第二部 オルガンティア王国オルガネラ子爵編

第22話 悪夢は去りて再び巡る

「なぜアゼリアの婚約式の日取りが未定なのです!」


 オルガンティア王国王都ティアーの郊外。

 モルガン公爵邸のとある一室で、高貴なる夫人が長机テーブルの天板を平手打ちしながら、そう言った。いや、正直にいうと、言う、どころの声量ではなかった。ほとんど、叫ぶ、に近かった。


 夫人の名前は、アガタ・モルガン。ダライアス・モルガン公爵の妻で、アゼリア・モルガン公爵令嬢の母である。

 アガタは酷く興奮した様子でアゼリアに詰め寄り、真剣な眼差しで口早に言った。


「早急に婚約してしまいなさい! また訳のわからないやからに婚姻請求でもされたら、たまったものではないわ!」


 訳のわからないやからというのは、おそらくノアベルト殿下のことであろう。アガタの中では、結果的に被害者であった洗脳王子も、そこら辺のやから扱いである。なんという雑さ。


 公の場でなくて、よかった。と、母の勢いに押されながら、アゼリアは思う。母は時々、苛辣からつだ。一度火がついた花火のように、火薬が尽きるまで激しく燃える。


「お母様……、落ち着いて……」

「アゼリア! なぜ、そんなにも落ち着いていられるのです!? 自分のことだというのに、どうしてそう、呑気にしていられるの!」

「それは、そうなのですけれど……」


 アゼリアは、自分の婚約式が日程も決まらぬまま延期となっていることに、思うところがなかったわけではない。けれど、母が激烈に怒る様を見て、逆に冷静でいることができた。


 だから、拳ひとつ分という適切な距離を取って座るグエス・ガフ宰相補佐官の様子を、チラリと窺う余裕も持てた。


 隣のグエスは、苛烈な母をどう思うだろうか。家族になるのだし、できれば母を嫌いにならないでいてくれればいいのだけれど。アゼリアはグエスの顔色を窺うように、横顔をチラ見する。


 鼻梁びりょうが高く、整った顔立ち。琥珀色の眼を捕らえているようにも見える長い睫毛。髪はすっきりと短く、肥沃な大地を思わせる焦げ茶の髪。


 はあ、待って。やっぱり素敵すぎ。どうしてか、苛立つ母のことなど、どうでもよくなってしまう。物怖じせずに真っ直ぐ前を見つめるグエスの姿勢のよさに、アゼリアは自分の胸の内が掻き乱されてゆく気配を感じ取った。


 徐々に上昇する心拍、浅くなる呼吸。背中にじんわり汗が滲んで、けれど、嫌な感じは全然しない。頭の芯がほんわり緩んで、気を抜くとすぐに機能しなくなる。


 母の焦燥は、もっともだ。けれど、今、隣にはグエスがいるのだから、別にいいんじゃない? と、頭の悪い見本のような回答をしてしまいそうになる。


 思考がゆるふわになってしまったアゼリアが、うっかり口を滑らせる前に母の暴走を止めたのは、アガタの夫でありアゼリアの父であるダライアス・モルガン公爵だった。


「来月早々に婚約式を行うのは、現実的ではないよ、アガタ」


 ナイスアシスト、お父様! と、アゼリアは心の中で拳をグッと握りしめた。荒れる母を止められるのは、父しかいない。

 父の穏やかな声が、たける母の心をいくらかしずめた。


「あら、あなた。それはどういうこと?」

「アゼリアとグエス君とで、王国の破滅をたくら企んだ儀典官を貴族牢送りにしたからだよ」

「そ。つまり、婚約式を執り行う儀典官が不在ってこと。この国では、公爵家以上の貴族が行う式典や契約宣誓なんかは、儀典官が行うことになっているからさ、こればかりは仕方がない」


 父公爵の言葉に付け足すように言ったのは、アゼリアの叔父であるジラルドだ。ジラルド・モルガン・ジオマール伯爵。父ダライアスの年の離れた弟で、基本的には領地に引き篭ってアレやコレやと忙しくしている。


 叔父がモルガン公爵邸にいるのは、アゼリアの婚約者であるグエスを見に来たから。あの堅物アゼリアが、ついに! とかなんとか失礼なことを言っていたから、きっと、そう。


 堅物って、なに。わたくしは、どこもかしこも柔らかい貴族令嬢なのだけれど。と、アゼリアが叔父との再会を思いだして憮然としていると、父や叔父の説明では納得できなかったらしい母が、青緑ターコイズ色の美しい目をスッと細めた。


「不在といっても、数日か数週間のことでしょう? 後任の儀典官はどなた? 決まっているのではなくて?」


 アガタは麗しい美貌を冷たく歪め、今度はダライアスに詰め寄った。問い詰められているというのに、父の顔はわずかばかり緩んでいる。


 いや、それ、どうなの。いくら母を愛しているからって、とアゼリアは思って、けれどグエスに同じようにされたら? と考える。


 考えたアゼリアは、秒で父を許した。仕方がない、だって、仕方がない。愛するひとの顔面力が強いのが、いけない。イケてる顔面、つまり、イケメンなのだから、仕方のないこと。


 アゼリアが淑女らしい微笑みを浮かべながら、そんな風に意識を飛ばしている間に、父と母は会話を先へと進めていた。


「はは。それがね、決まっていないんだな! というか、成り手がいない。ダンソル家は腐っても元宰相職を務めていた家門だからね、祭事なんかも詳しかったんだけど。アガタ、数世代前のアレについては、知っているね?」


「ええ、もちろんです。政務を担当する上位貴族の方たちのほとんどが更迭されたり、追放されたり、廃嫡されたり——建国以来、もっとも王国が混乱していた暗黒の混乱期だった、と」

「そう、そのおかげでダンソル家並に王国の祭事やなにやらに詳しい家門がね、公爵家くらいしかいなくなってしまったわけだよ」


 儀典官は、王国の祭事や式典行事を司る。場合によっては、国王を補佐し、外国の要人を迎える際の公式行事や接待なども担当するが、オルガンティア王国の暗黒の混乱期以降、国王の補佐や外務的な仕事からは外されてしまった。


 裏か表かでいえば、どちらかというと国政の裏方に所属する。失脚したダンソル卿は、それが気に食わなかったのだろう。


「我々が儀典官になるわけにはいかないし、他の公爵家にお願いしたとしても、気位の高い方たちばかりだからね……」

「それで後継が決まっていない、というわけですか……」


 母がため息を吐いて頷いた。渋々理解した、というような様子ではあったけれど。


「そういうこと。さらに言うと、上級儀典官はダンソル一族で固められていたらしくてね、婚約式を執り行える人間が育っていなかった、というわけだ」

「だから、ノアベルト殿下とレグザンスカ公爵令嬢との婚約式とお披露目も、延期になったのですって」


 ダライアスに補足するような発言をしたのは、アゼリアだ。アゼリアは言いながら、洗脳時と普段とではまるで様子が異なった第一王子を思いだして、どうしてか背筋がゾクリと凍るような嫌な気配を感じ取る。


 もう終わったことなのに、と思いながら、ざわつく胸の内を深呼吸をして整えていると、アガタがようやく諦めたように、肩を落として深く息を吐いていた。


「……まったく、困った国ね。ちょっと危機管理がなっていないんじゃない?」


 アゼリアの母アガタは、オルガンティア王国の人間ではない。隣国はドロティアの上位貴族の娘であった。父ダライアスがドロティアへ仕事で赴いた際に、見初めたのだとか。


 駆け落ち同然だったらしいけれど、それは母の家がオルガンティア王国でいうモルガン家のような立ち位置の家だったから。似たもの同士で結ばれたのだ、といつだったかに笑っていた両親の顔をアゼリアは思いだしていた。


「まあね、だから我々がいるわけでさ。だからといって、我々は自国の政治や人事に口だしできる立場にないのだけれど」


 と。茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせたダライアスに、アガタが降参したように微笑んだ。これでこの話は、ひと段落ついた、ということなのだろう。


 だなんて思っていると、アゼリアの隣で大人しく黙っていたグエスが、ここでそっと挙手をした。控えめに肘を曲げた状態で。


「……すみません、いいですか」

「うん? なんだね、グエス・ガフ」


 対応したのは、叔父ジラルドだった。ジラルドはT P Oをわきまえながら、誰にも彼にも砕けた調子で接するけれど、自分基準で認めた人間しか名前で呼ばない。認めていない人間は、皆等しくフルネーム呼びだ。


 グエス様はどう思うかしら。とアゼリアは気がかりであったけれど、気にしているのはアゼリアだけのようだった。

 グエスは表情をまったく変えずに挙手した手を下ろすと、ジラルドと向き合うように身体の位置をずらして話を続けた。


「儀典官に女性の方を推薦するのは……貴族典範上、問題ないと解釈しているのですが」

「おや。女性の候補者がいるのかい?」

「はい。宰相閣下が、その方が適任だ、とおっしゃっていましたが……」


「女性だから、と? ……そうだね、少し難しいかもしれない。儀典官は王国の祭事を担う部署だから。慣例主義がちな貴族社会に受け入れてもらえるか、というと……」

「そうですか……やはり、難しいのですね」


 グエスはそう言うと、そっと静かに目を伏せた。シュンとする姿が新鮮で、なんとも可愛い。グエス様が後任の儀典官について気にかけてくれていたのだ、と思うと、アゼリアの胸が歓喜に震えた。


 いつになったら婚約式が行えるのかわからない現状を、不満に思っているのはアゼリアだけではなかったのだ。

 やはり、なんとしてでも自分の伴侶に迎え入れなければ。項垂れるグエスの隣で、アゼリアがなにか声をかけようと口を開いた——そのときだった。


「ダライアス様、皆さま。お話の途中で申し訳ありません。早急に対処すべき事案が発生いたしました」


 部屋の扉が勢いよく開き、青い顔をした執事アルフレドが慌てた様子で入ってくる。その手には、一通の手紙。


 紫色の封蝋が押されたその手紙に、アゼリアの背筋がゾクリと冷える。封蝋に紫を使うのは、王族所縁ゆかりのものしかいない。


「アルフレド、なにが起こった?」

「まずはこちらを拝見ください」


 ダライアスはアルフレドから手紙を受け取ると、封蝋と刻印された紋章とを嫌そうに睨んだ。そうして、すぐに封を開け、中身を確認しだす。


 手紙を1枚、2枚。素早く目を通しながら手紙を読む父公爵の姿を、アゼリアはグエスとともに見守った。


「……差出人は……グレンロイ・オルガネラ?」


 ダライアスが、ボソリと呟く。その名前を、アゼリアは知っている。遠くのほうで、アガタとジラルドが息を呑む音が聞こえる。


「お父様、どうかされたの? その手紙にはなにが?」

「アゼリア……グエス君もこちらに来なさい。そしてこれを確認するように」


 父公爵に手招きされ、手紙を確認したアゼリアは、目の前が暗く落ちこむようだった。


 アゼリアの嫌な予感が当たってしまった。隣にグエスがいて支えてくれなければ、きっと、以前のように激昂して怒鳴り散らしていただろう。


 モルガン公爵家に届けられた手紙。

 それは、かつて暗黒の混乱期にて失脚した王太子の子孫である、グレンロイ・オルガネラ子爵からの、一方的な婚姻請求であった——。

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