第10話 補佐官殿と大嵐
アゼリアが宰相閣下の執務室をでて、次の目的地である書類保管庫へ向かうべく歩みを進める。
従えるようにして執務室をでてきてしまったせいか、グエスはアゼリアの斜め後ろを3歩の距離でついてくる。
毛足の長い絨毯がひかれた王城の廊下は、余程のことがなければ足音は鳴らない。歩く際の布擦れの音だけがアゼリアの耳に届いている。
背中に感じる強い視線。グエスに見つめられているのだ、と思うと、どうしてか背中の、いや、腰のあたりにじんわりと汗が滲んでゆく。
いけない。これは、大変いけないわ。
アゼリアがそう思って歩調を緩めると、斜め後ろを歩いていたグエスが追いついて、アゼリアの隣にスッと並んだ。
「アゼリア嬢。宰相閣下の前では発言するのを控えたのですが、自分のほうから少しお話ししても?」
話しかけられたのだ、とアゼリアが気づいたのは、瞬きを2回した後でのこと。
「グエス様、なんでしょう?」
「アゼリア嬢は、財務官ダーシ卿、儀典官ダンソル卿、宮廷魔術師長ベスティア卿の話を宰相閣下に聞かれておりましたが、あの説明では足りない部分もありますので」
どうやらグエスは、ルイユ宰相の話に補足をつけてくれるらしい。これは願ったり叶ったりだ。断る理由もないアゼリアは、躊躇うことなく承知する。
「あら、グエス様に補足していただけるの? 嬉しいわ、是非、お願いいたします」
「まず第一王子と懇意にされている、というダーシ卿ですが……ノアベルト殿下の私室に連日連夜、ひっそりと訪ねている姿が目撃されています」
「殿下の私室に……? いったい、なんの用かしら?」
「そこまでは……。ですが、一度、布に包まれた怪しい物を持ちこんでいた、と」
「怪しい物……」
ダーシ卿は、不審な動きをどうやらしている。怪しい物とは、なんだろう。
魔道具だとか、そういう人目を
アゼリアは考えながら、応接室でのダーシ卿を思いだす。
素直で気の弱そうな、けれど好奇心によって発言することもできる財務官。
なぜモルガン公爵家が王族と婚姻したことがないのか、と聞いてきた辺り、三盟約にまつわる話を正しく継承できていないと思われる。
ダーシ家はルイユ家と同じく新興貴族のようなもの、と宰相閣下が言っていたから、財務官として取り立てられたときに、なにも聞かされていないのだろう。
であるならば、不審な動きをしていることもあるから、ノアベルトを唆して手柄を立てたいと思ったとしても、おかしくはない。
「次にダンソル卿ですが、卿もノアベルト殿下と頻繁にお会いしていますが、こちらは公式的な面会です。レグザンスカ公爵令嬢との婚約式について打ち合わせていますが……」
「今回のことで、どうなりますかね……殿下にはレグザンスカ公爵令嬢とのお話を進めていただきたいものです」
応接室でのダンソル卿は、地味に無礼で嫌味な男だった。だからアゼリアの心象はかなり悪い。
けれど、グエスの補足を聞いた限りでは、特に怪しい動きはしていないように思えた。
どちらかと言うと、レグザンスカ公爵令嬢、と聞いて、泥棒猫扱いされた舞踏会をアゼリアは思いだす。
銀の君は、純粋にノアベルトを
などと、つい、うっかり。余計な心配をしてしまう。
「最後にベスティア卿ですが、魔術のなかでも古の魔術……古代魔術を専門に研究しているそうです。その研究の一環として、国王陛下やノアベルト殿下に面会もしています」
「古の魔術……ですか」
「ええ。具体的な研究内容まではわかりません。機密事項である、としか」
ベスティア卿は、唯一応接室でなんの発言もしていなかった。ひとりポツンと立っていて、退屈そうな顔をしていたことを思いだす。
宮廷魔術師長殿は、ルイユ宰相とグエスの話にほとんど
けれど、とアゼリアは考える。
もしかしたらベスティア卿が研究しているのは、三盟約に絡むものかもしれない、と。あるいは、王国や王城にかけられた数々の古代魔術に関するものか。
その中には、モルガン家に関わるものもあるだろう。だからアゼリアは、別の意味でベスティア卿には気をつけなければ、と気を引き締めた。
これで3人の話は聞いた。終わりだろうか、と思ってアゼリアはグエスの横顔を盗み見る。
スッと通った鼻筋、高い鼻。意外にも睫毛が長く、下瞼に影を作っていた。
なんて、なんてひとなの。盗み見るなんて、なんていけないことをしてしまったのかしら。
そんな変な気分にさせられたアゼリアは、動揺して揺れる感情を綺麗に隠し、何事もなかったかのように視線を正面へ戻す。
アゼリアが前を向いたところで、グエスが躊躇いがちに口を開いた。どうやらグエスの話は、まだ終わっていなかったらしい。
「それから……ルイユ宰相ははっきりとお伝えしていませんでしたが、研究塔の件は、ある魔道具の紛失……いえ、盗難です」
「やはり。……盗まれた魔道具が、どのようなものかグエス様はご存じですか?」
「いえ、自分のほうでも、そこまでは」
「そうですか……」
グエスの話は、王城内での情報収集力がどうしても劣るモルガン家のアゼリアにとって、実に有益なものだった。
モルガン家は三盟約の1つ目である、彼の家を取り立ててはならない、に触れないよう、王城での活動を必要最低限なものにしているから。
だからどうしても王城内での出来事は、モルガン家の手に届くまで時間がかかる。昨日は父公爵の無能さを嘆き怒りはしたけれど、どうしようもない隙というものは、モルガン公爵家であっても存在する。
宰相補佐官であるグエスは、実に優秀な目と耳を持っている。やはり、必ずモルガン家に迎え入れなくては。
アゼリアは決意も新たに、情報共有をしてくれたグエスにお礼を述べた。
「グエス様、ありがとう存じます。彼らへの解像度が増したように思います」
「……お役に立てましたか?」
「ええ、もちろんです。これで精度の高い予測を行うこ」
「薔薇よ!」
アゼリアのお礼と感謝の言葉は、最後まで伝えることができなかった。
ノアベルト第一王子の力任せに張り上げた声が前方から響き、バタバタと駆けてきたから。足音を吸収するはずの毛足の長い絨毯がまるで役に立っていない。
「おお! ここにいたのか私の薔薇よ! 登城したなら私に挨拶があってもいいのではないか? 数日後には妻になるのだからな!」
「……ノアベルト殿下」
「なんだね、美しき薔薇よ。……ふむ、そう
まったく迷惑な話である。グエスの話と違って、なんの意味も役にも立たない。会話ですらなく、ただ一方的に言葉を浴びせられているだけ。
だからアゼリアは無の表情で、
「観念して私のものになれ、薔薇よ。心配するな、隅々まで可愛がってやろう。そうだな、そうだ。今からでも可愛がってやる。私とともにこい!」
なに言ってんだコイツ。頭沸いてんじゃないの? 可愛がるって、ナニ? レディになに言ってんの。ほぼ初対面のレディに言うことじゃなくない? それに、薔薇ってなに、わたくしにはアゼリア・モルガンという立派な名前があるのだけれど?
と。口にも顔にもどこにもだしはしなかったけれど、唯一心の中だけでアゼリアはノアベルトに対して悪態を吐く。
「さあ、行こう薔薇よ!」
どうやら決め台詞まで吐き終わったらしい。ビシッと腕を伸ばしてアゼリアを誘うノアベルトは、どこか常軌を逸していた。
正気の沙汰ではないのでは、と思わず疑ってしまうような、そんなヤバさを醸しだしている。
この異常者をどうやって
「ノアベルト殿下、アゼリア嬢はすでに自分と約束しておりますので。どうかご容赦を」
「お前……ッ、宰相補佐官じゃないか! なんてことだ、また私の邪魔をするつもりか!」
「殿下の邪魔をしているわけではありませんが、約束は約束ですので」
グエスは毅然とした態度で一歩前へでた。ノアベルトの危ない視線からアゼリアを隠すように。
その何気ない言動に、アゼリアの心臓がドキリと跳ねる。
モルガン公爵家の次期後継者であるアゼリアが、こんな風に表立って助けられる、ということは、普通ない。幼いころは別として、今まで一度だって、ない。
いや、一度だけはあった。公爵家の仕事で組んだ、その場限りの
だから、どうしていいのか。どう反応すればよいのか。淑女らしく守られていればいいのか、次期公爵らしく前へでなければならないのか。全然ちっとも、これっぽっちもわからない。
どうしよう。約束なんて戯言で、グエスが助けようとしているのは、わかっているのに。
「約束……だと? 美しき薔薇よ、私との時間より、こんな男との約束を優先するのか? まさか、そんなことは——」
「殿下、約束は守りませんと。約束も守れないなどと他人から
それに、邪魔をしているのはノアベルトのほうだ! と文句を言ってやりたいのだけれど、ここは我慢。だって王城の人目もある廊下なのだし。
だからアゼリアは、完璧に美しい
「くッ……お前が言うなら仕方がない。ここは私が引こう。——ああそうだ、美しき私の薔薇よ。王城からの帰り道には、精々、気をつけるんだな。……まだ散りたくはないだろう?」
ノアベルトが憎々しげに吐き捨てたのは、脅し文句だった。一国の王子が、それも第一王子で王太子候補が、吐いていい台詞じゃない。
そうしてノアベルトは、すれ違いざまに負け惜しみのような高笑いをしながら、アゼリアとグエスの元から去っていった。
「……アゼリア嬢。大変不躾ではありますが、お帰りの際は、是非とも自分に送らせていただきたく」
と。ノアベルトの姿が十分に見えなくなってから、グエスがボソリと呟くように申しでた。きっと、ノアベルトが残した捨て台詞を警戒してのことだろう。
頭も回るし、気遣いも充分。臨機応変に対応できる優秀なひと。宰相の補佐をしているだけのことはある。
やはり、モルガン家に欲しい。できることなら、わたくしの婿として!
そんな思いを薄暗く燃やしながら、
「嬉しいわ。是非、お願いいたします!」
と、アゼリアはただの少女の顔をして、本音を隠して微笑みながら頷いた。
語尾が少しだけ、アゼリアの欲望が乗って強くなってしまったけれど、そんなもの、誤差の範囲だ。問題なんて、ないに決まってる。
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