

「呪術が実在すると仮定したなら、それは実際に行われたことがあり、体系化もされていると考えるのが当然なんだ。そしてこれまで各宗教で公開されている呪いの方法を見ると、いくつか条件があることがわかる」

 伊月は自らの前髪を人差し指でくるくるとやった。

「髪の毛をわら人形に入れるのが有名だけど、相手の肉体の一部や名前を記した紙を傷つけることにより呪いを実施するもの。これには呪われている対象が呪われたことを知っている必要がない」

「怪談でも後になって知るタイプの話が多いな」

「もうひとつは厄介なんだ。呪う人が意思を向けた人」

「ああ、そういうくくりにするんだな。視線だけで影響を与えるとか、強く思うだけで呪うことができるとか」

「うん。広すぎるように思うけれど、僕はこれに可能性を見出している。それは以前にも説明した意識の神秘の問題なんだ」

「ああ、あの世界を見ている窓はひとつしかないのに、世界を確固たる共通したものと認識できるのはなぜか? って話だな」

 伊月の言語世界が展開されていく。追加の肉と飲み物を頼んで長話に備えた。伊月も俺も酒はやらない。

「確固たる共通したものが世界なら、そこに呪いがあるとしてもおかしくない。相手にも意識があると認識するのは言葉が中心だけれど、それが物理的なものでも呪いと呼ぶことはできる。例えば、ウイルスを操れれば、それを知らない人にとっては呪いでしかない」

「ビデオを見て感染する呪いって映画もあったし、類似の怪談も沢山ある。だが、この分類では科学的に解明できた呪いの方になるんじゃないか? ウイルスの例などは、ぶん殴るのも呪いだって言っているみたいだ」

「確かに、コミュニケーション全般について言っているだけにも見える。ただ誰かが見ている存在が本当にあるのだとしてみよう。それが霊でもいい。その霊が触れたらなにかが起こる」

 俺は内蔵の焼ける白い煙に箸の先を通してくるくると回した。

「この煙みたいに見えたり見えなかったりしていても吸い込んだら咳き込むって?」

「それに近いね。粒子として物理的に存在しているってことじゃないけれど、人間が他人に意識の存在を認めることができ、世界の絶対性を知っているなら、ワンネスじゃないけれど、なにか共通のものがないといけない気がしないかい?」

 伊月がまたも内蔵をつまむ。

「心霊主義というか、霊界の肯定ってことに聞こえる」

 俺はまだ心霊現象を全肯定する気にはなれない。

「そうだということは否定しないよ。ただ共通のなにかが存在することへの確信が宗教を支えている」

 確かに宗教の中核にあるのはそういうことだろう。

「呪いも信仰と似たようなものってことか」

 俺はうなずいた。

「そうだね。そこで今回のケースについて考えよう。狙った者に印をつけて、そこに霊が向かっていく。そんなイメージがあるとしたらどうだろう?」

 いつも真顔でいる男だが、今はさらに真面目な表情をしている。だが彼にしてはやや飛躍したことを言っているような気がする。

「それは唐突すぎるよ」

「意地悪が過ぎたかな。実のところ推測可能な材料は揃っているんだ」

 伊月がタブレットを脇に置いたカバンから持ち出してきた。脂まみれのテーブルをおしぼりでざっと拭いてから俺に画面を見せる。

「君が作ってくれた信者の体験談データがあるだろう?」

 藤原女史と同様、映像みたいな霊を見てから『神塔の会』信仰に傾いた人々の体験談はデータにしてまとめていた。体験者の年齢、職業に共通点があるわけでもない。似通っているのは霊の特徴だけだ。体験者が東日本にいる者がほとんどなのは異常といえば異常だったが、東京に在住の者がかなりの率を占めている。単に情報提供者の偏りだろう。関西にだってわずかに体験者がいないことはない。

「データのどこを見るって言うんだ? 体験内容以外に共通点がない」

 そうなるとなにも考えようもない。俺はそう思っていた。

「ところが超常的な呪いを想定すると違ってくる。ここ一年以内と判明している体験者に絞って、それと体験場所を重ねて表示してみる」

 伊月はタブレットに指を這わせた。用意していたのか日本地図に体験者の住所が赤い点で示されている。

「さらに体験したのが河本さんの件より後だと判明しているものに絞り込む」

「え?」

 俺は結果を見て声を上げた。

 河本が住んでいたS県K市から東北方向に向けて一直線のラインが出現したのだ。

 そもそもサンプルが少ないこともあるが、以前に体験をして信者になった者のデータに惑わされた。そもそも河本の件がきっかけなのだから、それに限定すべきだったのだ。

「巨人が近づいてきた……」

 俺は瞬間的に脳内に浮かんできたイメージを口にした。河本が見たものは遥か遠くに立つ巨人だという。その姉が見たものはおそらくは近くにいる巨人だ。その巨人が東北から一直線に河本の居場所を目指した。そんな威圧感のある不気味なイメージだ。

 魔術的な思考だ。直感的な印象に従った連想とも言う。

 伊月が口の端だけで微笑む。

「魔術的な思考で真実に近づくこともある」

 俺も心霊現象を信じなければいけないときがきているのだろうか。

「巨人が霊を出現させているなら、巨人をコントロールできれば誰かをターゲットにして霊を向かわせることも……」

 思いついたことを口にしてみる。

 霊を信じるなら、それも直感的に思いつく。

 当然だが伊月はさらに先を行っていた。

「そうなると巨人が大きな霊なのか、神なのかが問題になってくるんだ」

 再び難解な話になってきた。

「それはどういうことだ?」

「まだまとまっていないけれど、神の見分け方について考えなければいけない。僕らが追っているのは宗教団体とそれが起こす厄介事だけじゃない。真理だよ。真理を追いかけているんだ。もし巨人が本当になにかを引き起こしているとしても、それが単なる霊現象であれば、ありがちなことに過ぎない」

「ありがちとは思わないが、言わんとしていることはわかる。俺だって神がいるなら、見たい」

 つまり、伊月はこれが真正の呪いで、巨人が神であって欲しいのだ。

 しかし、神とはなにか?

「だけど、もし見たとして、それが神だとどうしてわかるんだろうか?」

 伊月は真剣に悩んでいた。

「禅宗みたいだな。神に遭ったなら斬らないといけない」

 俺は苦笑いをした。

 思いがけず、伊月が「そうか」というように目を見開いた。

「確かにそうだね。僕らが潰せるような組織が真理を掴んでいるはずがない」

「単純な助言でお役に立てて嬉しい限りだ」

「その勢いで最後まで行きたいものだよ。僕も信者に接触してこのことについて探りを入れてみよう。さて、巨人がやってきた先になにがあるのかわかるといいんだが」

 伊月は箸をおいてウーロン茶を飲み干した。

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