魔法のパンは真夜中に仕込まれる

祥之るう子

魔法のパンは真夜中に仕込まれる

 美味しいパンは、いつできると思う?

 あなたが朝、お店に立ち寄ることができるように。

 あなたの朝ご飯に間に合うように。


 寝坊すけの下弦の月が、ようやく湖の向こうの山の間から顔を出す頃。まもなく船を出す漁師たちが身支度を始める頃。夜更かし癖のある子がそろそろ眠ろうかと思う頃。


 湖沿いの道に面している、一軒のパン屋に、そっと灯りがともる。


「さんかくぼうしのパン屋さん」


 ちょっと変わった名前のこのパン屋は、ものすごく古い。大昔からあるらしい。何度か改装を繰り返して、代替わりして、今は、一人の女性が切り盛りしている。


 なんでも、本当かどうか怪しい噂話だが、大昔、村を追われて魔女の使い魔になった者が、ここに帰ってきて魔女のレシピでパン屋を始めたのだとか。


「さて……と」


 背の低いその女性は、少女にすら見えたが、本人の言うところによれば、立派な成人であるらしかった。

 彼女は、黒いワンピースに、真っ白なエプロンをして、髪をしっかりとまとめてキャップの中にしまって、その上から三角帽子を被っている。

 彼女によると、この炭黒色の三角帽子は、非常に重要なアイテムなのだそうだ。

 これをかぶっていないと、美味しいパンはできないといっても過言ではないらしい。


 さて、夜が更けるよりも前に仕込まれていた生地を取り出して、自動でこねてくれる機械の中に放り込む。

 大きな寸胴のような銀色の容器に、べちゃりとおちる生成色の柔らかい生地は、三角帽子の彼女が持っているとなんだか、魔法で生み出された異形の生物の体のように、見えなくもない。

 そこに、秘蔵の酵母だろうか? 何か白いものをべちゃりとたし、パックに入ったクリームのようなものをびしゃびしゃと足し、機械のスイッチを入れる。

 巨大なミキサーがごうんごうんと回りだし、寸胴の中の生地をべちゃんべちゃんとこねはじめる。

 その間も三角帽子の女性は、冷蔵庫からいろいろと取り出してぽいぽいと入れていく。

 常温の、柔らかいバターを手慣れた手つきで切り出すと、少しだけ練ってから、機械に放り込み、最後に「まほうのパウダー」と書かれた小瓶を取り出して、その白い粉を大匙一杯ほど入れた。


 生地をこねる音は、べちゃんべちゃんという音から、ぺったんぺったんという感じに変わっていく。


 彼女が寸胴から取り出した、ひとかたまりになった生地は、つきたての餅のように柔らかく、そしてとても重そうだ。

 べたん! と大きな音を立てて容器に生地が入る。


 温度計のようなものをさして、彼女はまるで愛しい我が子の体温でもはかっているかのように、優しい顔で数字を確認してから、そっと容器にふたをした。


 軽く掃除や片付け、次の工程の準備をする。

 そうこうしているうちに、発酵が終わったのか彼女は、愛しい生地のハコを開けて、今度はそれぞれを彼女の顔より少し小さいくらいの大きさに、スケッパーで分けていく。たくさんの不揃いな丸にも四角にもなりそこねたような、もちっとした生地の塊が並んでいく。

 そしてせっかくふっくらしたそれらを、今度はローラーの機械でぺったんこにつぶしていく。

 ぺったんこにした生地をもう一度くるくるっとまとめて、丸くすると、そのうちのいくつかを黒い金属製の長方形の型に、三つずつ並べていく。


 もっちりと型に納まった生地は、型ごと、発酵のための機械に入れられて、また一休みだ。


 彼ら食パンの赤ん坊たちが休んでいる間、女性は大忙しである。

 半分ほど残っている他の生地を、それぞれの大きさに切り分けて、あるものは丸い型につめたり、あるものはまん丸に丸めたり、あるものは三角に切り分けて薄く延ばし、くるくるっと丸めてクロワッサンに、あるものは細長く……。とにかくいろんな形にしては、発酵のベッドに休ませていくわけである。


 さて、発酵が終わったパンたちは、オーブンで焼かれる運命である。

 彼女の身長では、一番上の段には間違いなく踏み台がなくては届かないであろう、三段になった大きなオーブン。表面がレンガ作りのようになっていて、売り場からも見えるこのオーブンは、訪れた客たちをワクワクさせるという役割も担っている。


 その下段に、生地が詰まった四角い型が放り込まれていく。

 真ん中には丸や、いろんな形のパン。

 上段には細長いフランスパンたち。


 さて、休むも間もなく作ったパンたちは順々に焼きあがっていく。


 焼きたてのパンからは、美味しそうな香りがする。

 

 分厚い手袋をした彼女が、熱々の型から食パンを取り出すと、台の上を焼きたてのパンがすべる、サァッという心地よい音がする。

 私はこの音を聞くのが好きなのだ。

 この時のために、ずっと作業を手伝っているようなものだよ。

 きつね色とはよく言ったもので、若いきつねの、きれいな毛並みのような色合いに焼きあがる。真四角のそれを、くるりくるりと回して焼き具合を見て、一斤だけを特製サンドイッチ用に寄せる。ランチタイムに出される数量限定特別メニュー。これも私の一押しだ。

 どのパンも、焼きたての瞬間は実に芸術的だ。ぱりぱりの生地のものも、しっとりとした生地のものも。どれもこれも、最高の香りと最高の音と、最高の見た目をしてる。 

 焼き上がり直後のフランスパンなんて、ちょっとだけ、じわじわパリパリって音がする。この音の心地よい事と言ったらない。ついひとなめといきたくなるけれど、叱られるので我慢である。


 夜が明ける。

 街に朝がやってくるころ、出て行く船と、帰ってくる船が見える頃。


 三角帽子の小さな魔女は、店の棚に、ようやくパンを並べ終える。

 レジ横には、魔女のハーブティーのティーバッグを並べて。

 お店の看板をオープンにしても、すぐにはお客さんはやってこない。

 

 魔女のお気に入りの時間は、お店のショーウインドウから朝日がさす頃。店の前のベンチでお客待ちながら、ハーブティーを飲んで一息つく、このほんのひとときだ。


 余ったパンの耳を、フライパンでカリカリにして、オリーブオイルとハーブソルトをつけて食べる。ハーブティーは、今日はエルダーフラワーを入れたブレンドにしたようだ。


「あっ」


 不意に彼女は、カップを慌てて横に置いた。


「へくしゅん!」


 くしゃみが出た。


「花粉が飛んできたな~」


 魔女であっても、花粉には勝てないらしい。

 あっ。むっとした顔で睨まれた。

 どうやら私の心が読めるらしい。さすがは、私の魔女である。


「今、失礼なこと考えたでしょ。もう、朝ご飯あげないわよ。漁師さんのとこに行ってお魚でももらってきたら?」


 そんなこと言って、いつもちゃんと、私のご飯を用意してくれていることくらい知っているよ、我が敬愛すべき主。


「にゃ~ん」


 私は声に出してそう伝えると、主の足にすり寄った。


 ここは「さんかくぼうしのパン屋さん」

 遥か昔、私一緒にやってきた男が開いた、魔女のハーブを使ったパン屋である。

 広い湖は今日も穏やか。

 今も禁足地であるあの魔女の島にいる、友人のカラスも、まもなく主にパンをねだりにやってくるだろう。


 さあ、お客がやってきた。

 早起きのおばあさんだ。


「さんかくぼうしのパン屋さん、開店で~すっ」

 

 

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