僕が優しく教えてあげる

水鏡 玲

第1話『突然の人事異動』

「え!?端野はたのさん、戻ってくるんですか!?」

「そ。よかったね」

それは5月終盤のことだった。

小さな印刷会社【四季彩】営業部に在籍している私、小松優月こまつ ゆづき。30歳。入社して10年目。中堅と呼ぶには早いような気もするけれど、新人でもない。なんとも言い難い中途半端な位置にいる事務社員。

四季彩には夏と冬の年2回、人事異動がある。退職や中途採用など、夏冬に限らず起こる場合もあるが、部署異動の半数以上はその時期にしか行われない。それなのに……

「あの…篠田さん、端野さん何かやらかしたんですか?」

人事異動時期を無視した部署異動。何か問題を起こしたのではないだろうかと勘繰ってしまう。

課長の篠田さんはその質問を受けてオーバーなくらい「いやいやいやいや」と大きく手を振った。

「違うのよ。そんなんじゃないの。小松さんだってよく知ってるでしょ?端野くんがそんな子じゃないって。僕がね、保安部にお願いして戻してもらったの。端野くんも快く了解してくれたし」

メールチェックをしながら、嬉しそうに篠田課長が話す。端野さんは私より3歳年上の先輩で、入社後は保安部に配属。その後私より2年早く営業部に異動。そこで5年過ごした後、また保安部に異動になった。

保安部は会社全体の保守点検や安全管理、緊急時対応等の非常時も含め、インフラ全体を管理している部署だ。警備もやるし印刷部の機械の点検もするし、労災発生時や災害時の救急任務の初動対応もする。縁の下の力持ち的な部署であり、業務内容もかなり専門的になっている。篠田課長の話によると、会社全体を背負うエリートたちの集まり、らしい。場合によっては人事部よりも強い権力を持つとかなんとか……。

端野さんもその例に漏れず、確かにエリートだった。営業部にいた頃は私の直属の上司であり、優しく丁寧に仕事や社内のことをそれはたくさん教えてもらった。仕事は出来るがそれに奢ることなく、どこまでも謙虚で穏やかで優しかった。身につけているスーツやネクタイ、腕時計など華美ではないし超高級品でもないけれど、端野さんが身につけているだけで上品で美しかった。

そんな端野さんのことが私は好きだったし、憧れだった。だから保安部に戻るという異動が発表された時はものすごく落ち込んだし、悲しかった。異動後数ヶ月はとにかく寂しくて、何かと理由を作っては保安部まで足を伸ばした。

それから3年。中途半端な人事異動の発令と共に端野さんが営業部に戻ってくる。悪い異動ではないようだけれど……なんか引っかかる。

「あとね……これは小松さんあんまり嬉しくない異動だと思うけど、はい。これ見て」

うーん、と色々考えていた私に篠田課長が1枚のコピー用紙を差し出す。受け取って印字された文字に目を通す。

【異動通知  出向解除。弊社から月舘印刷株式会社へ出向していた尾崎宏おざき こうについて、5月末にて出向解除とし6月1日より弊社営業部へと異動とする。】

「えっ……尾崎さんも同じ時に戻ってくるんですか!?」

まさかの異動に思わず顔を顰めてしまう。それもそのはず、尾崎さんは私の元カレ。端野さんと同期ではあるが見た目も性格も正反対。スーツは似合うし仕事も出来るが、どうにもだらしない。髪は寝癖のままで出社、二日酔いのまま出社、どこの女か知らない人と一夜を過ごしそのまま出社……そんなことを数え上げればキリがない。そんなにだらしない男の人とどうしてお付き合いをすることになったのか。数年前、忘年会後の二次会で口説かれた。私も酔っていた。お酒のせいにはしたくないけれど、二次会後にそのまま尾崎さんとホテルに泊まり関係を持ってしまった。それがきっかけだった。私にとって、初めての人だった。尾崎さんもそのことを気にしたようで、フワッとした流れではあったけれど、お付き合いをすることになった。本音を言うと、端野さんが好きだった。けれど、私は尾崎さんと関係を持ってしまった。お付き合いをする前に。そんな人を、端野さんが好きになってくれるとは思えなかった。順調ではなかったけれど、尾崎さんとのお付き合いは続いた。相変わらずだらしない部分はあったけれど、優しかったし楽しい人で、ほんの少し人見知りで、そんなところが好きになっていった。勢いで重ねた体だったけれど、そっちの相性も良かった。このまま何年かお付き合いをして、いずれ同棲して、結婚を考えるようになるんだろうな。そんなことを考えていた矢先に尾崎さんの出向が決まった。飛行機か新幹線を利用しなければならない県外出向だった。その出向先で尾崎さんは浮気をした。電話口で喚き問い詰める私に対して、特に悪びれる風もなく

「ウルセェな。現地妻みてぇなもんだろ。こっちにいる間だけだって。嫌ならゆづがこっち来て相手しろよ」

そんなことを言ったもんだから当然の如く別れを伝えた。尾崎さん側は納得していないようだが、私の中では完全に過去の人だ。戻ってきて謝ったところで元サヤなんてあり得ない。そんなことより端野さんも戻ってくる。今度こそ端野さんに想いを伝えるチャンスだ。

「端野くんも尾崎くんも6月2日にはこっちに顔出すことになってるから。歓迎会のことは僕と豊嶋部長とで考えてセッティングするね」

豊嶋部長は篠田課長の入社時からの上司だ。お気に入りの部下らしく、とにかく頼りにしているし、評価も高く、大事な会議や打ち合わせには必ずと言っていいほど同席させる。すらりと背が高く、40代半ばとは思えない若々しさとサラツヤな黒髪、そして知的なメガネが似合う豊嶋部長は、私たち事務社員から見てもカッコよかったし頼りになる人だった。部長だからと上席に踏ん反り返っているわけではなく、部下たちにも気さくに話しかけてきてくれる優しい人だ。

「小松さんは座席と体制表の更新お願いね。雛形はメールで送っておくから」

「わかりました」

送られてきた座席表を確認し、今まで隣同士だった私と尾崎さんの席が離れていることに安堵する。私の隣は端野さんになる。

6月2日まで、あと数日。

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