風邪をひいた日
ninjin
第1話
ふと、目を開いた。
ナツメ球のオレンジ色がボンヤリと見える。
ここは自分の部屋のベッドの上で、どうやら僕は無事だったらしい。
布団の中で、もぞっと身体を動かしてみると、筋肉痛か?少し関節周りが痛い気がする。
それでも随分と楽になった。そう思えた。
風邪をひいて学校を休んだのは昨日のことだ。
昨日といっても、まだ丸一日は経っていない、恐らくは。
いったい今何時なのだろう?
隣の姉ちゃんの部屋からも物音はしないし、階下の台所で母親が洗い物をする音も聴こえない。そして僕の枕元にある目覚まし時計の秒針が時を刻む音だけ、僅かに右の耳で感じられる。
僕は「チッ、チッ、チッ」と音のする方へ適当に手を伸ばし、目覚まし時計を探り当てると、それを手に取って、目の前にかざすようにして、針の指す時刻を読み取る。
――午前一時十二分。
まぁ大体予想通りの時刻だ。
少し腹が減った気がする。
そういえば、昨晩、姉ちゃんが『ご飯出来たってよ、降りといで』と、部屋をノックしたのにも、僕は発熱による余りの辛さに、『要らねぇ』と、素っ気なく答えた。
すると姉ちゃんは何故か気分を害したみたいで、僕にも増して素っ気なく『あっそ』と返した挙句、わざわざ僕の部屋のドアを少し開けて、それから思いっきり『バタンッ』と閉めやがった。
僕も頭には来たのだけれど、頭痛と寒気とぐるぐる回る意識の中、胸の内で姉ちゃんに向かって呪いの言葉を唱えながら、いつしかすべての感覚を失った・・・。
あれは何時のことだったのだろう?
多分いつもの夕飯の時間であったとして、午後六時半から七時の間くらいだろうか。
それから
腹も減る訳だ。
僕はゆっくりと半身を起こし、それから更にそおっと床に足を降ろす。
起ち上がろうとして「痛ててて・・・」。
やはり身体中の節々が痛い。
あんまり無事では無さそうだ。でも、これって、治りかけてる証拠だよな。
確かちょっと前に生物の時間に、人体の免疫機能がどうたらこうたらで、発熱の後に筋肉痛を起こすのは・・・、って先生が説明していたような気がする。
いや?保健体育の時間だったか?
ん?NHKで視たんだっけ?
そういえば、僕は学校に行っても、あまり授業中に先生の話は聞いていない、ような気がする。
まぁ、どうでも良い。
頭痛が無くなっただけでも御の字だ。
僕は如何にもたどたどしい足取りで、静かに部屋を抜け出し、階下の台所へ向かうのだった。
台所で、テーブルにラップを掛けられた僕の分であろう皿が置いてある。
唐揚げとキャベツの千切り、それに何の葉っぱだか分からないお浸しみたいなもの。
腹が減ったとはいえ、今食べれる気がしない・・・脂ものは・・・。
僕はテーブルの皿は無視することにして、冷蔵庫の扉を開けてみた。
冷蔵庫を開けてはみたものの、どうやらそこには今僕が欲しているものは見当たらない。いや、正直に言うと、何を欲しているのか、自分でも正確に『これっ』というものが有る訳ではないのだ。
それでも腹は空いている。それは間違いないのだが・・・。
静まり返った台所に、冷蔵庫のモーター音(?)ジィィィィ――という、いつもなら聴き取れない音が木霊して、そんな音が腹に響いて更に空腹感を刺激する。
不意にトンっトンっトンっ、と階段を下りる足音がして、トイレのドアがカチャ、パタンと鳴り、それからちょっとして、水洗トイレの水が流れる音が、盛大に響き渡った。
台所のドアがカチャリと音を立て、僕は反射的に振り返ると、
「
姉ちゃんの声が、何だか優しい。気のせいか?
「あ、いや、うん、大丈夫・・・」
「で、どうしたの?」
「いや、なんかさ、お腹空いちゃってさ・・・」
姉ちゃんはテーブルを一瞥して、それから納得顔で訊いてくる。
「何が食べたい?」
「あ、うん、いや・・・。なんだろう・・・」
「言ってごらんよ」
「ええっと・・・、腹が減ってる・・・だけど、脂ものではなくって、胃に優しくて、それでも食べた気がして・・・、うーん、なんだろう?でも腹減ったっ」
「シィ、静かにぃ。みんなもう寝てるんだから」
姉ちゃんが神妙な顔をして、小声でそう言うものだから、僕も息を潜めるようにして、「ごめん」と返す。
そして、何故『ごめん』と謝ったのか、自分で自分に腹を立てた。数時間前にあれほど呪った相手だ。
「分かった。ちょっと待ってて。すぐ作ってあげるから」
なんだ?この優しい口調、違和感しかないぞ。
呪った相手である姉ちゃんは、僕の気持ちを完全に無視しているみたいだ。
そりゃそうだ。薄暗い台所で、僕の表情は見える筈もない。
僕は姉ちゃんに促されるままに椅子に腰掛け、どうにもやるせない気持ちと、何だかよく分からない優しさに包まれて、ぼんやり姉ちゃんを眺めていた。
姉ちゃんはテーブルのお浸しの小鉢をまな板にひっくり返し、それを包丁で刻む。
鍋を火にかけ、電子ジャーからしゃもじ一すくいほどのご飯を鍋に入れ、それから今刻んだ葉っぱも一緒にクツクツとやり始めた。
そして今度は唐揚げを一つだけまな板の上に転がし、今度は先ほどのお浸し以上に細かく刻み、更に鍋の中に放り込む。
冷蔵庫から取り出した卵に麺つゆを足して溶き卵を作り、沸騰した鍋に流し込んだ姉ちゃんは、「もうちょっとだよ。もうすぐ出来るから」、そう言いながら、僕に優しい笑顔で振り返る。
なんだ?誰だ?本当に姉ちゃんか?
ガスコンロの青い炎に照らされた姉ちゃんの横顔を見ながら、そういえば、昔は姉ちゃん優しかったような気がするなぁ、そんなことを、何となく思った。
「はい、出来上がり。ほら、食べな」
僕は言われるままに、丼からそれをレンゲですくい上げ、ふぅふぅと息で冷ましてから口に運ぶ。
「‼」
「どぉ?美味しい?」
鍋を洗いながらの姉ちゃんの問いに、言葉も無く、僕は唯々、首を縦にうんうんと頷くだけで、もう二口目を口に運ぼうとしていた。
「そりゃあ良かった。じゃ、あたしはもう二階に上がるから、あんた、食べ終わったら、食器、洗っておくんだよ。じゃあね、おやすみ」
僕は口をモゴモゴと動かしながら、「あ、うん」と返事をして、台所から出て行こうとする姉ちゃんを、つい呼び止めてしまう。
「姉ちゃん・・・」
「なに?」
あれ?ついさっき、あんなに優しい口調だった姉ちゃんは、またいつもの姉ちゃんに戻った?
「あ、いや、美味いよ・・・、これ・・・」
「当たり前でしょっ、食べたら早く寝なさいよ」
なんなんだ?
本当は、『ありがとう』、それだけ言いたかったのだが・・・。
姉ちゃんが行ってしまった台所でひとり残された僕は、再び呪いの言葉を唱える、真夜中二時ちょっと過ぎ・・・。
おしまい
風邪をひいた日 ninjin @airumika
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