夜の妖精

尾八原ジュージ

夜の妖精

 真夜中になると、昔住んでいた街を思い出す。ベランダに出て夜風に当たっていると、今よりももっと狭いアパートで暮らしていたことを、近所にあった狭くて品揃えのよくないスーパーのことを、道の向こうに見えた銭湯の煙突を、遠くに聞こえた踏切の音を思い出す。そういう記憶の中には大抵まよちゃんがいて、細い煙草を口に咥え、とろけたアイスみたいな笑顔を浮かべている。


 まよちゃんはわたしの隣の部屋に住んでいた。引っ越しのときに挨拶に行ったら、真っ青なアイメイクにがっちりセットしたボブヘアのスリムなお姉さんが出てきて、(住む世界が違いそう)と思ったのを覚えている。粗品ですと言って十枚入りのごみ袋を渡したら、彼女はものすごく恐縮して、そのときのギャップがかわいいなと思った。

 美容師だというまよちゃんはよく真夜中に帰ってきた。お店が終わってから片付けをしたり練習をしたりしていると、遅くなってしまうのだという。宵っ張りのわたしがベランダで涼んでいると、駅の方から歩いてくるまよちゃんの姿がよく見えた。

 まよちゃんはわたしの顔と名前をすぐに覚えてくれた。おしゃれすぎてちょっとこわそうな外見からは想像しにくいほどの気軽さで「長野さーん」と声をかけ、ふにゃふにゃっと笑った。彼女の笑顔を見るたび、わたしはアイスクリームがとろける様を思い浮かべた。

 わたしたちが互いの部屋を行き来するようになったのはいつからだろう。もうその頃には、わたしはまよちゃんをまよちゃんと呼んでいたし、彼女はわたしをながちょと呼んでいた。お酒が入るとまよちゃんは煙草を吸いたがり、ベランダに出て一服ふかす。わたしは吸わないけれど、彼女の横に立って並んで夜の街を見た。酔っ払ったわたしの目に、まよちゃんは夜の妖精みたいに映った。

「じつは占いが得意なんだ」

 まよちゃんはそう言ってタロットカードらしきものを切った。床の上に布を敷き、その上でカードをぐちゃぐちゃに混ぜて揃える。それからゆっくりと、わたしの顔を見ながら並べるのだった。カードの見方はわたしにはちっともわからなかった。でもまよちゃんはさながら新聞でも読むみたいに、ふんふん言いながら何かを読み取るのだった。

「ながちょ、転職上手くいくと思うよ。明日求人サイト見て気になったところ、受けてみ。仕事だけじゃなくて、ながちょにとって大事な人にも会えるから」

 はたして翌日、わたしは彼女に言われたとおりの行動をとり、それまでよりずっと条件のいい会社に就職することができた。そこで今の旦那とも出会った。

 今はもう会うこともないけれど、まよちゃんにはずっと感謝している。


「ながちょ、お別れにきたよ」

 珍しく日曜日の昼間に突然やってきたまよちゃんは、相変わらずとろけたアイスクリームみたいな笑顔を浮かべていた。

「えっ、引っ越すの?」

「ううん、あたし死ぬみたい。タロットで出たから、たぶん当たると思う」

 そんなことあるの? と言ったわたしに、まよちゃんはぎゅっと抱きついた。そして、「ながちょ、ありがとね」とささやいた。いつも吸ってたタバコと、着ていた革ジャンの匂いがした。

 わたしは帰ろうとするまよちゃんを引き止めた。でも、

「死ぬ前に絶対会いたいひとがいるから」

 そう言って、彼女はどこかに行ってしまった。

 驚いたことに、まよちゃんはその後本当に死んでしまった。乗っていた高速バスが事故を起こしたのだと、後日隣室に遺品を取りにきたまよちゃんのお母さんから聞いた。

 会いたいひとに会えたのかどうか、わたしにはわからない。


 まよちゃんに出会うまでは、大人になってから友達なんてできないと思っていた。

 あの頃わたしたちを結びつけていたものはたぶん、友情だったと思う。でもその一言では表せない不思議なニュアンスがあって、それをわたしは真夜中になると、細い糸を手繰り寄せるように思い出す。

「まだ起きてたの」

 夫がベランダにいるわたしに声をかけた。

「そろそろ寝るよ。トイレ?」

「うん」

 わたしは部屋に戻り、サッシとカーテンを閉める。歯を磨いて眠る支度をする。

 まよちゃんのいた夜はもう遠い。なにしろ年月が経ったし、引越しも何度も経験した。わたしも夫も煙草を吸わないし、占いもしない。

 だんだん思い出になっていくまよちゃんの、残念ながら永遠に年をとらない姿は、わたしにとってはもう夜の妖精そのものだ。

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