第44話 再会と別れ

「待ってろ、今喋れるようにしてやるからな」


 マクスウェルはそう言うと檻の外から手を伸ばし、アゼリアの首に嵌められた首輪に触れた。

 途端、イエローカラーの閃光が走り、光が収まるのと同時にアゼリアの首から枷が外れる。解放感に酔いしれることはせず、アゼリアは檻越しに兄の手を握った。


「……お兄様? マクスウェルお兄様なの……?」


 呟いた名前に実感がない。まるで夢のよう。けれど、アゼリアが握った兄の手は、その存在を、暖かさを、確かに伝えてくる。


 アゼリアはマクスウェルを茫然ぼうぜんと見つめることしかできない。そのマクスウェルの目頭に、じわりと涙が滲みだす。


「アゼリア……大きくなったなぁ。ああ、母様によく似ている……その眼は父様譲りだね……」

「お母様もお父様も元気です。お兄様……よくぞご無事で……」

「はは……そうか。元気か……よかった……」


 涙声で顔を伏せるマクスウェルに、つられてアゼリアの目にも涙が浮かぶ。ふたりはしばらく、なにも言わずに泣きあった。互いの手の暖かさと存在を感じながら、静かに泣いた。


 そうして気持ちが落ち着いたころ、濡れた頬や目元を適当なシーツで拭いながら、アゼリアがマクスウェルに話しかけた。


「お兄様は今まで、どうされてたの?」

「それは……」


 問われたマクスウェルは、言い淀む。

 悪女に捕われていたマクスウェルが、いままでどう生きてきたのか、なんて。アゼリアは、マクスウェルが気まずそうに目を逸らすまで、考えたこともなかった。


 だって、仕方がない。今、この瞬間まで、マクスウェルはとうに失われてしまったものだと思っていたのだから。


 アゼリアは自分の失言に気がついて、すぐに首を横へ振った。


「話したくないことでしたら、無理にとは言いません」

「いや……、いや、話すよ。あとで、必ず。でもその前にアゼリア、よく聞いてくれ」


 マクスウェルが顔を上げて真っ直ぐアゼリアを見た。その青緑色の目は真剣さと切実さとで美しくきらめいている。


「僕はアゼリアを逃がそうと思う」


 そう言って、マクスウェルはアゼリアを閉じこめている鳥籠の鍵に手で触れた。触れた瞬間、首輪を解除したときと同じようにイエローカラーの閃光が走り、檻の扉がキィ、と開く。


 あれは魔術だろうか。と思うけれど、アゼリアの魔術痕色を見透す眼には、魔術の痕跡も色も、なにも映らない。では、なにか。少しも思いつかなかかったのは、疲労のせいだろうか。


 考えに耽ってしまったアゼリアの手を、マクスウェルが引く。手を引かれたアゼリアは、ようやく鳥籠からでることができた。まだ完全な自由を得たわけではないけれど、これはその一歩だ。


 アゼリアが自分を導く力強く優しい手にホッとしている一方で、周囲を警戒するマクスウェルが振り返らずに口早に告げた。


「きっと、この状況は罠だ。できすぎている。けれど、アゼリアを逃さなければ僕はマクスウェル・モルガンとして死ねない」

「お兄様……、それはどういうことですか?」


 二度と会えないと思っていた兄と再会し、助けられたことで浮ついてはいるものの、不穏な発言を見逃すアゼリアではない。監禁されていた部屋を抜け、寝静まった暗い廊下をゆくマクスウェルの背中に、アゼリアが問う。


 けれどやっぱりマクスウェルは振り返らずに、焦ったような早口で答えた。


「アゼリア、時間がないんだ。意図的に作られた隙を突いて、僕はここにいる。いいかい、ここを出たら第二王子を味方につけろ。あの人だけは宮殿で唯一まともな人間だ」

「大丈夫、彼はもう味方です」

「そうか、さすがアゼリアだ。よくやったね。……アゼリア、きっと悪女を打ち倒ことを願っているよ。でも、お前が無事、オルガンティアに帰れるなら……父上と母上の元へ帰れるなら、必ずしも悪女を仕留めなくてもいい」


 やはり振り返らずに告げるマクスウェルの手は、ひんやりと冷たい。きつく固く握られていたから気づかなかった。


 嫌な予感がする。首輪を外してもらったときは、確かに熱く暖かかったのに。


 アゼリアは言いようのない不安に襲われて、マクスウェルの背中を見つめながら、ゴクリと唾を呑みこんだ。


「……アゼリア、とにかく逃げなさい。あの女の元にいてはいけない。君は僕と違ってまだ間に合うから。アゼリア……僕の可愛い妹。必ず僕が守るから」

「……お兄様、先程からまるで遺言のような話をされていますが、どうされたの?」

「アゼリア、それは気のせいだよ。気にしないで。……ええと、僕の話だったね。聞いていて気持ちのいい話ではないから、気分が悪くなったら言うんだよ、止めるから」

「はい、わかりました」


 アゼリアが頷くと、マクスウェルは悪女に囚われてからの話をポツリ、ポツリと話しはじめた。話しはじめてくれたのだけれど、やっぱり振り返って顔を見せてはくれないまま。


 マクスウェルは派遣された先の国で悪女の手先に捕われて、モルガン家の追手を交わすよう、各国を経由したのち、エネルゲイアの後宮へと連れてこられた。


 そして、オクタヴィアによく似た彼女たちに——ひとりひとりに名前はないらしい——もてあそばれ、逃げることもできずにいたという。


「僕は今まで、あの悪女たちに愛玩動物ペット扱いされて飼われていた。アゼリアも、もしかしたら体験しているかもしれないけど……」

「わたくしは……未遂でした。酷くなる前にオクタヴィアが止めたんです」


 その代わり、特殊な接待を受けた。と、アゼリアが告げると、マクスウェルは複雑な表情を浮かべ、けれどすぐにホッとしたように力なく笑った。


「そうか……よかった、と言っていいのかわからないが……。僕はそうやって生かされて、彼女たちの研究に付き合わされて、そして……」


 そこでマクスウェルは立ち止まった。黙ったままだったけれど、苦しそうな呼吸音がアゼリアの耳にも聞こえた。繋いでいる手だって、どんどん体温が低下しているような気がする。


 不安に駆られたアゼリアがマクスウェルにそっと近寄って、はかなく小さく見えてしまった背中を撫でた。


「……お兄様、どうされたの?」

「すまない、アゼリア。出口はこの先だ。急ごう、早くこの後宮を抜けださなければ……」


 言うが早いか、マクスウェルはアゼリアと手を繋いだまま駆けだした。突然駆けだしたからか、アゼリアの足がもつれてしまう。


 それでもマクスウェルは止まらない。なにも喋らない駆けるマクスウェルの背中を見つめて、アゼリアは不安に思う。繋いだ手の力強さだけを頼りにして、アゼリアは兄とともに後宮を駆け抜けた。


 ホールを抜け、エントランスへ。庭木に隠れながら庭園を抜け、そして、ついに、門をくぐって後宮領域エリアの外へ。そう、オクタヴィアが支配する領域エリアの外へ。


 外へ出てからはしばらく無言だった。ようやく後宮が見えなくなったころ、そこでようやくマクスウェルが振り返った。振り返ってアゼリアを見た。アゼリアを見つめる顔は、どうしてかはかなく揺れている。


「……アゼリア」

「なあに、お兄様?」

「アゼリアには、もう心に決めたひとが、いるのかな?」

「ええ、いるわ。王国へ帰ったら、婚約式と結婚式を挙げる予定です。お兄様も参加してくださいますよね?」

「……そうか。……アゼリア、絶対に生きて帰りなさい。そして、愛するひとと幸せになるんだよ」

「お兄様? なぜ、そんなこと、を……」


 アゼリアの嫌な予感は、外れた試しがない。


 けれど、と思う。けれど、どうか、今だけは、予感が外れますように。アゼリアは祈るような気持ちで、マクスウェルと繋いだ手を両手で包む。


 お願い、お願い、お願い。お兄様の顔色が悪く見えるのは月明かりのせい。お兄様の手が痛いほど冷たいのも後宮から脱出するという緊張のせい。お兄様が苦しそうに奥歯を噛んで胸を押さえているのはここまで走ってきたから! だから、だから、だから。大丈夫。お願いだから大丈夫だと言って!


 アゼリアの祈りは、祈りでしかなかった。聞き届けるもののいない祈り。奇跡も希望もどこにもない。


「……ぐぅ、……ッ」


 アゼリアの嫌な予感は当たるのだ。マクスウェルが胸を押さえて低くうめき、アゼリアに向かって倒れこむ。


「お兄様! なに、どうしたの!? どこか怪我でも!? それともご病気でしたか!?」


 アゼリアの声とマクスウェルが咳こむ音が重なった。ゴフ、ゴフ、と嫌な音が鳴る咳。肺の奥から咳こんで、吐血しそうな勢いのそれ。


 それでもマクスウェルは血を吐いたりしなかった。酷いのは咳とその音と血の気が失せた顔色だけ。見た目だけは大丈夫そうに見える。けれど咳こむ音だけが、マクスウェルに死の危機が迫っていることを知らせている。

 

 わけがわからず、アゼリアはマクスウェルを見る。伏せられた顔を覗きこみ、まずは兄の身になにが起こっているのか把握しようと震える心を奮い立たせた。


「お兄様、休みましょう。お願い、どこが痛いのか教えてください。お願い、お願い……」


 けれどアゼリアの懇願はマクスウェルには届かなかった。マクスウェルは首を振る。縦ではなく、横へ。


「アゼリア……いいんだ。……もう、行きなさい。決して後ろを振り向いては行けない。元より僕は、死んだも同然。アゼリア、ほんのひと時でも話せて幸せだったよ。……アゼリアの幸せを、君の愛するひとに託すと、伝えて……」


「お兄様、お兄様! いや、やめて、駄目よ! せっかく会えたのに! お兄様は生きておられるのに!」

「駄目だよ、アゼリア。僕はもう、生きていない。行きなさい……君にはやらなければならないことが、あるはずだ。ああ……なにも残してやれなくて、ごめん……」


 マクスウェルはそう言って、再び激しい咳をした。ゴフゴフと濁った音が混じるその咳は、確実にマクスウェルの命を脅かしている。


 どうして、どうして。これはただの咳ではないの? どうしてこんなに消耗しているの?


 アゼリアは無意識化で展開していた魔術痕色を視るための簡易魔術式を解き、正式な式を組み上げて魔力を通した。


 目を閉じて、また開く。開いてからは、別世界だった。


 マクスウェルの身体に魂に、幾重にも刻まれた魔術痕。ありとあらゆる色が混じって真っ白だ。空白の白、あるいは、消滅の白。こんなに白い光に塗り潰されてしまったら、いつ、この世界から消えてしまってもおかしくはない。


 首輪を外してくれたときも、檻からだしてくれたときも。マクスウェルは魔術を使わず成し遂げたように見えたけれど、それは誤りだった。


 マクスウェルはずっと魔術を使っていた。ただ、身体に刻まれた魔術痕が、真っ白に光っていたから魔術の光を打ち消していただけ。


 そんな状態で魔術を何度も使うなんて。ただでさえ、あやうい状態だというのに。


 それは、つまり、マクスウェルの死を意味している。


「いや、いや……お願い……お兄様……わたくしと、わたくしと一緒に……」

「僕はもう、これ以上先には進めない。そして、戻りたくもない。だから、……ごめんね、アゼリア。ああ、泣かないで……」

「お兄様……っ! 駄目、駄目よ……まだいかないで……わたくしが、わたくしがなんとかするから……っ!」


 アゼリアの赤い双眸からボロボロと涙の粒が溢れて頬を伝う。胸が痛い、呼吸が苦しい。自分の声がうるさくて、お兄様の声が聞こえない。


 アゼリアは震える手を兄のひんやりとした身体にかざし、魔術を使って走査スキャンする。


 結果はどうだ。酷かった。


 余白の余地もないほどに書きこまれた魔術式。それは悪女たちの呪いだ。あるいは、実験の産物か。膨大な量の未完成な魔術が、マクスウェルの身体と魂とを喰い潰してゆく。


 これは、これでは、もう。


 滂沱の涙を流しながらアゼリアはくちびるを噛むことしかできない。せめて兄の苦痛を和らげたくても、マクスウェルの身体には、魂には、もう魔術式を書きこむ余地がないのだ。


「お、おに……おにい、さま……」


 アゼリアの視界は絶望で真っ暗だ。抱き締めている兄の身体の熱が、重さが、徐々に薄れて消えてゆく。


 けれど。


 けれどマクスウェルは、絶望など抱いていなかった。死を前にして願うのは、ただ、愛しい妹の幸福のみ。


 マクスウェルは最後の力を振り絞ると、大音声でアゼリアを叱咤した。


「アゼリア……アゼリア・モルガン! 背筋を伸ばせ、呼吸をしなさい! 顎を引いて、前を見ろ! お前はモルガン家の後継者だ、しっかりしなさい! ……っ、……アゼリア、幸せにおなり」

「お兄様——!」


 そうして。そしてアゼリアの兄、マクスウェル・モルガンは、悪女たちの呪いにも似た膨大な量の魔術式に喰い潰されて、なにひとつ残さず消え失せた。


 残されたのは、茫然自失となったアゼリアだけ。


 そんなアゼリアに遠くのほうからバタバタと駆け寄る、誰かの足音。その足音は確かに聞き覚えがあった。


 けれど、兄を失った悲しみと悔しさで放心していたアゼリアは、それが誰なのか、なんて、そんなこと。どうでもよくなってしまったのであった。


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