幕間

第19話 愛と恋と檸檬と陰謀

「アゼリアが結婚相手をついに決めた」


 という朗報が、モルガン家の全家門に通達された。通達したのは、アゼリアの父でありモルガン公爵家当主ダライアス・モルガン。

 ダライアスは通達を執事アルフレドを通してだした後、妻であるアガタ・モルガン公爵夫人にこう嘆いた。


「ついに私たちの娘が花嫁になってしまう……!」


 と。滂沱の涙を流しアガタ夫人に縋りつく様は、これがモルガン公爵なのか? と疑うほどに情けない姿であった。

 もっとも、その情けない姿を目撃したのはアガタ夫人と執事であるアルフレドだけなのだけれど。


「あら、別に構うことなどありまして?」


 というのは、ダライアスに対するアガタ夫人の返しである。当然、ダライアスは凍りついた。愛する妻に裏切られたような気持ちにもなりはした。


 しかし、よくよく考えてみればアゼリアは嫁に行くのではない。グエス・ガフがモルガン家へ婿に来るのだから、なにも問題はないではないか。

 もとよりアゼリアには、グエスと結ばれてもらう必要があったのだし。


 という結論をダライアス・モルガン公爵がだしたのは、通達をだしてから3日後のこと。昼過ぎの柔らかい日射しが窓から差しこむころだ。


 開き直ったダライアスは早い。早速、王都ティアーの郊外にある公爵邸の執務室へ向かって筆を取り、ガフ家への手紙をしたためる。内容はもちろん、アゼリアとグエスの婚約について、だ。


 身内へアゼリアが婚約相手を見つけた、と通達はだしたものの、ガフ家への挨拶を兼ねた婚約請求には、まったく手をつけていなかったのだ。


 そうして1時間ほどで手紙をさらさらと書き上げたダライアスは、呼び鈴をチリンと鳴らして執事を呼ぶ。1分経たずに現れた執事へ手紙を渡し、ガフ家へ届けるよう言いつけた。


 すると、いつもは黙って手紙を持ってゆく執事アルフレドが、今日は珍しく口を開いてダライアスの意思を確認するよう、こう聞いた。


「……ダライアス様、これでよろしかったので?」

「完璧だ、問題ないよ」


 ダライアスは短く答えてニコリと笑う。他人を寄せつけない拒絶の笑みだ。

 いくら婿を取るとはいえ、やはり娘が結婚してしまうことに変わりはない。納得したはずなのにぶり返してしまうのは、男親だからか。それともダライアスの心が狭量なのか。


 そういうことを邪推されたくなくて壁を作ったのだけれど、アルフレドは珍しく引き下がらなかった。ダライアスの本心を見抜けぬはずがないのに退かないということは、なにか言いたいことがあるのだろう。


 家臣の話を聞くのも主人の務めだ。ダライアスは、執事とのあいだに立てた見えない壁を取り払う。

 アルフレドはダライアスの雰囲気が柔らかくなったからか、少し躊躇いながらも言葉を発した。


「……お嬢様の婚活リストから本命であるガフ家の三男を抜け、とおっしゃったときは、ダライアス様もお嬢様のことを思ってガフ家の息子を諦めたのだ、と思いましたが」

「すべては、アゼリアが自分の意思でグエスと繋がること、のためだからね。多少の演出はしてやらないと」

「なるほど、そうでしたか」


 アルフレドはそう言うと、ホッとしたように息を吐く。それまで固かった表情も、安堵したのか柔らかい。


「お嬢様もグエス様も、ダライアス様の手のひらの上で踊っていた、など……知るよしもないでしょうね」

「はは。いつかは知るときがくるだろう。だが、それは今ではない」


 ダライアスはそう言って、愛しい妻によく似た娘の、輝くような美しい笑顔を思い浮かべた。


「私はね、可愛い娘に幸せになって欲しい。ただそれだけなんだよ」

「もちろん僕も可愛い姪に幸せになって欲しいと思っているよ、兄さん」


 ダライアスのしみじみとした願いに賛同した声がひとつ。いつの間に執務室へ入ったのか。いや、それ以前に、いつ、王都の公爵邸へやってきたのか。


「ジラルド! いつ来たんだ?」

「通達を聞いて、飛んできたんだよ。ついにアゼリアが婿を決めたって? それも我々の大大本命だったグエス・ガフだっていうじゃないか。これは急いで会いに行かなければ、と思ってさ」


 と。ジラルドは快活な笑みを見せながら大股で歩き、執務室中央のソファセットへドカリと座った。それを見たアルフレドが、お茶を用意すべく退出してゆく。


 ジラルド。ジラルド・モルガン・ジオマール伯爵。モルガン家が所有するジオマール伯爵位を継いだ、ダライアスの年の離れた弟だ。


 兄であるダライアスに似た鳶色の髪、オレンジ味が強い赤眼。二十代後半で若々しく、華やかな容姿をしている。派手な顔に見合わず、飲酒はしない。


 そんなジラルドは、いつもはジオマール伯爵領に引き篭もり、滅多に王都へは顔をださない。なぜなら、主に領地でモルガン家の私設諜報機関の仕事をしているからだ。


「そういばグエス君を激推していたのはジラルドだったね」

「うん。だって彼、工作員エージェントとして一流なんだもの。ウチのアゼリアと組ませれば無敵だな、って。それに……」

「それに?」

「それにあのふたり、むかーしむかしに組んで仕事をしてもらったことがあるんだよ。それが劇的に再会! なんて運命的! あの堅物アゼリアも恋に落ちざるを得ない!」


 ジラルドは両手を胸の前でガシリと組み、夢見る乙女のように澄んだ目と声でそう言った。

 諜報機関の仕事をしていなかったら、舞台役者かなにかになっていた、と普段から豪語しているだけあって、その台詞は絶妙に芝居がかっていた。


 けれどダライアスが気になったのは、ジラルドの役者染みた言動仕草ではない。


「……ジラルド、なんだって? あのふたりが……?」

「初対面じゃないよ」

「……、…………」

「あれ? なに、兄さん。知らなかったの?」

「知らん。だが、それよりも……アゼリアは残念ながら堅物のままだぞ?」


 ダライアスが現在のアゼリアを評して、深刻な表情でそう告げた。

 途端に、色が失われてゆくジラルドの顔。


「嘘っ!? そんな馬鹿な! 恋に落ちたんじゃないの!? 運命感じてなかった!?」

「……多分、ない。アゼリアはいつものように頭で考え、グエス君が自分の伴侶として、……つまり補佐として有能で優秀だから選んだだけだ。まあ、多少の運命とトキメキは感じたかもしれないが……」


「……嘘だろ、マジかよ。なんで、なんで? グエス・ガフはいい男だろ? 僕が認めるだけあって、いい男なんだよ。絶対ジャストタイミングでアゼリアを助けたはずなのに……容姿もアゼリア好みで態度も紳士的……騎士っぽい雰囲気も絶対気に入ってるはず……それなのに……恋してない? やっぱりアゼリアは難敵だな……」


 ジラルドはそう嘆き、頭を抱えてうつむいた。アゼリアを溺愛するこの叔父ジラルドは、アゼリアの好みやグエスの性格まで把握して、ふたりの出会いを画策したらしい。


 自分の弟ながら、恐ろしい。私はさすがに、そこまで深くたくらまなかった。と、ダライアスは若干顔を引き攣らせながら、叔父に愛されているアゼリアに同情した。


「でも結果的には彼を婿として認めたんだから、まあ、いいか! 恋は後からいくらでもついてくるし! 多分!」


 盛大に嘆いていたジラルドは、どこへやら。あっさり思考を切り替えて笑うと、ジラルドは急に声のトーンを落とし、真面目な顔で話を変えた。


「で、話は変わるけど……大変だったね。まさか王族を操って三盟約の破約を狙うなんてさ」

「ダンソル卿……あの後、爵位と貴族籍を剥奪されたから、ただのジョルジオか。ジョルジオが首謀者だった。まったく、王族がそそのかされて三盟約を破ろうとするなど……あってはならないのだが」


 三盟約を破約されそうにはなったけれど、今回の件で王族側の知識や認識に問題があることがわかった。

 であれば、教育しなおせばいいだけの話。そういうことにして、アゼリアは、モルガン公爵家は、オルガンティア王国の安寧を守ったのである。

 もう終わった話。に、しなかったのは、ジラルドだ。


「それについては、もう少し深く調べる必要があるね。ジョルジオがひとりで考えたとは思えない。復讐相手はルイユ卿なのに、モルガン公爵家や王族を巻きこむなんて……途中で誰かに思考を捻じ曲げられたと考えたほうがよさそうだ」

「確かに、王族の三盟約についての認識が甘いのも、気にはなる。……調べることが多いな」


 ダライアスがそう言うと、ジラルドは、


「まあ、それが我々の仕事だからね! あとは……アゼリアとグエス・ガフの婚約式までには、絶対絶対、ぜーったい、終わらせないとね!」


 そう、ほがらかに言って、片目をバチリとつむって笑うのだった。



 一方そのころ、アゼリアとグエスは。



「グエス様。お忙しいところ、わたくしのためにお時間をいただいて、誠にありがとう存じます」


 午後の暖かく眩しい光の中で、今日も気合を入れて身形みなりを整えたアゼリアが、グエスにそう言った。


 モルガン公爵邸の中央温室にしつらえた鉄製のまるいテーブルに、揃えの鉄製の椅子。美しい彫刻と細工がほどこされ、テーブルの上には白絹のクロスがかけられている。


 クロスがかけられ、白くなったまあるい天板には、ティーセットと金縁の白い皿がふたり分、並べられていた。

 対面に座るアゼリアの金色の髪が、光を反射して美しい。紅茶よりも紅く輝く眼に見つめられると、胸の動悸がおさまらない。


 けれどグエスは、緊張で固まりそうな口と舌とをどうにか動かし、喉を振動させてアゼリアに挨拶を返した。


「アゼリア嬢、今日も本当にお美しい。貴女のためでしたら、自分はいくらでも時間を割きます」

「ふふ、グエス様はお上手ね。さあ、まずはお茶にいたしましょう。わたくしが気に入っているお菓子も用意いたしました」


 と、アゼリアは可憐に微笑み、ささやかなお茶会の開催を宣言した。

 そうしてアゼリアが合図を送ると、女給仕たちが一斉に動きだす。お茶の用意と、皿の上に菓子をいくつか置いてゆく。


 この皿に置かれた檸檬の形をした菓子が、アゼリアのお気に入りの菓子なのだろう。


「これが、アゼリア嬢の……? とても興味深いです。どのような菓子ものですか?」


 グエスはそう言って、柔らかく目を細めた。招かれたお茶会でアゼリアのお気に入りを教えてもらうだなんて、なんて普通の令嬢のような振る舞いだろうか。


 そう思うと、アゼリアが浮かべている微笑みが、まるで違ったもののように見える。アゼリアが、ごく普通の令嬢のような行動をしていることに、グエスの胸がわずかに軋む。


 もしかしたらこれは、自分のためかも知れない、と自惚れながら、同時に、こうして普通の令嬢を演じているということは、なにかあるのだろうか、と疑ってしまって、歯痒い。


 そんなグエスの深読みなどつゆ知らず、アゼリアは檸檬色の菓子が乗せられた皿を楽しそうに手に取った。


「グエス様は、檸檬ケーキってご存知?」


 なるほど、これは檸檬ケーキというのか。と思考を切り替えながら、それをはじめて目にしたグエスは静かに首を振った。縦ではなく、横へ。


「……チーズケーキの亜種ですか? すみません、そういうものにはうとくて……」

「ふふ、ふふふ。残念、違います。ご覧の通り、檸檬の形をしていて、表面を檸檬イエローのチョコレートでコーティングした可愛らしいケーキです。爽やかな風味と甘さが、お茶にもあうのです」

「……なるほど、それは楽しみです」


 そう言ってグエスは、ナイフとフォークとを手に取った。そして、檸檬色のケーキにナイフを入れる。

 パリ、とした手応え。そののちに、ふわ、とした感触。最後までナイフを落として切ると、今度はじゅわりと濡れたような断面が見えた。


 ああ、まるでアゼリアのようだ。と、わずかに胸を痛めながら、グエスは半分に切った檸檬ケーキにフォークを刺す。刺した片割れを持ち上げて口まで運ぶと、ふわりと香る爽やかな檸檬の匂い。


 どうしてか泣きそうになって、けれど涙の気配も湿った感情もすべてケーキとともに呑みこんだ。

 アゼリアはグエスをよき伴侶、よき夫候補として見てくれている。けれど、別にグエスに恋をしているわけじゃない。そういうことに、今、気がついた。


 アゼリアが、ごく普通の令嬢のように振る舞っている。普通の婚約者のようにお茶会をして、好きなものを教えてくれている。


 それは確かに嬉しいことなのだけれど、アゼリアなりのグエスへの歩み寄りなのかもしれないけれど、互いのあいだを行き来する熱量が。その温度差に、心臓の裏側がシクシクと痛む。


「……アゼリア嬢」

「なんでしょう、グエス様?」


 グエスの呼びかけは、すぐさま返された。喜ばしいことなのに、完璧に美しい白い顔を見て、勝手に気落ちしてしまう自分の愚かしさが、嫌になる。


 ああ、いつか。いつか必ずこの美しいひとと、同じ熱量で恋したい。冷めないように暖めて、ときには燃え上がらせて愛したい。

 そう思いながら、グエスは曖昧に笑って意識的に口角を上げた。 


「……いいえ、すみません。アゼリア嬢を呼んでみたかっただけなのです」

「ふふ、可笑しなひと。……さあ、グエス様。いただきましょう、冷めないうちに」


 柔らかく微笑むアゼリアに、グエスは首を縦に振る。

 確かにそうだ、と。なにを、とは言わないけれど、完全に冷めてしまわぬうちに、いただかなければ。ほんの少しでも熱があるならば、それがどのような熱であれ、冷めていなければ、どうにでもなる。


「ええ、いただきます。アゼリア嬢」


 下降気味だった思考を上手く上昇させることができたグエスは、お茶が注がれたティーカップを手に取って、まだ暖かいそれを堪能する。

 お茶をいくら飲んでも口の中に残った檸檬の味は、初恋の味は、消えることなく残り続けた。

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