第2話『雨降っても地は固まらず』

【6月2日……地域のお天気です。午前中は晴れて穏やか空模様ですが、午後や夕方には局地的な大雨が降る予報です。帰宅時間と重なりそうですので、お出かけの際は大きめの傘をお持ちください。気温は……】

天気予報を聞きながら鏡の前で全身を隈なく確認する。いつもはここまでしない。髪が乱れていないか、襟がよれていないか、そのくらいしか見ないけれど今日は違う。

「変じゃないかなぁ。端野さんと会うの久々だから、変な格好だと恥ずかしいよ」

独り言を呟きながら私は鏡の前でくるりと回る。髪型は十八番のアップヘア。前髪は真っ直ぐ綺麗に揃っている。後れ毛もアホ毛もチェック済み。化粧は濃すぎず薄すぎず。お気に入りのピンクゴールドのアイシャドウに黒のマスカラ。柔らかなピンクのチークに肌馴染みのいいローズレッドの口紅。ほんのりラメが入ったグロスを重ねて完了。

テレビを消して玄関へと向かう。

四季彩は印刷部門は作業服勤務だけれど、事務系の職種については制服は無い。オフィスカジュアルの範囲内であれば、男性も女性も私服勤務となっている。今日は淡いピンクのブラウスにネイビーの膝丈のフレアスカート。足元は黒のパンプス。左腕にシルバーの腕時計。ふんわりとローズの香水を纏う。黒のバッグを肩にかけ、ドアノブに手をかけたところで、天気予報を思い出す。

『午後と夕方に大雨か。万が一のため、傘持って行こう』

いつも使っている青色の傘を手に取る。数秒悩んで下駄箱から黒の折り畳み傘を取り出して鞄に入れた。端野さんに限ってそんなことはないと思うけれど、時々ぼんやりしていてドジっ子な部分もあるから、もしかしたら傘を持ってこないかもしれない。帰宅時に土砂降りの雨。傘を忘れてロビーで立ち尽くす端野さん。そんな端野さんに「これ、使ってください」と折り畳み傘を差し出す私。

「いや……待てよ……」

折り畳み傘を差し出さずに「駅まで一緒に行きませんか?」って声をかけたら一つの傘に2人……相合傘で駅まで行けるのでは?

「どっちもアリだよね」

妄想だけで浮かれて家を出る。駅まで歩いて15分。一人暮らしをしている笹野森ささのもりから会社のある竹宮坂たけみやざかまで電車に揺られて20分。電車を降りて会社のある東口へと向かう。駅を抜けた先にある交差点。歩行者信号が変わるのを待つ人の中に端野さんを見つけた。

フワッと柔らかそうな黒髪は綺麗に整えられて、朝日を受けて艶やかに煌めいている。細い体躯を包むネイビーのスーツ。丁寧に磨かれた茶色の革靴。肩からかけたネイビーのバッグ。ジャケットの袖口から見えるシルバーの腕時計がキラリと上品に光る。

『朝から端野さんに会えるなんてラッキー!』

にやける口元を無理に引き締め、心の中で大きくガッツポーズをしたその時、端野さんがこちらを振り向いた。見事に視線が絡み合い、心臓が大きく跳ね上がる。

「あ!小松さーん。おはよぉー!」

私に向かって手を振りながら、端野さんが声をかけてくれる。もうそれだけでも嬉しくて倒れそう。だらしなくにやけそうな顔に力を入れ直す。

「おはようございます、端野さん」

端野さんの元へと駆け寄り挨拶を返した。そのタイミングで歩行者用の信号が青に変わる。自然と2人並んで歩く。

「小松さんと一緒になって良かったぁ〜。1人で営業部に行くのすごく緊張してたんだ。今日からまたよろしくね」

そう言ってくれる言葉だけでも嬉しくて幸せなのに、端野さんの可愛い最強スマイルもセットだ。今日はなんて幸せな日なんだろう。

「そんな……こちらこそ、またよろしくお願いします」

嬉しそうに端野さんが微笑む。はぁ〜幸せ〜。

駅から会社までは徒歩10分程。短時間だけれど、端野さんを独り占めできていることが嬉しい。ちょっとしたデートみたいだとも思う。そんな自分の妄想力の逞しさに恥ずかしさと誇らしさが同時に押し寄せる。

「そういえば、尾崎も今日からこっちなんだっけ?」

エレベーターの上ボタンを押して端野さんがそう問いかけてくる。営業部は8階にある。

「あぁ……そうみたいですね。朝イチの飛行機で帰ってきて、それから出社みたいです」

到着したエレベーターに乗り込みながら答える。私たちの他に乗ってくる人はいなかった。2人きりなのは嬉しいけれど、尾崎さんの話題が出たことでテンションはやや下がってしまった。

営業部のフロアに着くと、端野さんは篠田課長の元へと挨拶に行った。私は席替えをした新しい座席に座る。4席で1つの島になっている配置だ。それが3つ。上席に課長席と部長席。私の隣は端野さん。向かいの席は1年後輩の久那緋依くな ひよりちゃん。斜め向かいは……

『尾崎さんかぁ。座席離してくれるって言ってたからもっと離れてると思ったのに……めっちゃ近いじゃん』

まだ空席のそこを睨みつけるように眺める。距離にして2mあるかないか。もちろん顔は見えるし声も聞こえる。そして触れようと思えば触れることもできるだろう。

「おはよぉ。怖い顔してどしたの?」

向かいの席の緋依ちゃんが私の顔を覗き込むようにして声をかけてくれる。

「あ……ひよちゃんおはよ。いやぁ、尾崎さんと席近いなぁって思って」

緋依ちゃんは私と尾崎さんの関係を知っている。座席配置を見てなるほどといった顔で頷く。

「うわぁ。これは近すぎってかあたしの隣なの!?でもでも、すぐ近くに端野さんがいるじゃん!かっこいい王子様に守ってもらえるって!どんな展開になるのかあたし楽しみ〜!」

黒髪を可愛く丸みのあるボブに整え、マットなブラウン系メイクに黒縁の大きな丸眼鏡。華奢な腕には白い皮ベルトの腕時計。とても人懐っこくてお喋り大好きでお喋り上手。今日は淡いブラウンのブラウスに黒のパンツ。合わせる靴はゴールドの金具が輝く黒のハイヒールだ。仕事出来ます系女子……いや、本当に仕事が出来る。特にパソコンや機械関係に強く、技術部門から引き抜きの声がかかっているらしいけれど、本人曰く

「そういうのは趣味でいじるから楽しいんですよぉ。仕事になったらやる気無くしちゃうかも」

とのことだ。

緋依ちゃんが席に着いたところで端野さんも席に着いた。

「端野さん、お久しぶりです。今日からまたよろしくお願いします」

「久那さん、こちらこそよろしくお願いします」

2人して深々と頭を下げているのが可笑しくて、思わず笑みがこぼれる。

「あれ、僕の向かいの席って尾崎?小松さん大丈夫?篠田さんに言って席替えてもらおうか?」

座席表を見た端野さんが心配そうに聞いてくる。それだけでも嬉しくて胸がいっぱいになる。

「いえ、大丈夫です。他の人にも迷惑かかっちゃいますし……端野さんの傍の方が尾崎さんも真面目に仕事すると思うので」

「まぁ……ね。同期だし、張り合いは出るか」

納得したようである。1人で大きく頷いてから、端野さんはまだ片付いていなかった机周りの整理に取り掛かった。

その後の朝礼で端野さんの挨拶があり、さらに尾崎さんが午後にはこちらに顔を出すことが伝えられた。端野さんは再び私の直属の上司となり、尾崎さんは緋依ちゃんの上につく事になった。

「小松さん、これコピーお願い」

「はい!」

端野さんは早速仕事を振ってくれた。端野さん自身も真剣な顔でPCディスプレイを見つめている。メールチェックに簡単なエクセル作成、パワーポイントの作成。コピー機からは端野さんの席がちょうどよく見える。私はお願いされたコピー50部が終わるまで、端野さんの仕事ぶりを眺めていた。可愛い顔が、仕事中は凛々しい顔になる。時々悩んでいる風に上を向いてみたり、電話をしながら髪を触ったり、分厚いファイルを抱えてフロア内をちょこちょこ移動したり。

『何から何まで可愛すぎる……!!』

コピー機の前でこうして悶えていることを端野さんは知らない。いや、知らなくていい。こんな恥ずかしいこと知られたくない。

「端野さん、コピー終わりました」

「ありがとう!そのまま豊嶋さんに渡してもらえる?」

「はい」

豊嶋さんも仕事ができる。そしてとてもかっこいい。端野さんの次に私は豊嶋さんが好きだ。

「豊嶋さん、端野さんから預かった資料です」

「ありがとう!えぇ、どうしよっかなぁ。置く所ないんだよなぁ。一旦さ、篠の机に置いておこっか。これ使う会議に篠も連れて行くから」

「分かりました」

豊嶋さんは仕事ができる。抱えている仕事の量も多い。だからだとは思うけれど、机の上はいつもごちゃごちゃだ。資料とファイルの山。ディスプレイ脇に貼られた付箋。珈琲のボトル。筆記用具。

対して同じくらいの仕事量だと思われる篠田さんの机の上は割と片付いている。書類は重要度ごとにボックスに仕分けしてあり、PC周りもスッキリしている。ファイルは席の後ろに置いたラックに収納しているし。飲みかけのペットボトルやカップを放置しておくということもない。

『これは性格の問題……なんだろうなぁ』

豊嶋さんは営業部内の環境や机上整理について特にうるさくは言わない。対して篠田さんは定期的に見回り、あまりにもだらしない人には声をかける。声かけられ率ダントツ1位は尾崎さんだったのは言うまでもない。さすがの篠田さんでも豊嶋さんには言えないだろうし。

「篠田さん、これ置いときますね」

「えぇ??もぉー。豊嶋さぁん、ちょっとだけでも机片付けません??これじゃあ僕の領土がなくなりますって」

あ、言えるんだ。

「まぁそのうち」

「今すぐお願いしまぁーす」

任務を終えて自席に戻ると、端野さんが笑顔で声をかけてくれた。

「ありがとう。助かったよ〜」

あぁもうその言葉だけで今日1日頑張れます。

その後も穏やかに時間は流れあっという間に午前とお昼休憩が終わり、午後になる。お昼を回った頃から空は曇り始め、14時過ぎには土砂降りの雨になった。

「あーあ。振ってきちゃったね」

仕事の手を休めて端野さんはそう口にする。そのまま窓際まで移動した端野さんの後を私は追う。音を立てて窓を叩く雨粒は大きい。これはしばらく止みそうにない。雷も鳴りそうな暗い雲が空を覆っている。

「すごい雨ですね」

「小松さん、今日一緒に帰ろっか」

……え??端野さん、今なんて??

「あ、ご、ごめん。急に誘ったらびっくりしちゃうよね。もし、小松さんがよかったら、って話しで……」

「ありがとうございます。ご一緒してもいいんですか……?」

大雨を吹き飛ばすくらいの満面の笑顔を向けて、嬉しそうに大きく頷く端野さん。か……可愛い〜。と思っている間にその笑みは消え、キリッとした男の顔になる。そのままでジッと私を見つめる端野さん。口元にこそ笑みは残っているが、さっきまでの可愛らしい笑みではない。それはまるで獲物を狙うハンターのよう。

スッと端野さんが距離を詰めてくる。

「ご飯食べて帰ろ」

普段は可愛らしい声の端野さんだけれど、この時の声はいつもより低かった。

「え……いいんですか?」

ドキドキしすぎて声が裏返りそうになる。というか手汗がすごい。

「いいよ。小松さんのこともっと知りたいし。それに……小松さんも僕のこと知りたいでしょ?」

蛇に睨まれた蛙、とはまさにこのことか。いや睨まれているわけではないけれど、端野さんの異性として私を見る目に思考回路が爆発しそうになる。心臓も壊れそうなくらいだ。

「大丈夫。……僕が優しく教えてあげるから。ね?」

耳元でそう囁かれる。あれ?端野さんってこんな人だったっけ??こんな肉食男子だったの??待て待て、それは私が勝手に勘違いしているだけで、端野さんは純粋にご飯に誘ってくれてて、今後の仕事のためにお互いのことを知ろうとしてる。うん、そうだ。というか、それしかないでしょ。落ち着け私!!

「今日金曜日だし、時間気にしないで楽しめるね。終電過ぎたら泊まればいいんだし」

あっれ〜??おかしいな。端野さんってそんなあからさまな事言う人だったかなぁ?もしかして中身は尾崎さんですか??いやいや、んな事あるかい!なんて1人ツッコミが虚しい。でも本当に、端野さんらしくない。保安部で何かあったんだろうか?

「ちょっと!!どうしたのその格好!!」

篠田さんの叫び声で私と端野さんの2人の世界が終わった。2人して声がした方……営業部の入り口を見る。

「尾崎さんっ!?」

思わず名前を呼んでしまう。

頭から爪先までびしょ濡れだった。水滴を滴らせたままで事務所内に入ってくる。入り口近くの席の女子社員が慌ててタオルを取りに行き、尾崎さんに手渡した。グシャグシャな黒髪は顔にへばり付き、会社に立ち寄ることになっているのに着ているシャツは派手な柄シャツ。パンツもラフなチノパンで足元にいたってはビーサンだ。雨に濡れたのは仕方ないにしても……その格好はどうにかならなかったのだろうか。出向に行って少しはまともになって戻ってくるかと思っていたけれど、そんなことは全くなかった。

『そりゃそうだ。現地妻作る時点でどうしようもないもんな』

呆れてため息すら出ない。

「小松さん、仕事に戻ろう」

「は、はい!」

端野さんが私の腕を引き、席へ戻ろうと促す。端野さんはこんな風に触れてくる人ではない。それになんだか怒っているようでもある。端野さんらしくない端野さんに戸惑う私の元へ、尾崎さんが近づいてきた。

「ゆづ、会いたかった」

何を思ったのかそのまま両手を広げて私を抱きしめようとする。冗談じゃない!付き合っている時ですら会社ではやめてもらいたいのに、浮気されてこっちから振った人に、しかも全身びしょ濡れ状態の時に。後ずさる私、近づく尾崎さん、騒めく周囲、そして、そんな私と尾崎さんの間に割り込む人。端野さんだった。

「やめなよ。小松さん嫌がってるじゃん。それに尾崎が浮気して振られたんだろ?これ以上嫌われないようにした方がいいんじゃないのかな」

端野さん〜!!かっこいいです。なんだか少女漫画のヒロインになった気分。

「んだよ。雨降って地固まる、って言うだろ。な、ゆづ」

「固まるわけないでしょ!!」

端野さんの後ろからそう叫ぶ。端野さんは両手を広げ尾崎さんから私をガードしてくれている。なんと頼もしい王子様。ますます好きになってしまう。

「あいつとは別れてきた。俺にはゆづが一番なんだ」

あぁ、もう。そういう発言がダメなんだよ。しかもここ会社ですけど。なに?最低限のモラルや常識すら捨ててきたんだろうか??

「尾崎くん、尾崎くん。とりあえず今日は挨拶だけでいいから。挨拶終わったら帰っていいから。来週から頑張ろうね。ね?」

篠田さんがやっと止めに入る。まるで小学生を諭すような言葉だ。尾崎さんも篠田さんには逆らえないようで、素直に頷く。全く本当に小学生みたいな態度だ。去り際に思いっきり端野さんを睨みつけていく。端野さんも負けずに睨み返している。これは……もしかして……

「やめて!2人ともやめて!!私のために争わないで!!」

という展開でしょうか??うわぁ、本当に少女漫画みたい!!いやでも今時こんなベタな展開の少女漫画もないか。そうか。

「雨降って地固まる、だって。あいつ、自分がどれだけ小松さんのことを傷つけたか気づいてないんだね。あんな奴に……」

悔しそうに端野さんが呟く。端野さんがそう思ってくれるだけで私は嬉しいです。

「帰りには雨止んでるといいですね」

私は尾崎さんとは関係のない話を切り出す。完全に吹っ切ったつもりだけれど、実際に会うとまだ心が痛む。尾崎さんのことを好きだった気持ちは本物だったから。

「そうだね。ご飯、どこにしよっか?」

そう言って振り返った端野さんには、いつも通りの、私の知っている端野さんの笑顔があった。そのことにほっと安心する。

雨はまだまだ止みそうにない。この土砂降りの中を、尾崎さんはまた帰るわけである。それはそれで哀れだと思う。そういえば……傘を2本持ってきていることを思い出した。……いやいや、もう優しくしたらダメだ。

PCに向かう端野さんの顔は、いつも通りの端野さんだ。さっきまでの端野さんは一体なんだったんだろう。

『僕が優しく教えてあげる……か』

それこそ漫画や小説の中のセリフだよなぁ。

何をどう教えてくれるのか。あまり考えないように、私も仕事に戻る。それでもどうしても心が落ち着かない。

「いやぁ、尾崎くん相変わらずだったねぇ」

そう言って豊嶋さんが笑う声が聞こえてくる。そうですねぇ、と篠田さんが相槌を打つ。豊嶋さんも篠田さんも尾崎さんに甘すぎる。もっと叱ったり注意してくれてもいいのに。

心が落ち着かないまま、私はPC画面を見つめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕が優しく教えてあげる 水鏡 玲 @rei1014_sekai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ