第3話 失踪
怪談会から数日が過ぎた。『神塔の会』の動画チャンネルを見て過ごしているうち、雪村から待望の連絡が入った。もちろん河本信彦との面会である。
撮影の了解も得ていたので、レンタルの会議スペースを予約して雪村とともに河本の登場を待った。撮影機材は手のひらサイズの小型三脚にセットした薄型のデジタルカメラだ。これなら相手に威圧感を与えずに済む。
「知り合ったのは怪談バーでだったっけ?」
事前情報の確認を雪村にしておく。
「そうですね。河本さんの知り合いの女の子が、彼から話を聞いてウチのバーに。霊能者を紹介できないかってその子が相談してきたんですよ。で、霊能者よりは新興宗教の専門家の方がいいケースだろうって樋口さんに」
雪村がざっと経緯を説明する。伊月の正体を雪村は知らないが、俺が宗教団体に興味を持ち、なんならそれ関連のトラブルに首を突っ込んでいることはバレている。怪談コミュニテイから宗教関係者の情報を得ていることは周知だ。
「なら宗教トラブルの専門家として振る舞うかね」
そうこう言っているうち、河本が会議スペースにやってきた。
部屋自体はそう大きくないとはいえ、それでもドールハウスに人間が入ってきたかのように感じられた。怪奇体験を語る者が大男であるはずがない、そんな思い込みがあったことに気付かされた。
百九十は越えているサイズで肉付きもよく、縦になった軽スポーツカーみたいだった。胸に四角くトロピカルな風景を切り取った柄のTシャツを着、ピンク色のシャツを羽織っていた。下は灰色のストレッチパンツにスポーツサンダル。相当にセンスのない格好だが、キングサイズしか着られない男のカジュアルにファッショナブルさを求めるのは酷だった。過去に荒れたこともあったと話にあったが、これに暴れられたらたまったものではないだろう。
体に比して顔が小さい。いわゆる等身でいえば十くらいありそうだ。現在では更生したのか、顔立ちはどこからみても好青年で、芯から気のいいやつという印象がある。善人の仮面の裏では人を操る悪いやつだったという典型例を想像したくなるが、これは単なるやっかみだった。
「雪村さんと樋口さんですね。本日はよろしくお願いします」
河本は高給取りの肉体労働者に特有の礼儀正しさで頭を下げた。俺たちも立ち上がって挨拶を返し、名刺を渡す。
「奇妙な体験談ももちろん気になっていますが、こちらとしてはお姉さんの行方についてご協力できればと思っています」
「それは是非にもお願いしたいです」
河本の笑顔に少し曇りが見えて、また消えた。親族が行方不明になった者の顔とは少し違っていた。自分のいちばん大切なものを奪われた男の顔だった。
「警察には相談していますよね? こちらでは別の路線から探ることが可能です。宗教団体についても調べようかと思っていますので、なにか情報があれば」
俺の言葉に雪村が付け加え、カメラを回しはじめた。
「その後、なにか異常なことが起こっていればそれもお願いします。あ、カメラ回しますんで、座っていただければ。いや、申し訳ないけど、体、大きいですねぇ。雪村、あなたのような筋肉が欲しかった……っと、カメラちょっと離しますね。顔は写さないです。公開する場合はその映像を事前にお見せしますし、そこで公開しないって言ってもらっても構いませんので……」
□ □ □ □ □
全体としては、ほぼ雪村さんに話した通りで間違いないです。ただ怪談ではうまくごまかしてくれていた部分ではあるのでしょうが、自分は今でもあの宗教の関与を疑っています。姉さんをさらったと思っています。
子供のときに連れて行かれた場所は残念ながら覚えていません。子供のときはよくあることだと思いますが、高速道路の名前とか興味なかったうえ、北も南もわからないですから。とにかく走ったら田舎についたということしか。海辺ではないだろう、くらいしか確かなことはいえません。でも、あのお婆さんを覚えています。
「この子らは神の子だ。姉には光の要素が強い。いずれ神のうちにあることになる。弟も大切にするといい。こちらの子は、姉の次になるだろう」
まだ記憶している。嫌な言葉です。その頃には姉さんをさらうことを決めていたような気がします。多分、教団では偉い人だったと思います。漫画に出てくる老人みたいに小さくて腰を丸めていたけど、豪華な着物を着ていました。派手な色のちゃんちゃんこを羽織って。
団体名ですか? 『神塔の会』というのは僕も後になって見つけたんです。家を手伝ってくれたおばさんを中心に、色々な人が出入りしたんですが、その人達を後になって動画サイトで見かけたということです。
動画、見ていますよね? はい。信者はあんな感じです。典型的な新興宗教の感じというか。でも、徹底しているところがあって、とにかく僕たちには丁寧な……へりくだっているというんですかね、そういう態度だったんです。小学生とかならいいですけど、中学くらいになるとそういうの、かえってバカにされたように感じるじゃないですか。逆に人間扱いされていないっていうか、本当にこちらの感情を大事にされていないっていうか。
とにかくおばさんをはじめ、信者の人たちの内面はまったくわかりませんでした。どこから僕らの家にきてどこに帰っていくのかさえ知りません。ロボット的な? いや、そういう感じならむしろ良かったんですが、感情のない人間が感情のあるフリをしているという印象が本当に嫌だったですね。
「信彦様、背がお伸びになってきて、わたしも嬉しいです。光の要素をたくさんお取り込みになって」
などと心底から嬉しそうにしていたのなんて寒気がします。そんなおばさんに次第に慣れていった自分にも怖さがありました。寝る前にあいつらに心を許しちゃいけないって誓うのが日課でした。甘えちゃいけないんですが、やっぱり生活では頼ることも多かったですからね。
荒れていた時代? 恥ずかしいんですが、そんな生活でまともな友達できないですからね。学校の手続きとか、親が行方不明扱いだったのかな? 両親の話になるたび気まずい感じになって。家に友人を遊びにこさせるとかなかったですから。僕も自宅に帰りたくないとなると、虐待されてた友達とか、夜遊び好きな連中しか一緒にいないわけです。先生への言葉遣いとか生意気になって、体も大きくなったので喧嘩して。家にいるよりは楽しかったですよ。
姉さんはすごかったと思います。僕みたいにはならなかった。働いて自活するって目標はずっと考えていたみたいです。それで僕も遊んでいてもどうにもならないなって。高校で就職のための勉強や工業の自主練習をすると時間が潰せたのもありがたかったです。
今になってみると、いや、今でも不思議なことがあります。僕がいうとすごくバカみたいだし不自然だと思うんですが、うまく行き過ぎたんです。僕の就職もいいところに自然に入れたし、転職も同様でした。姉さんもそうだったんです。この境遇で水商売方面に流れずに済んだわけですからね。
逃げたつもりだったけど、それも向こうの計画通りだったんじゃないか。
そう疑ってるんです。いつかさらうために自由にさせていたんじゃないかって。なにも根拠はないし、理屈もあわないんですけど、そう感じるんです。監視されているように感じたことは移り住んでから一回もないですし、僕の生活に不自由はなにもない。
それがむしろ不自然なんです。僕の生活なんてうまく回るわけがない。でも、うまくいっている。姉さんがいないのに……。
向こうから監視や接触もなかったです。姉さんがいなくなってからはこちらも団体を疑って、警察にもそう届けてあります。でもこちらから団体に押しかけていくのは危険な気がして。警察が動いてくれたらいいんですが、どうしていいかわからず、人づてでみなさんまで話が届いたという感じです。
姉さんがいなくなったのは、今年の春です。まだそこまで経っていませんよ。このままだとやっぱり団体に直接行くしかないとは思ってます。精神的にはけっこうギリギリですね。でも、いなくなる前に姉さんが窓から見たものがあまりに不思議で、そのせいで踏み込めないんですよ。
そうです。姉さんと僕では見たものが違っていた。
姉さんはなにかとても大きなものを見るように、こう少し上を向いて目を見開いて。
僕は遠くのものを見るように、少し首を前に出して。
でも、見えたものは同じだった気がします。黒から緑色がかったような……いや、色はよくわからないな。でも確実に表面が蠢いているような。
霊? いや、幽霊見たことないですけど、そういうサイズの巨人の幽霊ってないでしょう。もちろん怪獣みたいな生物感もないかなぁ。人工物でもないかな。アドバルーンの表面に巨大な虫がびっしりついていたらそう見えるかも。いや、うまくいえてないですが。
それが姉さんの場合は近くて、僕に遠かった。そういう確信みたいなものはあります。どういうわけかそう感じるんです。二階の窓からだけで、外に出たら見えない。そこは姉さんも僕も同じだったみたいです。
うーん、そうですね。いうなれば“呪い”は感じます。感じます、じゃなくて考えます、かな。呪われたんじゃないか。あの教団にそういうことができるんじゃないか。それは非現実的でもそう思っています。そういう呪いってあるんですか?
□ □ □ □ □
そんな呪いは聞いたことがないと伝えて、俺たちはひとまず語りに一区切りつけた。それからもカメラを回し続け、ざっくばらんに質問をしていったが、重要なことはほぼ冒頭部分で聞き終えていた。逆にこちらが自分たちになにができるか伝える番だった。
警察にパイプがあること、オカルトサイト『MOST』として大っぴらに宗教団体が取材できること、河本の存在を秘密にしておくこと、だが様々な情報をわかり次第そちらに流すことなどを伝えた。河本は時がくるまで団体と交渉で表に出ないことを約束してくれた。
「いやぁ、嘘を吐いている感じはまったくしませんでしたねぇ」
連絡先を交換しあって分かれてからの帰途、雪村が感心したように言った。
「後からなにか妄想を付け足している感じはしなかったな」
怪奇体験をする者は、自分の願望や妄想から記憶を改変してしまうことがある。だが河本は感想と体験を今は切り分けられていた。呪いだと思いつつも、わけのわからないものを見たままに伝えようとしていた。
「ただ宗教団体の取材となると尻窄みになっちゃうんですよねぇ。こんな呪いがありましたが、彼らはやっていないといっています……みたいに終わるような気がしますよ」
雪村が怪談の展開を気にしてどうしたものかと首をひねった。
「それより言い方は悪いが、罠を張るみたいなのがいいんじゃないか。『神塔の会』の動画サイトにコメントしている信者のアカウントはわかっているわけだ。それを俺たちの怪談動画チャンネルの視聴者と照らし合わせ、被っている人がいたら、教団ならではの怪奇現象や奇跡について聞く」
俺のアイデアに雪村はなるほどとうなずいた。
「大体、教祖様の予言が当たりましたとか、開運グッズで宝くじが当たりましたとかでしょうが、やってみる価値はありますね」
この手の手間はかかるが空振りに終わることも多い作業に怪談師は慣れている。取材相手には真剣に霊を信じ込んでいる人も多いが、その中には言葉が通じないほどどうかしている人もいるのだ。
こちらでも同様の作業に入ることを約束し、俺は事務所に戻った。
いつものように伊月を呼び出していた。
そちらの調査にも進展があったらしい。彼が行っていたのはひたすら『神塔の会』の動画を見続け、分析するという作業だ。米粒を盆に広げて欠けたものをつまみ出すのにも似たうんざりするようなことだが、それをする執念が伊月には備わっていた。
「典型的なスピリチュアル系に見えて、裏に芯がありそうなんだよ。見たかい?」
相変わらず挨拶もなく伊月は切り出した。ネットに接続されたタブレットと教祖らしき者が出版している書籍を二冊、会議室に持ち込んでいた。
動画サイトを繰り返し見て、書籍も読んで分析しているとなれば疲労の色が見えてもおかしくはないのだが、元々青白い書生みたいな顔であるのではっきりとはわからなかった。それに加えて鬼気迫る空気はあれから絶えず伊月から発散されている。
「もちろん。教祖が姿を隠しているのが気になるよな」
タブレットでは教団の定例動画が流されている。画面にはカマキリみたいな三角顔をしたひょろりとした眼鏡男と、テーブルに置かれたノートパソコン。どこかの会議室で撮影されており、彼らの背後に「ワンネスを感じるには?」と雑に書かれたホワイトボードが立っていた。撮影しているカメラの背後に信者たちがいるのだろう。ひょろりとした眼鏡男が笑いを誘うようなことを言うと、素直に盛り上がる声が聞こえている。
独演会のようなものを開いているのが教団の中心人物である佐原健二。この手の幹部に特有の気弱なくせに調子に乗っている空気を常にまとわりつかせていた。学生時代クラスで人気者になったことなど微塵もないだろうに、信者を前にして「イエィイエィ!」などとやたらにおどける仕草が目立つ。それでいて自分たちの教団が世間一般よりも優れていると感じさせる話術だけは秀でていた。
「ね、簡単でしょ? 世間の人たちはこんな簡単なこともわからないんです!」
などと平然と口にしている。
大半はこの佐原が教団の思想を語っているのだが、重要なことや信者からの質問となると、ノートパソコンで音声のみ接続された中年女性の出番になるのだった。
おそらくはこちらが教祖だ。
有楽と名乗っていた。声のみの登場で、どこに住んでいるのか、何歳なのかも信者たちにさえ明かしていないようだった。教団と仮に呼んでいるが、『神塔の会』は宗教団体ではないため、この女性も宗教家とは主張していない。彼女が出している本の内容を解説するセミナーというのが教団の姿だ。
「ワンネスとわかりやすくいいましたけど、人間はこの世界がひとつなんだということを認識できなくなっているんですね。この世には魔術で封印された塔があり、そこに魂を遣わす王が捕らえられている。でもその王だけがこの世界なんです。それを知って、心を清らかにしないと、みぃんな別々の世界を見ていることになってしまう。ご相談のさくらさんも霊が見えたということだったけど、一緒にいた人たちは誰も霊を見ていなかった。これが別々の世界を見ているということなんですね」
さくらと名乗った信者が霊が見えて恐ろしいと相談した結果、神の力によって払われたという顛末について有楽は語っていた。単なる幻覚が見えたり見えなくなったりしているだけではないかとも思うが、映像から信者たちのざわめきが聞こえてくる。彼らは彼らなりに盛り上がっているというわけだ。俺にとっては何度も見た典型的なスピリチュアル団体なのだが。
もちろん伊月はこの団体を典型的なものとは考えていないようだった。
「うん。教祖が姿を現していないのも特徴だね。それとあまり表には出していないけれど終末論が強い。芯にあるのは弥勒信仰の変形みたいだね。これは終末論に結びつきやすいんだよ。果てしない時間の後に弥勒が衆生を救済するという思想だから、その時がすぐそばまできているとなるか、その時はずっと先だから自殺するのがよいと両極端に振れる」
獲物の習性を語る狩人の熱意で、俺の反応を見ずに解説をはじめた。
相手の教義について徹底的に調べ、高位の信者に接触、これに宗教的な質問をぶつけて論破していくのが伊月のやり方だ。単純に論破して嫌がらせをするわけじゃない。その宗教をより深く信じるために矛盾点が許せないという姿勢で論破していくのだ。
かつてカトリックを分裂させた神学論争や、イスラム神学を発端とするスコラ哲学、仏教における禅問答のようなものだ。実在とは人間の認識なのか物質の存在なのか? 善と悪とが同時に作られたとすれば善のみの世界を志向する意味とは? 世界の最初とはどのようなものだったか? そういうことまで考え抜いている新興宗教の教祖は少ない。自然、高位の信者も疑問を持つ。
伊月はそこを狙って論争を仕掛ける。それが教団を離れるきっかけになるわけではない。真面目な信者ほど伊月の仕掛けてくる形而上的な議論が好きなものなので、疑問点をあげて解答を与えていくと、伊月に教団の改革を願い出るようになるのである。
そうなってから伊月は正体を明かす。これで高位の信者が教団の改革のために教団の不正を暴く忠実なスパイとなる。そこまで進めば、多くの場合、教団を監視対象にするまでもない。大体は税金関係の不備か犯罪行為が明らかになる。それを警察に流してしまえば、通常の刑事事件による逮捕で教団は簡単に崩壊する。
「漠然とした言葉が多数使われているんだけれど、神話らしきものはあるんだ。魂を遣わす王という言葉が原初の神であり、光の神を示しているようだね。世界には闇の要素が強く、魂だけが汚されていないという思想だ。肉体に引っ張られて魂も汚れることが多いという理屈になる」
かくいう俺も伊月の語る宗教の本質論的なものを聞くのが好きだった。世界へ対して漠然と抱いている疑問のいくばくかが氷解するような気になる。それこそ宗教の持っている役割のひとつであろうから、伊月は基本的なことをしているだけなのかもしれない。
「スピリチュアルでは多い考え方だな。性的なことにやたらと反発する」
俺は言った。
「うん。そのあたりは一般的な団体と同じだ。だけど、個々人が別々の世界を見ているという考えは面白いよ。ギリシャ哲学では人間の認識を完全なものの影を見ているに過ぎないとした。この宇宙そのもの、つまり物質も影で、概念だけが真実を語ることができるとするわけだ。「愛」といったところで人間の実現するものは愛の一部に過ぎない、というわけだ」
「素朴な実感としては、意外にそちらの方が素直な世界の見方に見える」
「そうだね。世界が不完全に感じられる方が自然だよ。後に支配的になった神学も科学や哲学の発展には役立ったけれど、神を完全なものとした前提を崩すわけにいかなかったから、かなり原理主義的で直感には反しているといえる。万能の神は自身が持ち上げられない石を作り出すことができるか?」
「論理学の守備範囲だ」
「自己言及のパラドックスにすぎないけれど、長いこと人類を苦しめているね。よくこのパラドックスと混同されるゲーデルの不完全性定理だけど、ゲーデル自身が後に神の実在を証明するための証明式を書いているからね。狂ったのだって意見もあるし、論理表記を抜いて煎じ詰めれば、存在するものは存在するという意味で肯定的な性質しか持ち得ないので、肯定的な性質のうちに存在するという性質も含まれているから、すべてを肯定する神は存在しないことができない、というような論理になる。もちろんこれも神についての前提が多くの神学論争と同じなので、なにも語ったことにならない」
話が逸れていったが、この脱線もなにかのきっかけにはなることが多い。俺は先を話せと無言で促す。
「そもそも、この存在というやつも一段深く入ると議論が面白くなるんだよ。インドのヴェーダンタ学派で有名なのは、世界が幻のようなもので実在はしていないという立場だ。宇宙の中心となる全宇宙的な意志と、個人の意志は本来同一なものであり、大半の人が見ている世界は無知故の幻だというわけだ」
「なるほど。でも我々に共通の世界ってやつは存在しているぜ。なにより個人間で見えているものについては普通に話が通じるじゃないか」
俺はあえて反論にあたることを言ってみた。
「もちろんそうだよ。ただ、それはいわば前提なんだ。さっきの神は全能だってことも前提がそうなっているだけなんだよ。ごく簡単な思考実験だけど、世界五分前仮設ってものがあるだろう?」
それは俺も知っている。仮に「世界がそっくり五分前に現在の形で作られたと考えてみよう」というもので、もし過去の記憶や記録、歴史や成長の痕跡さえもがついさっきそっくり作り出されたのだとすれば、全員が過去を認識していることさえ世界が五分前に作られたことを否定する証拠にならないのではないか? とする懐疑的な思考実験だ。
「この世界五分前仮設、一見すると様々なことを思考するきっかけになっているけれど、これでもまだ深く掘り下げたとはいえないんだ。なぜなら、過去を認識しているのが誰かという問題があるからだ」
「そりゃあ、過去を認識しているのは、世界のみんなだ」
「うん。だから、みんなが世界を認識している、と考えるのはすべての前提そのものなんだよ」
伊月は面白そうに言った。
「ああ、あれか。哲学的ゾンビみたいなもの」
もし意志がないのに意志があるように振る舞う人間の形をしたものがあったとして、それを意志ある人間ではないと外部から見分ける方法がない、というこれも懐疑論的な思考実験だ。
「そうくることもわかっていた。だからそれに対する反証も用意してある。実は確かなことはただひとつに限られるんだ。僕らは僕らの意志の存在を前提にすべてを語る」
「僕らの意志の存在を前提に?」
少しわかりにくくなってきた。
「自分という存在が世界に生まれたのが何年かは知らないが、ともかくその生まれた瞬間に、僕らは世界を見る。世界がいつ作られたかは関係ない。思考実験的にいうなら、世界を見る窓が作られた、とするべきだろうね。その窓はひとつで世界はそこからしか見えないんだ。過去があることも、その窓から書物や映像の記録を見ているだけなんだ。哲学的ゾンビの思考実験のように、もし人間に意志があるってことを重視するなら、この世界を認識するための窓は、僕ならば九十年代からの三十年前後しか開いていないことになるんだよ! わかるだろう? 世界を認識する唯一のものなのに!」
「我思う故に我あり?」
混乱しつつ質問する。
「その言葉は正しいのだけれども、まだ足りない」
伊月はうなずいて、これからがいちばん大事なところだと指を立てる。
「それは前提としては浅いんだ。世界のすべてが嘘だろうと自分はものを考えている。つまり、世界を認識する窓はある。だが、それは世界が嘘だとしたら、の話だ」
「あ、世界を認識しているのはみんなだ!」
俺は自分で言った言葉を思い返して驚く。
「そこに戻ってきただろう? 僕らは世界が共有されており、過去から未来に時間が流れていることもなぜか常識的に知っているんだよ。これは生まれつきそうなっているんだとしかいえないくらい確かなことだよ! 論理的に考えたら、世界は嘘ということになる。それなのに世界の存在はすべての前提なんだ。これがこの世界でものを語るときの最大の矛盾なんだ。僕は僕の窓からしか世界を見ていないのに、君も君の窓から世界を見ていることを実によく知っているというわけさ!」
確かにそういわれると世界が違って見える。いや、むしろ違って見えないことが異常なのだとわかる。
めまいのような感覚が襲ってくる。雑談の延長で伊月が知識を披露しているのだと思っていたが、そういえば今回の事件とも関連している話だった。
「俺が見えていないところの世界が存在していなくて、見た瞬間に存在が出現するような世界が論理だけでは本当だってことか……だけど、そうではないことをなぜか知っている」
「それを君が例に出したデカルトは欺く神と仮定した。水槽の中に脳を入れてそれに幻覚を見せ続けているような世界のありようだと考えてもいい。だけど、その考え方もあっさりと論破できる。もし誰かが個人にだけ幻覚を見せているとしたら、その幻覚装置や脳を謀っている神はどんな世界にいるんだろう? そう、その神こそ高次の神によって水槽に入れられた脳なんだよ。こうしてこの仮設は終わりを告げる。どこまでも無限に続く世界を仮定することになんの意味もないからね。宇宙が高次のスーパーコンピューターによるシミュレーションという説も同様だ。世界はただひとつで共有されていることが絶対的な前提なんだ」
視界をぐにゃりと捻じ曲げるほど俺の世界観を揺さぶっていながら、伊月はそこで話をさらりとまとめてしまう。
「そこで『神塔の会』の話に戻る。インド哲学の宇宙の中心意志であるブラフマンと個人の意志であるアートマンから援用したのかもしれないし、ワンネスといっていたからスピリチュアル用語で説明したのかもしれないけれど、全員が別の世界を見ているというのは一面では正しいんだ。宇宙という全体はあり、全体としての時間が流れているが、人間は完全に個々人が孤立している。その生まれた時間からスタートして自分が移動した場所しか見ることができない。だが超常的なひとつの意思の元に我々は立ち返ることができる」
「それじゃあ、今回の現象を全部肯定しているみたいじゃないか。見ている人によって違って見える巨人や幽霊だなんて……」
俺は不安に襲われた顔をしていたに違いない。伊月は怪訝そうに眉を寄せた。
「背景にある哲学を説明しただけだよ。現象がそのまま起こるって意味じゃない」
そういえばまだ河本の取材映像を見せていなかった。これまで聞いていた話と大筋は変わらないが、体験者の実感がこもっているとまるで受ける感覚は違ってくる。
河本を取材した映像をタブレットにコピーしてやる。体験談を再生しているうち、伊月の表情が変化していった。元より病的なところのある目の光に、数式を解く鍵を見つけた数学者のそれが加わった。苦闘の後に証拠を掴みかけたかのような目だ。
「多少予感はしていたよ。でも、本物に出会ったのであれば、真剣度が変わってくる」
聞き終えてから、自分に言い聞かせるように伊月は言った。
俺も伊月も超常現象を頭から信じる人間じゃあない。ただ見たものは信じる。いや、この場合は大事な肉親が行方不明になった男の真剣さを信じたということだ。
伊月にかける言葉を選ぶことは俺にはできなかった。だが気まずくなるほど無言の時間が延びないうちに向こうから口を開いた。
「姉妹がいなくなった先輩としては、彼と姉を救けないわけにもいかないしね」
俺が意識して避けていた言葉だ。
伊月の妹が光に包まれて目の前から消えたあの現象に名はついていない。
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