第30話 一方その頃、王城で

 馬車の中でアゼリアに愛と忠誠とを誓ってくちづけを(指に)してから、5日が経過したある日。グエスは王城にて、通常業務、すなわち、宰相補佐官としての仕事をこなしていた。


 脇に抱えている書類束を人事院に提出すれば、少し遅い昼食をとることができるだろう。と思いながら、グエスは王城の下層階へ向かう階段を足早に駆け降りていた。


 グエスが昼食時間を犠牲にしてまで取り組んでいたのは、デジレ伯爵夫人を儀典官として迎え入れるためのアレやコレのため。ひいては、アゼリアとの婚約式のためである。


 完全に仕事を私物化しているが、上司である宰相閣下が「せっかく君が婚約できたのだから、お祝いだよ、お祝い」と言って割り振ってくれたのだから、やはり私事ではなく、仕事なのであった。

 けれど、だ。


「……アゼリア嬢……会いたい……」


 階段を降り切ったところで、グエスはそう呟いた。思わず口にでてしまった。

 舌の上に乗せたアゼリアの名前は、音の響きだけだというのに、どこか甘い。とろけるような甘美さと、頭の奥が痺れるような危険な味がする。


 アゼリアとは、もう5日も会えていない。今日も会えなければ、6日目に突入だ。


 この5日間で、さまざまなことがあった。まず、ルイユ宰相と受けることになってしまったジョルジオからの引き継ぎ講義は、予定期間の3日前倒しで一昨日おととい終了した。結局グエスは、4日間しか講義を受けることができなかった。けれど、ルイユ宰相は、わずかばかりの時間でも仲間ができた、と喜んでいたから、まあ、よしとしよう。


 そしてその翌日、つまり、昨日。タイミングがいいのか、悪いのか。貴族牢で罪人の脱走騒動があったらしい。ルイユ宰相は頭を抱えながらも、「引き継ぎが終わったあとでよかったですね。終えていなければ、貴族牢への出入りが厳しく制限されていたでしょうから」とため息を吐いていた。


 そういうことを雑談はなしたいのに、アゼリアと顔を合わせることができない。姿を見ることさえ、できていない。左手の薬指で輝く赤い石が飾られた指輪だけが、今のグエスの拠り所だ。


 最後にアゼリアの顔を見て話したのは、貴族牢にジョルジオを訪ねて行った日の夜。あの日、公爵邸から帰る際、ほんの少し話ただけ。あのときは、アゼリアと顔を合わせることができない日がくるなんて、少しも思っていなかった。


 あの日以降、グエスは相変わらず公爵邸に通ってダライアスからの講義を受けている。それにも関わらず、アゼリアに面会することができないのだ。

 だから、余計に辛い。


 たった5日だ。と、グエスは自分の自制心に呼びかけた。たった5日だ。アゼリアとこうして日々を過ごすようになるまでは、何年も何年も待ったじゃないか、と。


 けれど、だ。けれど、もう、出会ってしまった。触れ合える距離まで近づいてしまったし、なんなら婚約内定だってしている。そんな状態で、アゼリアの気配すら感じ取れないなんて、無理だ。無理すぎる。逆に何年も待てた過去の自分を尊敬する。


「……あの日言っていた、『鷺』が関係しているのだろうが……」


 と、グエスは冷静さを取り戻すために、アゼリアとの最後の会話を思いだすことにした。

 モルガン公爵邸から帰るとき、アゼリアは言っていた。『鷺』を一羽、エネルゲイアに向けて放つ予定だ、と。


 あのときアゼリアは、どんな顔をしていた? 暗い顔ではなかったか。深い真紅の双眸は、わっていなかったか。なにか重大なことを決意したような顔をしていなかったか。


 いずれ話してくれるのだろう、とあのときは流してしまったけれど、もしかして、そうすべきではなかったのかもしれない。


 グエスは、アゼリアを信頼している、とても深く。けれど、信頼しているからといって声をかけず、そのままにしてしまうのは、もう、信頼ではない。それは放置だ。


「……自分が間違ってしまったのか」


 グエスは深く深くため息を吐いた。自責の念にとらわれて、人事院へ向かうはずの足が、ピタリと止まる。いつの間にか胸に抱えていた書類が重い。たった数枚の書類でしかないのに。

 と、そのときだった。


「おい、今日は俺の花嫁を連れていないのか? まったく使えない奴だな」


 今、一番出会いたくない人物に、グエスは出会い頭に侮辱されていた。

 けれど。いや、だからこそ、グエスは暗く沈んでいた自分の心に、冷たく凍えた火が灯るのを感じた。


「……オルガネラ卿。暇なのですか? あいにく自分は仕事が忙しいので、無駄話に付き合っている時間など、ないのですが」

「俺の話が無駄、だと?」


 おそらくオルガネラ卿は、ただ反射で言葉を返しているだけ。グエスの言葉を理解して激怒しているのではなく、グエスが辛辣な言葉を投げかけた、という状況に対して怒っている。

 だからオルガネラ卿は、グエスの氷のような態度にひるみもせずに、眉を吊り上げ睨みつけてくる。


「お前、俺の話が無駄だと言ったのか!?」

「無駄では? 自分より下位だと思っている人間を貶めることでしか優位性を保てない、自分本位で相手の心情などお構いなし、強引な態度が男らしさであると勘違いしている。加えて、感情的に怒鳴ることしかできない。そのような方との相互理解は難しい。話が通じない話をするのは、お互いに無駄では?」

「貴様ッ!」


 わなわなとくちびるを震わせて睨むオルガネラ卿は、全然これっぽっちも怖くはなかった。そもそもはじめから、この男に恐怖や畏怖を感じたことなど、ない。


 爵位差を盾にいいように言われても、過去を穿ほじくり返されてけなされても、なにひとつとして怖いものなどなかった。


 隣にいたアゼリアは、もう、なにもかもを知っているだろうし、承知しているだろうから。モルガン家だって、そう。そういう信頼があったから、グエスはなんとも思わなかった。

 だからグエスは極めて冷静に、けれど表面上は苛立っているように見せかけて言葉をつむぐ。


「おや、もう語彙が尽きましたか? ……それではもう、失礼してもよろしいか?」


 そう言って、一歩足を踏みだそうともした。けれど、だ。


「クソッ、どこへ行く! おい、平民、俺は王族の血を引いているんだぞ!?」


 オルガネラ卿は駄々をこねる子供みたいにグエスの肩を掴み、その場に引き留めた。すべて、グエスの思惑通りに、だ。

 アゼリアも分析していたけれど、オルガネラ卿が単純で幼い思考をしていることは、グエスもすでに理解していた。挑発して感情的に揺さぶれば、漏らしてはならない秘密をポロッとこぼすだろう、ということも。


 だからグエスは、自分の本心を、言ってやりたいことを、オルガネラ卿が食いつきそうな簡単な言葉に変換してあおり立てる。


「それが、なにか? 自分を従えることができるのは、アゼリア嬢だけですので」

「は、はは! 女の尻に敷かれて善がるタイプかよ! これは傑作だな! 俺ならあの花嫁を逆に躾けて組み敷いてやるけどな?」


 けれど、この発言だけは、許せなかった。どうしても、駄目だった。

 グエスは完全に目が据わった状態で、オルガネラ卿を煽るための言葉を投げつける。


「……ああ、失礼。そういえば子爵は、アゼリア嬢から名前呼びの許可をいただけていませんでしたね。だからそのような呼び方なのですか。あの麗しい名を呼べないとは……不幸ですね。けれど、わきまえておられるのは、よいことです」

「おい、平民、さっきからなんなんだよ! この俺が、尊い血を引く俺様が、花嫁を譲れと言っているんだ。黙って譲れよ!」


「アゼリア嬢を貶めることだけはしないところだけは、紳士的で評価できますがね。そこは称賛に値しますが、それだけです。もっとも、アゼリア嬢を貶めるのならば、自分ももう黙っていませんが。まったく……同じ言語を話していても、話が通じない方とは話になりません」


 言って、グエスはオルガネラ卿の存在をまるっと無視して歩きだす。まるで、もう話は済んだ、と一方的に告げるように。

 だからオルガネラ卿は、グエスを引き止めるために、グエスがたくらんだ通りの言葉を放った。


「おい、俺の話を聞け、聞けって! いいか、俺にはなあ、隣国エネルゲイアの王家もついているんだ! 他国エネルゲイアの王も、女王も、俺が正統だと支持しているんだぞ!? それを、それを……! たかが花嫁ひとりくらい、俺に譲れよ!」


 オルガネラ卿の告白に、胸に抱えていた書類を持ち直し、脇へ抱え直したグエスがゆっくりと振り返る。

 努めて、冷静に。そう自制していたはずの、タガが外れた。


「それが、なんです? 自分はアゼリア嬢を愛している。譲れと言われて譲るような、軽い愛ではない!」


 廊下に響き渡る大音声で、グエスが叫ぶ。その大声に驚いたのか、怯んだのか。オルガネラ卿は、口も動きもすべて止めていた。


 その姿を、ようやく静かになったな、と冷めた目で見たグエスは、再びオルガネラ卿に背を向けて目的地である人事院へと向かう。

 少し感情的になってしまったけれど、オルガネラ卿から隣国の関与を引きだせたのだから、まあ、よしとしよう。


 ちなみに、ノアベルトにもらっていたオルガネラ卿強制退去用の証書を使って衛兵を呼んでおいたから、オルガネラ卿は速やかに王城から退去させられるであろう。



 そういうわけで、人事院へと書類を提出したグエスは、昼食を後回しにして取り急ぎ書類保管庫へと向かっていた。

 途中、同僚や先輩たちに廊下での大告白について揶揄からかわれもしたけれど、適当に肯定しながら、ものの数分で書類保管庫へとたどり着く。


 この場所には、アレがある。

 その存在を知ったのは、前回の事件のときだ。アゼリアとともに訪れて、アレの存在をはじめて知った。

 ——アレ。すなわち、王城回想録。王城内でのあらゆる会話や交流が、すべて自動で記録される魔道具だ。


「王城回想録はどこだ? 前回は、赤地の布張り表紙に金糸の刺繍が施された本だったが……」


 グエスは魔力を放ち走査スキャンしながら、膨大な量の書類や書物で埋められた棚で作られた狭い通路をゆく。

 王城回想録は、書物の形をした魔力溜まりだ。そして、常に毎回、装丁が違う。前回は赤い表紙に金糸の刺繍がされた仰々しい本だったけれど、今回も同じとは限らない。


 いくつかの通路を進んだところで、前方を走査スキャンしていた魔力に手応えを感じた。背表紙に指で触れると、ピリピリとした刺激が走る。

 

「これか……!」


 グエスは、反応を示した一冊の薄い本を手に取った。表紙は深い緑色、厚さはさほどない。本というよりは、小冊子と言ったほうが正しいかもしれない薄さだ。

 一見薄く見えるこの本には、膨大な量の魔力が溜まっている。この魔力溜まりに記された記録を、グエスは欲していた。


 けれど、この場に、アゼリアは、いない。

 王城回想録の記録を参照するには、鍵となる血が必要だ。血といっても血液を必要とするわけではないらしい。確かに、あのときアゼリアは、この王城回想録を起動させる際に流血したりはしていなかった。


 しかし、なんであっても抜け道はある。血は、結局、血なのである。

 グエスはアゼリアから貰った指輪に一度、そっとくちづけた。赤い石は、アゼリアの瞳。金の台座は、アゼリアの髪。そして、この指輪には、アゼリアの血と魔力とが封じられている。だから、これはもう、アゼリアと変わりない。魔術的な代替品として成立してしまう。


 彼女の美しくも愛らしい微笑みを思い浮かべながら、グエスは指輪に魔力を流し、魔力溜まりと同調させる。

 そうして、指輪がまった左手の手のひらを本の表紙に置くと、魔術式を編み、そちらの方にも魔力をこめた。この魔術式は、やり方は、モルガン公爵から受けた講義の魔術の章、第三巻六章に記載されていたものである。


 すると、だ。

 ヴン、と虫の羽音のような音が一瞬だけして、王城回想録が起動した。成功だ。あとは、記録の中から先程のオルガネラ卿とのやり取りを抽出するだけ。

 グエスは王城回想録へと流す魔力の勢いを、さらに強めた。


「……ぅ、ぐ……っ、……ッ」


 記録の参照と抽出には繊細な魔力操作が求められる。ただでさえグエスは魔力溜まりを覗くことが苦手なのに、高度な魔力の出力と操作とをこなさなければならない。

 そして、王城回想録に刻まれている記録は、時系列に並んでいるわけではない。だから、膨大な量の情報から、目的の記録を検索しなければならなかった。


 その作業は、どうしようもなく、苦痛をしょうじさせた。

 頭の中をぐちゃぐちゃに掻き乱される。腹や胸もムカムカしてくるし、かと思えば、背筋が急に寒くなったり、額に汗が浮きでたりもした。昼食を食べていなくてよかった、とグエスは胸の内で他人事のように笑う。


 こうなることは、はじめからわかっていた。けれどグエスは、必死に魔力を操作して、目的の記録を検索し続ける。

 すべては、アゼリアのため。アゼリアが守ろうとしているオルガンティア王国のため。その想いが、アゼリアへの愛が、倒れそうなグエスをどうにかこうにか支えていた。



 そうして数時間後。

 

「ふ……、ぅ……、……、……よし」


 ようやく目当ての記録を見つけたグエスは、その記録を、記録映像として抽出し、持ちだすことに成功した。手の中には、鈍く光を放つ紫色の石。魔道具化した記録映像だ。


 その姿は、顔は、酷くボロボロだったけれど、達成感に満ち溢れた爽やかさでとても美しく輝いていた。


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