第42話 二度目の誘拐

「悪い子ね、ジュダ。あたくしに隠しごとなんて。しても無駄なことなのに、どうしてあなたはやめられないの?」


 突然あらわれたオクタヴィアは、高圧的な態度でもないのに、アゼリアやジュダを圧倒するような気配を放ち、けれどどこか穏やかな微笑みを浮かべていた。


 これが、悪女オクタヴィアか。


 アゼリアは、はじめて目にするオクタヴィア・エンテレケイアの姿に目を見張った。


 背中まで流れる漆黒の髪は、光を浴びて輝いている。微笑みの奥でアゼリアを見つめている双眸も、髪と同じく漆黒だ。夜の星のような瞬きがともるその眼は、長く見つめてはいけない、とジラルドに言われていたことを思いだす。


 だからアゼリアは、熱視線を向けてくるオクタヴィアから視線を外した。そして、美しく流れる黒と赤とで作られたベルベットのドレスの裾を見る。


 オクタヴィアのドレスは締めつけがなくゆるやかで、身体にフィットするものだった。身に纏う者の凹凸が自然と浮かび上がってくるような。


 それはオクタヴィアの美貌と相まって、思わずうっとりと眺めてしまうような、あるいは見つめざるを得ないような効果を醸しだしていた。


 これが、オクタヴィアが悪女と呼ばれる所以ゆえんかしら。とアゼリアは比較的冷静に考えることができた。


 悪女を前にしたら、もっと感情的に取り乱してしまうものだと思っていたけれど、オクタヴィアの訪問があまりにも唐突すぎて、逆に冷静になれたのだろう。

 けれど、冷静になれたのはアゼリアだけだった。


 ジュダがアゼリアと交わしていた握手を振りほどいたのだ。ジュダの顔色は真っ青だ。こめかみを冷や汗が伝っているのが見える。


「お、オクタヴィア……様……」

「ふふ、ふ。いい顔ね、ジュダ殿下。血の気が失せて真っ青。そんなに見つかりたくなかったの? でも、ごめんなさいね。見つけてしまったわ」


 オクタヴィアはジュダにコロコロと笑いかけた。けれど、それだけ。すぐにもう興味がなくなったかのように無視をして、ジュダへは一瞥もくれずにアゼリアの元まで悠々と歩く。


 そして、なんと、オクタヴィアは纏っていたドレスが床に着くのも構わずに、アゼリアの前でひざまずいたのだ。そうして赤いくちびるでニコリと笑みの形を描き、戸惑うアゼリアの手を取った。

 想像以上に暖かい手に、アゼリアの肩がビクリと跳ねる。


「——……ッ!?」

「はじめてお目にかかります、アゼリア・モルガン公爵令嬢様。あたくしはオクタヴィア・エンテレケイア。あなた様をお迎えに上がりました」

「なに、を……言って……?」


 アゼリアは、オクタヴィアになにを言われたのか、咄嗟に理解できなかった。わかるのは、悪女が膝をついてまでアゼリアに挨拶をしたこと。そしてそれは、淑女の挨拶というよりは、まるで騎士のよう。


 そう、愛を乞う騎士のようだった。


 背が高く細身のオクタヴィアがそんなことをすると、兄の仇のはずなのに勘違いしてしまいそうになる。駄目よ、駄目。と心の中であらがって、アゼリアは取られた手を振り払おうと力を入れた。


 けれどアゼリアの手は、びくともしなかった。

 それなりに武術をたしなんでいるはずのアゼリアが、そっと手を握っているだけのオクタヴィアに敵わない。


 なに、なんなの。アゼリアの背中が途端に熱くなる。熱くなった背中が、汗でびっしょりと濡れていることを今更ながらに気がついた。


 これは、いけない。アゼリアは、気づかず警戒心を表情にだしてしまった。それを見たオクタヴィアが、ニタリと笑う。

 浮かぶ笑みは妖艶だ。あるいは面妖か。オクタヴィアは笑みを深めたままで、アゼリアの手に、くちづけた。


 アゼリアの手の甲に、真っ赤な口紅がベッタリとつく。室内だからと監禁されて以降、手袋をしていなかったのが、あだになった。


 汚された、と反射的に思いながら、いまだ自由にならない手と、印のように付着した悪女の口紅とを見る。淑女がどうだとか、因縁の敵の前だからこうだとか、そんなことを一切忘れて、アゼリアは思いきり顔を顰めた。


「ふふ、ふ。可愛いお嬢さんだこと。ジュダ、あたくしに報告しなかったことはいけないけれど、よくやりました。アゼリア様を我が国に連れてくるなんて、思ってもみなかった。なんて素敵な! まさか、あなたがやってくれるなんて!」


 オクタヴィアはアゼリアの手を握ったまま、高らかに笑いだした。今にも踊りだしそうな異様な雰囲気だ。

 アゼリアは、少しでも離れなければ、と思いながら、掴まれた手を抜こうと必死になる。けれど、どうやっても手は抜けない。


 焦って力を入れすぎて、逆にアゼリアの体力が消耗している。背中を濡らしていた汗は、今、アゼリアの額も湿らせている。そう、化粧をした顔に、汗をかいていた。


「……しまった! アゼリア嬢……逃げろ!」


 異変に気づいたのは、ジュダが先だった。アゼリアへ忠告を投げるが、遅かった。


「……っ、……?」


 アゼリアはジュダの呼びかけに答えることが、もうできない。いつの間にか痺れていた舌が重くて、発声できなかったから。


 痺れているのは舌だけじゃない。なんだか全身が痺れているような、重いような感覚に、アゼリアは淑女のおきてなど無視して舌打ちをした。


 思い当たる節は、ひとつしかない。


 オクタヴィアに印のようにつけられた真っ赤なくちづけの跡。そこから毒が染みこんでいる。

 アゼリアは抵抗する自由を奪われ、オクタヴィアが抱き寄せるままにその腕の中へ収まった。頭を痺れさせるような香りがアゼリアの鼻腔をフワリとくすぐった。


「アゼリア嬢……!」

「いけない、それはいけないわ、ジュダ。せっかく手柄を立てたのに、台無しにするの? ふふ、ふ。あなたは大人しくしていなさい。まだ使い道があるのだから」


 アゼリアに駆け寄ろうとするジュダを妨害しながら、オクタヴィアがわらう。嗤いながら優しくジュダをたしなめている。


 青褪めた顔のまま、ジュダは必死でオクタヴィアに縋りつく。身体が痺れて自由を奪われたアゼリアは、そんなジュダに声をかけることも、オクタヴィアの腕から逃れることもできない。


「待て! 待ってください、オクタヴィア様……ッ! まさか、まさか……母のような扱いをアゼリア嬢にするつもりか!?」

「ふふ、ふ。まさか、そんなこと。それ以上のおもてなしをするに決まっているでしょう?」

「駄目だ、アゼリア嬢……! 逃げてくれ……、ッ!?」


 ジュダのわめきは、そこで途絶えた。オクタヴィアが、魔術痕色レッドの攻撃的な魔術を使って、ジュダを昏倒させたから。


 身動きが取れず見ていることしかできないアゼリアも、とうとう視界が白く滲みだした。目を開ける自由すら、悪女はアゼリアから奪うのだ。


 アゼリアは朦朧とする意識の中で、痺れた舌と喉とをどうにかこうにか動かした。


「ジュ、ダ……でん、か……」


 けれど、そう囁くだけで、精一杯だった。無力なアゼリアを嘲笑あざわらうようなことはせず、慈しむようにオクタヴィアが言う。


「あらあら、優しいのね。人の心配をしている場合ではないのに。まあ、いいわ。邪魔者は眠りに着きました。あたくし達はあたくし達に相応しい場所へゆきましょう」


 オクタヴィアはアゼリアの頬をひと撫でし、アゼリアの意識は完全に落ちた。その後ジュダがどうなったのかなんて、アゼリアにわかるはずもない。


 大事な姫を守るかのようにオクタヴィアに抱かれたアゼリアは、ジュダに監禁という名の保護をされていた部屋から連れだされた。


 どこへ? ——後宮へ。


 そう、悪女の棲家であり、影の女王の城である後宮に、である。


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