第29話 心を塗りつぶす憎悪

 顔立ちのいいグエス様の上目遣いって、凶器じゃない? という思いを共有できる相手がいないアゼリアは、抱えていたクッションをぼこすか叩いて行き場のない思いを発散させていた。


 共有できる相手がいたらいたで、きっと荒れるのだろうけれど。とも思いながら、ジラルドの部屋のソファに座っている。

 グエスにエスコートされてモルガン公爵邸へ帰還したアゼリアの理性と知性が回復したのは、数分前のこと。回復して真っ先に訪ねたのが、叔父ジラルドの部屋だった。


「……アゼリア、荒れているようだけど、大丈夫かい?」 

「ええ、大丈夫。問題ありません。なにもないから聞かないで!」


 今頃、別室で父ダライアスの講義を受けているであろうグエスを思い浮かべて、アゼリアは失敗した。

 理性が飛ぶ直前に見たグエスの姿を、行動を、思いだしてしまったのだ。


 途端に顔が赤くなる。熱だってありそう。動悸が早いのは、なにかの病気かもしれない。だなんて、異常の原因がすでにわかっているのに、理由をつけて茶化してやり過ごす。


 しばらく経って、乱れた胸の内と頭の中に平穏が訪れてから、アゼリアはゴホン、と咳払いをして話を変えた。変えた、というよりは、ジラルドを訪ねた本題に入る。


「ジラルド叔父様。ジョルジオ氏の今後の処遇について、いい考えがあるのだけれど」

「なにか聞きだせたのかい?」


 切り替えの早いアゼリアに慣れているジラルドは、すぐにアゼリアの対面に座って話を聞く体勢を整えた。片膝に肘をつき、頬杖をつく姿は、なにもかも知っているような雰囲気をかもしだしている。


 アゼリアは一瞬言葉を呑んで、けれどすぐに気圧けおされまいと淑女の微笑みを顔に貼りつけた。


「あら、その顔。もうわかっていらっしゃるのでは?」

「うん。わかってはいるけれどね、可愛い姪の考えも聞きたいんだよ」

「はいはい、わかりました」


 ケラケラと笑うジラルドに、アゼリアは呆れたようにため息をひとつ吐いた。


 そして、深呼吸をひとつ。吐いて、吸って、それから背筋を腰から伸ばし、抱えていたクッションを脇へ置く。お腹の前で手を組んだアゼリアは、ジョルジオとの会話で得た情報と自分の推測とを合わせて報告をした。


「ジョルジオ氏をたぶらかしたのは、隣国エネルゲイアの者です。間者スパイはジョルジオ氏を言葉巧みに誘導し、最終的に三盟約を破約に追いこむ手段をとったことから、おそらく、あの悪女と繋がっていると思われます」


 そう告げて、アゼリアはさらに補足した。


「そして、グレンロイ・オルガネラの背後にも、同じようなやからが控えているかと。……こちらは推測だけですが」


 アゼリアは、極力冷静に努めて報告をした。個人的な感情をはいし、客観的な情報だけ。それでも、エネルゲイアが絡むとわかってしまった今では、この冷静さを持ち続ける自信がない。


 隣国エネルゲイアには、悪女がいる。

 悪女オクタヴィア。アゼリアの兄が失われる要因となった女。


 あの悪女のせいで、アゼリアの兄マクスウェルは帰らぬひととなってしまった。アゼリアが6歳、マクスウェルは11歳の頃であった。


 幼いながらも天賦の才を発揮していたマクスウェルだったが、運が悪かった。他国で『鴉』とともにモルガン家の仕事をしているときに、悪女の息がかかった手の者に連れ去られ、それきり。


 必ず帰ってくる、という約束が守られることはなかった。マクスウェルを示すなにもかもすべて、なにひとつとして返ってこなかった。帰ってきたのは、兄の配下の『鴉』だけ。

 必ず、あの悪女に制裁する。決して許しはしない。


 いつの間にかアゼリアは、思い切り奥歯を噛み締めていた。ギリギリと響く音が、ジラルドまで聞こえるほどに。


 アゼリアは、自分が今、どのような顔をしているかなんて、わからなかった。わかることといえば、グエスが同席していなくてよかった、という思いだけ。

 きっと、グエスに見せられないほど醜く歪んでいただろうから。


「あの悪女を引き摺りだせるなら、わたくしを囮にしても構いません。モルガン家の後継者であれば、いい餌になるでしょう。わたくしの情報をジョルジオ氏に持たせれば……」

「再び食いつく、と? 確かにその確率は高い。が、その案はグエス・ガフ君に相談したのかい?」


 ジラルドに言われてはじめてアゼリアは気がついた。

 そういえば、グエス様にお兄様のことは話してないわ。ダメね、グエス様には話していないことばかりだわ、と自虐的に自嘲してアゼリアは首を振った。縦ではなく、横へと。


「いいえ、なぜです? 相談したら、渋い顔をしながらも賛同してくれる、とわかっているのに、なぜ相談の必要が?」


 そう言ったアゼリアの脳裏には、アゼリアの手を取りくちづけたグエスの顔はなかった。浮かぶのは、表情を黒く塗りつぶされた妄想上の都合のいいグエスだけ。


 ジラルドがなにか言いたげに眉根を寄せているのを目で見てはいるけれど、今のアゼリアはその真意を汲み取れない。

 それほど盲目的に、アゼリアは悪女オクタヴィアを憎んでいた。


「……アゼリア、それでいいのかい?」

「構いません。そうするのが一番効率がよい、と判断しました」


 感情の籠らない冷淡な声がアゼリアの喉を震わせた。頭は少しも回っていない。感情的に判断している、ということにさえ、アゼリアは気づいていない。


 それからふた呼吸分の沈黙。アゼリアは、もうすべて言い尽くしたというように口を閉じたまま。時計の針が秒を刻む音だけが聞こえている。


「そうか……まあ、検討するよ」


 そういうわけで、神妙な面持ちのジラルドが吐いた長いため息とともに、この話は終わったのであった。



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