第三部
第35話 晴れの日の婚約式
ある晴れやかなる日。
それは王城の中央庭園で行われていた。幸せそうに微笑む男女は、白色を基調としたドレスとスーツで着飾っている。左手の薬指には、
今日は、婚約式である。
オルガンティア王国ノアベルト第一王子とレグザンスカ公爵令嬢との婚約式だ。
すでに式自体は終わっていて、今はふたりのお披露目パーティーの真っ最中であった。美しく咲き乱れた花々に囲まれた立食形式の
貴族が入り乱れて談笑し、グラス片手に歓談し、心地よい
挨拶を済ませていない貴族たちは、長蛇の列に並んでいる。そんな貴族たちに混じって、アゼリアとグエスもいた。
普段、社交の場にあまり参加しないアゼリアは、久しぶりに
アゼリアは深呼吸を何度かすると、支えてくれたグエスに微笑んだ。
「ありがとう、グエス。あなたがいてくれて、よかった。グエスは大丈夫?」
「問題ない。ただ……リアの美しさが知られてしまったと思うと、少し複雑な気分だ」
「ふふ。グエスったら、褒めるのが上手ね」
「リア……確かに褒めはしたが、真実を言っただけなんだが……」
そう言ってグエスは、困ったように眉根を寄せて首の後ろをカリカリと掻く。そんなグエスの様子を見て、アゼリアは緊張が上手く
アゼリアの本日の装いは、目立たぬよう控えめだ。レースも飾りも控えめなシンプルな琥珀色のドレス、アクセサリーにはシックに輝くブラウンカラーの石が使われている。
化粧だって、侍女のマリアに猛反対を受けながら、目立たず地味な印象を与えるような顔にした。だから、美しいだなんて、そんなこと。あり得ないのに、グエスに言われるとお世辞でも舞い上がってしまいそうになる。
「……き、今日は少し、暑いわね」
アゼリアは、頬が赤く染まってしまった理由を天気のよさのせいにして、そう言った。視線がフラフラと定まっていないのも、暑さのせいだ。
すると、グエスがクスリと笑った。
「そうだな、暑いな。リアが倒れないよう、しっかり支えるからリアも自分に掴まっていてくれ」
「あ、グエス……っ!」
グエスはアゼリアの細い腰をしっかり抱き直すと、同時にアゼリアの手もギュッと優しく握りしめる。
いけない、この距離と体温はいけない。アゼリアは、グエスの手が添えられた腰に熱が集まり、汗が噴きだしそうな気配に身を
けれどグエスが逃してくれない。かえって腰を抱く手の、腕の、力が入り、アゼリアはグエスと密着せざるを得なかった。
いけない、本当にいけない! グエスの熱が、匂いが、アゼリアの心をくすぐって熱暴走寸前だ。歩くたびに香る上品で甘い古木の匂い。それがアゼリアが纏った花の香りと混ざり合って、うっとりと
惚けながら、グエスに身体を預けてしまう——その前に、ようやくアゼリアとグエスの番がきた。
なんの番か? それは、苦難を乗り越え、ようやく婚約式を果たした幸せなカップル達へ挨拶と祝福を送る番である。
アゼリアは内心、ホッとしながらノアベルト殿下とレグザンスカ公爵令嬢の前で美しいカーテシーを披露した。隣に立つグエスは、姿勢正しく紳士の礼をしている。
「アゼリア嬢、グエス補佐官。今日は招待に応じてくれてありがとう。どうか、楽にしてくれ」
ノアベルト殿下に
だからアゼリアの口からは、ふたりを祝福する言葉がなんの澱みもなくスルスルと流れだした。
「おめでとうございます、ノアベルト殿下。そして、レグザンスカ公爵令嬢も。よい方と巡り合えたのです。どうかお幸せに」
「殿下、公爵令嬢。末永いお幸せを心よりお祈りしております」
アゼリアの後に続き、グエスもまた祝福の言葉をかける。少し声が硬いのは、緊張しているからだろうか。そう思ったら、グエスが可愛らしく思えて、アゼリアは心の中でだけでそっと笑う。
ふたりの祝福に言葉を返したのは、銀の君ことレグザンスカ公爵令嬢だ。銀の君は、とろけるような心からの微笑みを浮かべてアゼリアの手を取り、キュッと握った。
「ありがとう存じます、モルガン公爵令嬢、ガフ補佐官。次はあなた方の番ですね、幸福に満ちた未来を築き上げてください」
銀の君とは行き違いがあったけれど、もう解決している。アゼリアはそう思っているのだけれど、令嬢のほうは違うようだ。
銀の君は、まるで懇願するように、あるいは謝罪をするように切実にそう言った。銀の君の隣に立つノアベルト殿下も、同じ顔をしている。
すでに解決した話を、アゼリアは蒸し返すつもりはない。何度でも謝罪をしてきそうなふたりに向かって、アゼリアはニコリと微笑んだ。
「ありがとう存じます、レグザンスカ公爵令嬢。……まだ殿下方に挨拶をされたい皆さまもおられますから、わたくし達はこれで失礼いたします」
そういうわけでアゼリアは、銀の君の手がそっと離れたタイミングで礼を述べ、まだ話足りなそうにしていた殿下と銀の君とに挨拶を済ませてその場を離れたのだ。
祝福の言葉をかけ終え、貴族の義務から解放されたアゼリアとグエスに声をかけてきたのは、グエスの上司であるルイユ宰相閣下であった。
宰相はにこやかに頬と目元とを緩め、アゼリアに笑いかける。
「アゼリア嬢。今日もまた一段と麗しく——……なに、グエス。社交辞令くらい許せないのですか?」
「そういうわけでは」
「ない、と言い切れますか、言えないでしょう? 嘘を吐くのが下手になりましたね、グエス」
「それは誤解です。そもそもルイユ宰相が……」
ニコニコと笑う宰相から吐きだされた言葉は、浮かべた表情の逆だ。グエスも宰相も、
そんな気安い会話に、アゼリアは思わずクスリと声にだして笑ってしまった。
「ふふ。すみません、面白くて、つい」
「リア……これは笑い事では……」
「そうですよ、アゼリア嬢。私も最近になって知りましたが、グエスは存外心の狭い男のようです。……彼でよいので?」
「あら、宰相閣下。それは愚問ですよ。わたくしが是非に、とお願いしたのです。それに、わたくしのことで心が狭くなってしまうグエスは、見ていて楽しいもの」
「リア……なんて悪いひとなんだ」
「でも、離れる気はないのでしょう? わたくしもないけれど」
「当たり前だ。ようやくリアの隣に立てる権利を得たのに、どうしてそれを手放すような愚かな真似を……」
「あー、はい。グエス、わかった、君の気持ちはよくわかったし、アゼリア嬢の気持ちもよくわかりました。アゼリア嬢、どうかグエスをよろしくお願いいたします」
「はい、喜んで」
深々と頭を下げるルイユ宰相に、アゼリアは力強く頷いた。ルイユ宰相にとってグエスは、信頼できる部下であるのと同時に、可愛い身内でもあるのだろう。
すると、そこへ。ひとりの女性がアゼリアに声をかけてきた。
「ご機嫌よう、アゼリア嬢」
「デジレ伯爵夫人。いえ、ダンソル伯爵とお呼びした方がよろしいでしょうか?」
今日の婚約式を取りまとめた儀典官、クリスティアナ・デジレ・ダンソル伯爵。ダンソル伯爵位と家業を継いだ女性。アゼリアが彼女と知り合ったのは、つい最近のことだ。けれど、爵位を継ぎ、家業を立て直し、儀典官も務める彼女の姿に、憧れと尊敬と、少しの負い目を感じていた。
だからアゼリアは彼女に最大限の礼を取り、お辞儀をしながらどう呼べばよいのかを聞く。
彼女の答えは、こうだ。
「いいえ、アゼリア嬢には是非、クリスティアナと呼んで欲しいわ」
と、クリスティアナはそう言って柔らかく目を細めて微笑んだ。アゼリアはその優しい微笑みに思わず見惚れてしまう。大人の余裕って、こういうことかしら。なんて、素敵な。そうだわ、あのことを聞いてみようかしら、などと頭の片隅で考えながら挨拶をする。
「では、クリスティアナ様。……本日はお疲れ様でございました」
「ありがとう。次はアゼリア嬢とガフ補佐官の番ですね。日取りは決まりましたか?」
「できるだけ早く、と考えているのですが……クリスティアナ様、つかぬことをお聞きしますが、過去、婚約式と結婚式を同時にお」
「アゼリア・モルガン公爵令嬢!」
アゼリアの質問を遮ったのは、見知らぬ若い声。
ああ、嫌な予感がする。こうやって言葉を遮られていいことがあった試しなんて、ない。
アゼリアの頭はフル回転だ。そもそも
それに、アゼリアはいまだグエスと婚約式を挙げてはいないけれど、国王公認の仲である、と国中に知られている。これは、叔父であるジラルドがモルガン家の『雲雀』を使って噂を広めたから。
だから、準婚約中であるアゼリアに声をかけるだなんて、そんな愚かな真似をする人間は、国内には、いないはず。
——では、誰だ。
人混みを掻き分けながら、アゼリアの元へと突き進んでくるあの男は、一体誰だ。
「アゼリア嬢、ようやくお目にかかれた」
あらわれた男はそう言うと、アゼリアの前で
肩まで伸ばした砂色の髪、色気が
まさか、まさか! アゼリアの赤い眼がわずかばかり見張った。
「……あなた、は」
アゼリアの声は、カラカラに
アゼリアに
取られて握られてしまった手を、振り払いたい。けれど、公爵令嬢であるアゼリアには、それができなかった。
そして、もしかしたらこの男が、こうして跪いているのは、『鷺』に持たせた餌に喰いついたからなのかもしれない、これはチャンスなのかもしれない、と。そう一瞬でも思ってしまったから、アゼリアは男の手を振り払うことを躊躇ったのだ。
「アゼリア嬢、なんて麗しい。話には聞いておりましたが、輝くような美貌だ」
男はそう言って、地味な化粧とドレスを纏うアゼリアの手に、そっと口づけようとして——できなかった。冷徹な顔をしたグエスが、素早くその手を払い、阻止したから。
「挨拶をされるのは結構ですが、リアの許可なく触れないでいただきたい」
「ん? なんだ、アゼリア嬢の
不機嫌に顔を
その隙を狙ったのか、男が改めてアゼリアの手を取って、その手の甲にくちづけをした。そして——。
「アゼリア・モルガン公爵令嬢。エネルゲイア王国第二王子ジュダ・エネルゲイアが申し上げる。……僕と結婚していただけないだろうか?」
アゼリアへの要注意人物による3度目の求婚は、なんと公衆の面前で行われてしまった。
そう、
それは、つまり、ジュダが、オルガン王家の血をわずかでも引いていることを意味するのである。
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