第14話 ひとつ屋根の下(中)《グエス視点》

 なんてことだろう。あんなに焦がれたモルガン公爵家の一室に招待されて、宿泊することになるなんて。

 そう、つまり今、アゼリアとひとつ屋根の下状態である、ということだ。


 グエス・ガフは痛いほどに動悸する心臓を意識しながら、客室の広く柔らかい寝台ベッドの上に仰向けで寝転がる。そして、自分を招いた想い人アゼリアの美しく可憐な姿を目蓋の裏に見る。


 波打ち光り輝く金の髪、宝石のように光を湛えた紅い瞳。面立ちは女神のように美しく、細く華奢な体躯は完璧な造形をしていた。


 アゼリア・モルガン公爵令嬢は、社交界には滅多に参加しない。参加したとしても、地味で印象の薄い化粧と装いで壁の花となり、きっかり1時間後に退出してしまう。


 それだけじゃない。アゼリアが魔術の天才である、ということは、意外にも知られていない。

 アゼリアは魔術の補助なしに、魔術の痕跡、あるいは魔力の流れ——つまり、魔術痕色を視ることができる。これは、魔力量が膨大で、制御にも優れていなければできない芸当だ。


 そんなアゼリアと、同じ空気を吸って、同じ屋根の下にいるなんて。グエスには信じられない思いだった。

 なにを隠そうこのグエスは、第一王子の婚姻請求事件より遥か以前から、アゼリア・モルガンというひとりの女性に心底焦がれていたから。


 アゼリアとの出会いから記念すべき今日というこの日までを一瞬で振り返り、グエスは、ほう、と熱いため息を吐きだした。


 アゼリアと出会ったころ、グエスはまだ平民だった。平民の協力者エージェントで、アゼリアはモルガン公爵家の諜報機関から派遣された機関員インテリジェンスオフィサーだった。


 ふたりは一時的な相方として案件をいくつか片付け、そして案件終了とともに解散した。いつも通りに。いつもと異なったのは、グエスがアゼリアに恋焦がれてしまったことくらい。


 そうしてグエスはアゼリアと再開するために、少し遠回りをしたけれど、今の地位を得た。

 ついに、きた。ここまで、ようやく。

 ほとんど偶発的に起こった今回の件を逃せば、アゼリアとお近づきになれるチャンスは、もう、ない。きっと、ない。


 だからグエスは慎重に動いた。あとはない、と自分を追い詰めて自制した。グエスがすでに知っていることがあっても、知らないふりをしてまで、完璧に初対面を装った。


 第一王子がアゼリアを、私の薔薇、だとか、美しき薔薇、だとか呼びだしたときは、はらわたが煮えくりかえりそうになったけれど、それも耐えた。


 アゼリアが共犯になってくれないか、と誘ってくれたときは、天にも登る夢心地だった。あれはある意味、求婚プロポーズだ。少なくとも、グエスにとっては、そう。


 それから、第一王子の脅し通り襲撃されたとき。まさかアゼリアが武闘派で実戦経験済みの現役戦闘者であるなんて。実際に目にして見るまでは、欠片も思わなかった。

 戦う姿も戦女神のようで美しいとか、反則すぎる。


 グエスは脳裏でアゼリアが舞い戦う姿を何度も何度も何度も繰り返し投映し、その度に寝台ベッドの上でごろごろと身悶えた。

 なんてことだ、なんてことだ。あの美しいひとが、さらに美しく!


 ——と、そのとき。

 コンコンコンコン、と明確な響きを持って、客室のドアが叩かれた。グエスは咄嗟にドアの向こうの気配と魔力を探る。これはもう、反射の域で、呼吸と同じ。


 気配は、ひとつ。華奢な女性のような形をしている。それなのに、強力な魔力と隙のない気配。

 まさか。いや、まさか……アゼリア嬢?

 グエスの喉が、ゴクリと鳴った。意識した途端、ドッと噴きでる汗。落ち着いたはずの心臓が、再びドクドクと音を立てて動悸する。


「……、……どうぞ、お入りください」


 グエスの言葉に呼応して、鍵をかけていないドアがゆっくりと開いた。そうしてドアの隙間からひょっこり顔をだしたのは——グエスが望んだ通り、アゼリア・モルガン公爵令嬢そのひとだった。




「グエス様、失礼いたします。夜這いをしに参りました」


 アゼリアはそんな可愛らしいことを言って、グエスが泊まる客室に遠慮なく入ってきた。

 居住まいを正す時間も余裕もなく、グエスはシーツが乱れた寝台ベッドの上で、のそりと起き上がる。ごろごろしすぎてぐしゃぐしゃになった髪を掻き上げながら、アゼリアに言葉を返した。


「アゼリア嬢、なかなか面白いことを言いますね」

「わたくし、貴方が欲しいの」


 落ち着け! 彼女の思わせぶりな発言をそのままの意味で捉えてはならない! グエスははやる気持ちに急ブレーキをかけて、大人の余裕を演出するようアゼリアを嗜めた。


「……いけませんね、その台詞は、あらぬ誤解を招いてしまいます」

「ふふ、本当に誠実で理性的で頭がよく回るお方。さすが、ルイユ家の諜報機関としてのガフ家をまとめられているだけのことはあります」

「もうそこまで知られてしまいましたか」


 その評価は間違っていますよ、と突っこみたいところを我慢して、グエスは曖昧に微笑んだ。理性は今にも爆発しそうだったし、頭はすでに回っていない。かろうじて誠実さだけが息をして、アゼリアの対応をしているだけ。


 だから、全然。全然そんなことはないというのに、なぜかアゼリアの中でのグエスの評価が鰻登りだ。それとも、上げて上げて持ち上げて、そうして落とす作戦か?


 グエスはアゼリアが優秀な機関員インテリジェンスオフィサーであり、今は有能な親スパイスパイマスターであることを知っている。


 そのアゼリアが、今ここでガフ家とルイユ家の関係を仄めかした、ということは。つまり、どういうことだ? と疑問に思ってしまうくらい、グエスは盛大に混乱していた。

 そんなぽんこつグエスを余所よそに、アゼリアは優雅に微笑んで話を続ける。


「わたくしの『鴉』はとても優秀なの。ガフ家とルイユ家の関係は、モルガン家とオルガンティア王国の関係と似ています」

「……オルガンティア王国と? オルガン王家と、ではなく?」

「ええ、そうです。我々が忠誠を誓っているのは王家ではなく、王国そのもの」


 アゼリアはそこで一旦、言葉を区切った。

 モルガン公爵家の主は、王家ではなく王国だという。王家ではなく、王国のためにある家なのだ、と。仕えているのは王国そのもので、王家に忠誠を誓ったわけではない、と。だから、王家の指図は受けないし、王国のためになるならば、政治の闇すら背負うのだ、と。


 アゼリアが、ガフ家とルイユ家をだしてきた意味が、ようやくわかった。モルガン公爵家は、王国のために組織された諜報機関なのだ。ガフ家がルイユ家のそれであるのと同じように。


 グエスが焦がれたアゼリアは、そんな遠くの高みにいるのか、と思い知らされた。背負うものが大きすぎる。そんな華奢な身体で支えられるのか、なんなら今からでも自分が支えて——……と、グエスの思考が激化しそうになったところでちょうどよく、アゼリアが小さく呟いた。


「……グエス様、モルガン公爵家の秘密を知りたくはありませんか?」


 同じ部屋にいること距離で、その小さく可憐な声を聞き逃すグエスではない。グエスはそっと呼吸を整えて、紳士的な声と態度で応答した。


「秘密? 三盟約以外にもある、と?」

「当然、あります。……我々にとっては秘密でもなんでもありませんから、隠すことなどないのです。グエス様、長い夜の暇つぶしとしていかがですか?」

「……聞きましょう」

「ふふ、貴方のその決断力、思い切りのよさ、罠かもしれないのに飛びこむ勇気。すべて評価に値します。だから、わたくしの本心をお話しましょう」


 ですからそれは過大評価です! と、照れて叫びたい気持ちは封印し、グエスはアゼリアの言葉を待つ。

 呼吸がひとつ、ふたつ。ゆっくり吐いて、それから吸う。グエスが乱れた心を落ち着けている間、アゼリアもまた、勇気を整えていた。


 ふた呼吸分の時間で整ったらしいアゼリアが、真っ直ぐグエスを見た。決意に満ちた澄んだ眼で。その眼に、捕らえられた、とグエスは本能的に感じた。

 そうして。


「わたくしは、貴方が欲しい」


 その切なる言葉を聞いて、グエスは死んだ。死んで、再び息を吹き返した。

 頭は真っ白、心臓はやけに静か。腹の底だけが燃えるように熱い。待ってくれ、待ってください。これは罠か、それとも計略か? 優秀な機関員インテリジェンスオフィサーであるアゼリアに備わった物言いが、グエスにあらぬ妄想を掻き立てさせる。


 もしこれが、ハニートラップであったとしても、それはもう、本望では? と、暴走した頭が答えを弾きだして、ようやくグエスは落ち着いた。


 これは罠ではない。計略でもなければ、ハニートラップでもない。そうではないことくらい、アゼリアの顔を見ればわかる。


 アゼリアの眼が真っ直ぐ対象を捕らえるとき。彼女は本心を口にする。それは、昔から変わっていないから。

 アゼリアの言葉によこしまな願望を重ね、都合のいいように取っているのは、グエスだ。グエスがアゼリアに焦がれているから。こんなにも近く、手を伸ばせば届く距離にいるアゼリアに、そんなことを言われたら。


 もう誠実さだけしか残っていないグエスは、アゼリアの次の言葉をひたすら待つ。忍耐だけは自信がある。なにせ、何年もアゼリアを思って努力してきたのだから。


「グエス様。今日一日グエス様とすごしてみて、その思いが強くなりました。わたくしの隣には、貴方が必要です」

「アゼリア嬢……自分は……」

「待って。返事は待って、まだ駄目なの。まだ王族との婚姻問題を解決していないから」


 今すぐにでも返事をしたい、と、がっついてしまったのがいけなかったのか。アゼリアはグエスを制止して、そう告げた。


 待て、をされたグエスは、もう残っているのかも怪しい誠実さで、アゼリアに優しく微笑んだ。そうして、ゆったりとした余裕がある(ように見せかけた)口調で、アゼリアに問う。


「いつならばよいのです?」

「え?」

「貴女への返事は、いつすれば?」

「——王の応接室へ婚姻の返答をしなければならない日に。そのときに、わたくしの想いに答えていただけるなら、これを……」


 そう言ってアゼリアがグエスに差しだしたのは、ひとつの封筒。グエスはそれを受け取ると、すぐに中身を確認した。


 中に入っていたのは、ひと組の書類とひとつの小さな魔道具。魔道具は壊れているようだったけれど、重要なのはそこじゃない。

 通信機とおぼしき壊れた魔道具には、ある貴族の紋章が彫刻されていたから。


「アゼリア嬢……これは……」

「わたくしの『鴉』が、逃亡した襲撃者たちから回収した物です」


 ならばこれは、魔道具に刻まれた紋章を持つ貴族が関与している、という物的証拠か。グエスは思わずゴクリと喉を鳴らした。


 そして、物的証拠を裏づける数々の資料が、一緒に入っていた書類だった。書類の表紙には、第二次報告書、と記載されている。


 アゼリアのいう『鴉』とは、おそらく彼女の工作協力者エージェント諜報資産アセットだ。短時間でここまでの裏づけと証拠を押さえてくるなんて、やはりモルガン公爵家の私設諜報機関はレベルが違う。


「これを使って、わたくしを助けてください。それを持って、返答としていただきたく存じます」


 つまり、アゼリアの想いに応えるつもりがないのなら助けてくれるな、ということだ。

 なんて条件をだしてくるのだろうか。緊張しているのか、少し表情の固いアゼリアを、グエスは真っ直ぐ見つめ返している。アゼリアが前で組んでいた手に、指に、クッとわずかに力が入るのを、グエスは見逃さなかった。


 グエスの答えは、もう決まっている。息を吹き返した誠実さが頭の回転を取り戻し、そして理性を呼び戻してくれたから。

 グエスはアゼリアを安心させるように、姿勢を正して真摯に告げた。


「……アゼリア嬢、どうかそのような心許ない顔をなさらないでください。決して、悪いようにはいたしませんから」


 するとアゼリアは控えめに吹きだして、


「ふ、ふふ。グエス様、その台詞はいけません。あらぬ誤解を招いてしまいます」


 と。年相応の少女の顔で破顔した。



 そういうわけで、その後グエスはアゼリアからモルガン公爵家について教えを受けた。

 三盟約が古の魔術で結ばれた強固な契約であること。

 公爵家であるにもかかわらず、モルガン家に王位継承権など存在しないこと。王家と交わらぬよう生きているから、そもそも発生しないらしい。


 そして、王家であるオルガン家とともにオルガンティア王国を建国した祖であること。

 けれど、すっかり忘れ去られてしまって、名ばかり公爵だと陰口を叩かれているけれど、その話は歴代のモルガン家当主たちが情報操作をし続けた結果であること、などだ。


 とにもかくにも、グエスは、アゼリアの侍女が目を吊り上げて鬼のような形相で客室に乗りこんでくるまでは、アゼリアとともに健全で楽しい時間をすごしたのだ。

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