第20話 儀典と宰相と過去と檸檬

「グエス、君を応接室に連れて行くと決めたときには、こんなことになるだなんて、思いもよらなかったよね」


 グエス・ガフ宰相補佐官がいつものように登城し、執務室に出仕したところで、すでに着席していたクロイス・ルイユ宰相閣下がそう言った。


 ルイユ宰相に、アゼリア嬢と婚約することが内定した、と伝えたのは数日前。なぜ、今更そんなことをいうのか、とグエスは疑問に思いながらも、宰相補佐官らしく無表情ポーカーフェイスを貫いた。


 ルイユ宰相は、物腰穏やかで柔和な笑みを絶やさず浮かべているひとだけれど、そのじつ、腹の中は真っ黒だ。

 策略、謀略はお手のもの。知略、暴略もいとわない。ガフ家を使って諜報、工作、噂の流布なども躊躇わずやる。


 そういう表裏ひょうりを知っているグエスだから、ルイユ宰相が次になにを言うのか、ただ待った。部下は上司の言葉指示を待つことも仕事のうちなので。


 それに、ルイユ宰相が急に砕けた口調で話しだすときは、要警戒体制に入らなければならないことを、グエスは身を持って知っている。


 グエスの緊張した面持ちと身体の強ばりに気づいているのか、いないのか。ルイユ宰相は口の端をニヤリと持ち上げて、執務机デスクに肘をついた。

 そうして、顔の前で指を組み、こう告げた。


「さて、君の上司として、なにか贈り物をするべきなんだろうけど、まだ決まっていません。……そういえば、後任の儀典官がまだ決まっていませんでしたね」


 と。なにやら深刻な表情を浮かべて口にしたのは、そんなことだった。

 あの事件のあと、ダンソル男爵が爵位を剥奪されて貴族ではなくなり、ただのジョルジオとなった。ダンソル家は取り潰しとなり、ジョルジオ氏がになっていた儀典官の仕事が、宙に浮いてしまったのだ。


 それと、これとに、一体、なんの関係が? グエスは頭の中を疑問符で埋め尽くしながら、ボソリと呟いた。


「儀典官……の後任、ですか」

「おや、その顔はピンときていませんね。儀典官の不在は、グエスとアゼリア嬢との婚約式の延期を意味しているのに。王族や公爵家のような最高位貴族は、儀典官が婚約式だとか結婚式だとかを執り行う決まりになっていますから」

「ああ、貴族典範にそんなことが書かれていました」


 グエスは、数日前からはじまったモルガン公爵の講義授業で聞いた内容を思いだしながら、小さくコクリと頷いた。

 なんと、あの事件によって結ばれたアゼリアとの縁だけれど、あの事件の結果が自分とアゼリアとの婚約を阻害しているなんて、思いもしなかった。


 マジかよ、嘘だろ。アゼリア嬢は婚約式を早々にあげてしまいたい、と希望しているのに、それが叶わない、だと? クソ、あのジョルジオ氏クソオヤジのせいでアゼリア嬢が悲しむ……だが、あのジョルジオ氏クソオヤジが事件を起こしたから、アゼリア嬢の前にでることができたワケで……。


 グエスは無表情ポーカーフェイスを維持しながら、秒でそこまで考えて、ひとり悶々と葛藤しはじめた。

 その悶着は、ひと呼吸めには苛立ちとなり、ふた呼吸めには冷静さと論理的思考を取り戻し、グエスの眉間に深い皺を刻みつけ、ルイユ宰相への疑問となって口から飛びだした。


「待ってください、なぜ、ジョルジオ氏が爵位を剥奪されて貴族牢へぶちこ……牢に投獄されただけで、儀典官の仕事が回らなくなるのです? 後任が決まらないのは、おかしいのでは?」


 というグエスの疑問に、ルイユ宰相が細い目を更に細めて穏やかに返してゆく。


「後任が決まっていないのは、ダンソル家がその地位を独占していたから。要するに、すぐに引き継げる人間がいないのです」

「……閣下のように、ジョルジオ氏に引き継ぎをしてもらえばよいのでは?」


「わざわざ貴族牢へ赴いて? 無理ですよ、表向きにはダンソル卿は病気で引退したことになっているし、彼の一族もそれらしい理由で解雇されていますから。裏の事情を知る人間しか、貴族牢の中にいるジョルジオ氏には会えません。そして、そんな人間は限られます」


 ルイユ宰相はそこで一度言葉を区切り、グエスの思考を探るようにジッと眼を見る。一秒、二秒。そうして三秒が過ぎる前に、ふ、と息を抜くように笑った。


「ただ……モルガン公爵家を使えば、話は違ってくるでしょう」

「公爵家を、使う? 物騒な物言いですが、アゼリア嬢に害があるなら却下しますが?」


「害はありませんよ、害は、ね。けれど、心情的な問題があるかもしれません。候補者は、デジレ侯爵家の夫人。実は見識豊かな歴史家なんですよ。専門は、王国の各種儀式や儀礼について。彼女の右にでる者はいません」


「……デジレ侯爵ではなく、夫人……なのですか?」

「そう。そこですよね、やはり。夫人の功績も女性だからか、あまり知られていませんし。心情的に問題がないのなら、デジレ夫人がもっとも適任なのですが。……もう少し、候補を探してみましょうかね……」


 ルイユ宰相はそう言うと、肩の力を抜いて椅子の背もたれに身体を預けるよう持たれかかった。そうして、物思いにふけるように天井をぼんやりと見つめだす。


 これで話は終わりか、とグエスは気を抜いた。仕事に取り掛かる前の雑談は、別に今にはじまった事ではない。今日はたまたま儀典官の後任という、アゼリアとの婚約に関わる内容だっただけ。


 と、そこまでグエスに考えさせて、緩んだところで爆弾を投下するのがルイユ宰相閣下である。気安い身内は全力で揶揄からかう。それが宰相閣下であるということを、グエスはすっかり忘れていたのだ。


「ところで、グエス。君、なんでそんなにアゼリア嬢のことになると、目の色変えるの」


 早速仕事に取り掛かろう、今夜もモルガン公爵邸で講義があるのだから。早くアゼリアを支えられる人間にならなければ。と、グエスが執務机デスクに積み上げられた書類を一枚、ペラリと手に取ったところで、ルイユ宰相がそう言った。


 あくまでも、ルイユ宰相から漂う気配は穏やかだ。棘のひとつも、ない。

 けれど、どうしてかグエスには、喉元にナイフの刃を突きつけられているような状況である、と思えて仕方がなかった。


 だから、このひとは、怖いんだ。と、思う。ルイユ宰相を前にして、背中に汗を掻くようなことは随分と久しぶりだ。


「……閣下の気のせいでは?」

「いまさらとぼけても意味がないよ。君の実績はすでに積み上がっている。……別にアゼリア嬢との仲を引き裂こうとか、そういうことではなくてね」


 和やかに細められた眼の奥で、鋭い光がグエスを見ている。

 聞かれていることは、なんてことないはずなのに、重要な取引をしているような、そんな雰囲気だ。笑って茶化して誤魔化すなんて、そんなことは許さない、と突きつけられているような。


 いや、待て。と、グエスはハッとした。

 なんてことない、なんて、そんなわけがなかった。だって、アゼリア嬢に関する話なのだし。と、気を取り直して引き締めて、グエスはルイユ宰相の次の言葉をただ待った。部下は上司の言葉を待つものなのだ。


「君さ、アゼリア嬢のこと、知ってたでしょう。彼女に近づくために、私を利用した」

「……っ、……」


 今の地位を得るため、ルイユ宰相に近づき助力するにあたって、グエスはアゼリア嬢の話を一度も話題に上げたことはない。


 自分の工作員エージェントとしての力を存分に振るいたい、貴族社会で通用するか試したい、だなんて言って、グエスは本来の目的を隠してルイユ宰相に近づいた。

 そうしていくつか仕事をして能力を認められ、今の地位——ガフ男爵家の三男を得たわけである。


 これは、口を割るべきか。けれど、自分を取り立ててくれたルイユ宰相であっても、アゼリアとの話は、極力したくは、ない。口に出して話してしまったら、アゼリアとの美しい思い出が消費されてしまうような気がするからだ。


 だからグエスは、アゼリアとの思い出を、ほんのひとときしか許されなかった彼女との時間を、思い浮かべることすら、ほとんどしない。過去を思い浮かべるだけでも、思い出が減るような気がして。


 今は、アゼリアと婚約をするほどの仲になれたから、思い返してひたることもあるけれど。その時間だって、割と、結構、かなり、勇気のいることである。長年に渡って染みついた感覚は、なかなか消えてくれないのである。


 とにもかくにも、そういう超個人的な理由で、ルイユ宰相を自分の目的のために利用した事実を明かすことはなかった。

 そして、こうして追い詰められている状況であっても、グエスの口は閉じたまま開こうとはしないし、開く意志もない。


 そんな様子のグエスに、ルイユ宰相は、ぷ、と吹きだすように笑って言った。


「おや、図星ですね。そうやって黙る癖、直したほうがいいと思いますよ。モルガン公爵家に婿入りするなら、特に念入りに。……グエス、君を責めているわけじゃあ、ありません。君が助力してくれたから、私は宰相職をルイユ家の家業として維持できるところまで押し上げることができました」


 先ほどまでとは打って変わって、突き刺すような、深く探るような気配はなく、ただ穏やかな雰囲気をまとったルイユ宰相が、そこにはいた。

 けれど、グエスがすぐに緊張と警戒を解くことはない。充分に用心しながら言葉を返す。


「……でしたら、それで、よいのでは?」


 ピリピリとした様子のグエスに、ルイユ宰相が再び笑う。いくらなんでも、目尻に涙まで浮かべて笑うことじゃない。と胸の内で反発しながら、グエスは宰相がひとしきり笑い終わるのを待った。


「あはは。グエス、君ね。もう少し私の立場を考えてくれませんか。利用された、といってもね、ルイユ家は君に、一方的に支援された状態なんですよ。客観的に見ると、そうなります。……ですから、ガフ家の主家として、君の上司として、グエスには是非とも君の望みを達成してもらわないと困るのです。貴族だからね。そういう体面は大事なのです」

「……そういう、もの……ですか?」


 貴族のやり方、言い分というものに、グエスはいまだに慣れていない。そんなものなのか、と漠然と思いながらルイユ宰相を見た。

 すると宰相は、グエスの疑問を肯定するように頷いてから、勿体もったいぶってこう言った。


「ええ、そういうものです。だからね、君はこれから、アゼリア嬢に檸檬ケーキをご馳走になった話とやらを、私に聞かせる義務がある!」

「……は? なに言ってるんですか、話しませんよ。アゼリア嬢が減ります」


「減るの!? どういう基準!?」

「自分の中のアゼリア嬢成分が減ります。だいたい、アゼリア嬢とは頻繁に会っている、と報告しているのに、なぜピンポイントで檸檬ケーキ……なの、です……か」


 と。そこまで言って、グエスは息を呑んだ。

 なぜ、あのとき、アゼリアが檸檬ケーキを出してくれたのか。彼女は別に、ごく普通の令嬢のように、自分の好きなものを共有するために檸檬ケーキを出したのではなかった。


 檸檬の形をしたケーキ。檸檬イエローのチョコレートでコーティングされた表面。外側はパリッと硬く、内側はフワッと柔らかい。けれど、みずみずしく予想を裏切る。


 過去、アゼリアと共に行った作戦で、檸檬ケーキが——あのときは、あの菓子の名前が檸檬ケーキだなんて知らなかったけれど——、それがきっかけとなって上手くいったことが、確かにあった。あったのだ。


 アゼリアは、それを思い出してくれたのだ。きっと。そして、自分との過去を。わずかなひとときを。手を取り抱きしめ合った瞬間を。


「グエス、どうかした?」

「いえ……いいえ。なんでもありません。やはり、閣下にはお話することはできません。やはり、勿体なさすぎるので」


 ルイユ宰相の疑問には、答えなかった。檸檬ケーキの話もアゼリアの話と一緒で、簡単に話すことができなくなったから。

 それでも、お礼だけは。アゼリアの遠回しな訴求アピールに気づかせてくれた感謝くらいは、伝えておこう。


 と、グエスは首を傾げてキョトンとしている宰相閣下に、深々と頭を下げる。そして、ニヤける目と口とを顔を伏せることで隠しながら、謝辞を述べた。


「けれど、ありがとうございます、とだけは、伝えさせてください、閣下」


 ——と。

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