夜半の月が招く夢。

羽鳥(眞城白歌)

どうか私を照らさないで。


 暑さの盛りが過ぎ、吹き抜ける風にわずかな寂寥せきりょうが混じる頃、私の心はわけもなく騒ぎたつようになりました。

 いったいどうしたというのでしょう。今は卒業論文の締め切りに追われることもなく、憧れてやまなかった工房に受け入れていただけて、素敵な……方との交際も、順調で。私の毎日は彩りとときめきにあふれているというのに。

 理由が思い当たらない胸騒ぎには、ここ数日ずっと悪い夢を見ていることが関係しているかもしれません。起きると夢の内容は覚えておらず、激しい動悸どうきに、ひどい汗、私の頬を濡らす涙の跡など、よほど恐ろしいものを目にしたのだと思うのです。

 悪い病ではないかと心配になり、同じテラスハウスの隣に住む親友に相談したところ、彼女は柳眉を寄せて思案したあとで、こんなことを提案したのでした。


「リリー、君のそれは人恋しさから来るものに違いないよ。何なら私が君に添い寝をしてあげようか?」

「な、何を言いだすんですかっ、ロベリアってば。そんな、子供ではないのですよ!」

「子供じゃないからこそ恋しいぬくもりというものがあるだろう。うん、私の添い寝は冗談にしても、君たちの交際がスタートして十月が経とうとしている。そろそろ彼と一つ屋根の下で暮らしてもいい頃合いだと、私は思うんだよね」

「そんなっ……アッシュさんにだって心と身の回りの準備というものが、あると思うのです……」


 私とアッシュさん――憧れの職人で、雇い主で、今は私の恋人――との交際が始まって十か月ほどになりますが、実はまだ私たち、キスもできていないのです。それはアッシュさんのせいではなくて、私に……問題があるからなのですけれど。

 手をつなぐことにようやく慣れて数ヶ月。大人の恋人としてのお付き合いですから、きっと彼も先に進むことを期待していると思うのです。現に、二人きりで良い雰囲気になったことは幾度となくあり、彼が私に……口づけようとしたことも、何度かあって。

 以前の私は鍛治師としての、また細工師としての彼に、心の底から憧れておりました。彼の造る繊細ながら力強い武器に、自分が学んだ魔法効果を乗せることが楽しくて、彼を異性として意識していたかと問われれば、否だったのでしょう。


 彼との距離が変化したのは、一年ほど前の事件が切っ掛けでした。

 昨年の今頃でしょうか、私は自分自身の不注意のせいで恐ろしい目にったのです。言葉巧みに近づいてきた男性に人気のない路地裏へ誘い込まれ、危うく心身ともに蹂躙じゅうりんされるところでした。そんな私を助けてくれたのが、アッシュさんだったのです。

 あれから一年、身体に傷跡は残っていません。でも、私の心を満たした恐怖と絶望感は今でも記憶にくっきりと残っていて。アッシュさんは、怖くないのに。ひどいことなんてしないのに。こんなに大好きなのに、私は彼の息を感じた途端、心が萎縮して、身体が勝手に震えだしてしまうのです。


 キスに至らぬ触れあいを二度ほど経て、彼は私に口づけるのをあきらめたようでした。

 大人のような振る舞いができず、申し訳ない気持ちがいっぱいです。彼のもとを去るべきかと思い悩みつつも、彼の「ゆっくり進もう」という言葉にすがって、私たちは寄り添いあうだけの交際を続けているのです。

 深く結ばれることを拒否し続けているのは私自身なのに、彼の元に押しかけるなんてこと、できるわけがありません。

 うつむいた私の頭をロベリアは優しく労わるように撫でてくれました。彼女は「わかってるよ」と前置いてから、こう続けたのです。


「私が付き添うから、行こう。今の君に必要なのは間違いなく、彼の助けなんだから」


 姉のような口調で優しく諭されて、私はようやく、勇気を振り絞り、決心を固めることができたのでした。




 アッシュさんとロベリアは、事前に打ち合わせでもしていたのでしょうか。お泊まり用の荷物を旅行バッグにまとめ工房へまで行くと、アッシュさんはあれこれ詮索したりせずに私を受け入れてくれました。しかも居住スペースの一室を、私用にリフォームしてくれたというのですから驚きです。

 桜の模様があしらわれた壁紙と、大きなベッドにはベージュ色のお布団セット。どこかからよい香りが漂うお部屋には、クローゼットや本棚、机もあって、狭すぎず広すぎず使いやすそうでした。荷物を置いてそっと覗きみれば、ロベリアが私に笑いかけます。


「私は帰るね。また遊びに来るよ」

「えっ、お茶くらい飲んでいきませんか?」

「私も仕事があるからね。リリーは寝不足なんだから、無理せずのんびり過ごすといいよ」


 引き留める隙もなく彼女は帰ってしまい、私はアッシュさんの家にお泊まりすることになったのでした。

 実は私、彼の家にお泊まりするのはこれで二度目なのです。一番最初はあの……思いだしたくもない、襲われた直後です。衣服がなくて家に帰れない私を泊めてくれたのでした。あのとき彼がくれたブランデーと蜂蜜入りのホットミルクは、とても温かく美味しくて、壊れそうだった心が慰められたのを覚えています。

 そういえば、あのおぞましい出来事は、一年前の今日……だったでしょうか。


「リリー、今日は早めに店を閉めてゆっくり過ごそう。夕飯には君の好きなものを作ってやるよ。何がいい?」

「そんな、私のことはお構いなくです!」

「今日は俺にとっても大切な日だから、そうしたいんだ。君こそ、今さら俺に遠慮なんて無しだろ」

「あ……はい、ありがとうございます。それなら私、アッシュさんのホットミルクが飲みたいです」


 なにか今のやりとり、恋人同士っぽかったんじゃないでしょうか!?

 自覚したら恥ずかしくなって、顔が燃えそうに熱くなってきました。どうしましょう、はしたないことを考えていると勘違いされてしまったら、私。

 低い声でアッシュさんは笑い、わかった、と言って立ちあがりました。よく考えたら、私のリクエストは夕飯のメニューではありません。そんなことに気づいて別の意味で恥ずかしくなってきました。私、何を浮ついているのでしょうか。

 

 その後は穏やかに夕飯――サーモンのクリーム煮と、野菜たっぷりのオニオンスープと、温野菜のサラダ――を楽しんだあと、ホットミルクを飲みながら流行りのデザインについて二人でお話ししました。窓の外はとっぷりと日が暮れてゆき、それとともに私の胸がまた意味もなく騒ぎます。アッシュさんは何かに感づいていたのでしょうか、私に湯浴みを勧めてくれました。

 きっと私は、大好きな人の家に泊まることになって、興奮しているのでしょう。普通の恋人同士であれば、これは、その……ロマンチックな関係への前段階、というところでしょうけど、キスも未経験な私に彼がそれ以上を求めるとは思えませんから、つまり……どういうことでしょうか?


 温かなお湯で髪と身体を洗い、深い浴槽にゆったりと浸かって――思った以上に深くて溺れるかと思いました――裏起毛のネグリジェに身を包んだ私は、ふわふわとまとまらない思考を持て余しながら部屋へ向かいました。

 アッシュさんの家には、珍しい硝子ガラス板をはめ込んだ窓があり、夜半よわの月が煌々こうこうと輝いているのが見えます。この季節らしい、美しく冴え冴えとした月が――、


「あっ……ああっ」


 突然、胸の内側に黒い恐怖が湧きあがったのです。指が、唇が、いえ、全身がガタガタと震えだしました。慌ててカーテンを閉め、ベッドに潜り込みます。何かが私を上から押し潰そうとしているようでした。物理的な重さはないのに、指の先すら動かすことができず。

 月を背に、誰かがニタリと笑っています。きちんと服を身につけているのに、誰かの手が肌の上を這い回っているのです。涙があふれだし、真新しいシーツに染みができていきます。キスも未経験だなんて、私は、なんて欺瞞ぎまんを自分に言い聞かせていたのでしょう。私の唇は見知らぬ暴漢にあのとき吸い尽くされ、汚れきっているというのに。


「あ、あぁ……、うぅ、あうぅっ」


 呼吸が、おかしくなりそう。息を吸っているのか、吐いているのか、それすらもわからない。私は今、現実にいるのでしょうか。それとも、これは……この粘りつくような指の感覚は、夢なのでしょうか。


「リリー!」


 バン、と部屋の扉が勢いよく開きました。大柄な姿が、私の大好きなひとが、部屋に飛び込んできて。ベッドの上でもだえる私に駆け寄り、腕を伸ばします。私は悲鳴をあげました。私は、ふさわしくないのです。優しく、美しく、素晴らしい彼には、汚れていない、可愛くて、賢い女性がお似合いなのです。

 いつもなら、手を止めてくれるのに――、

 彼は、逃れようと暴れる私を抱きすくめました。突き放さねばと思うのに、その太くたくましい腕は私の力ごときで動かすことなどできず。服越しに感じる厚い胸板と力強い腕に囚われて、布を通り抜けて伝わる体温はあまりに優しく心地よくて。

 ああ、なんて愚かなのでしょう、私は。

 この温かなおりに囚われたまま、彼の鼓動の音を聴いていたいと。この優しいひとに心をゆだねて、眠ってしまいたいと。そう、望んでしまうなんて。


「大丈夫だ、リリー。俺だけを見ろ」


 低い声が、ぬるい息が、私の耳をくすぐって、私は背筋があわ立つのを感じました。でもそれは……不快とか、恐怖とかではなく。


「君を恐れさせる夜にも、俺が君の側にいて、君を守るから」


 ――どうして、どうして。

 こんなに、優しくしてくれるのですか。

 

 凍えて消えかけていた私の鼓動を力づけるように、彼の鼓動が重なります。乱れた息を正すように、彼の規則正しい呼吸が私の耳をくすぐります。力強い彼のすべてが、壊れかけた私のすべてを優しく肯定こうていしてゆきます。

 はい、と返した声は涙にまぎれてしまったけれど。彼は深く、はっきり頷いて。そのまま朝まで私をいだき、嘲笑あざわら夜半よわの月から守ってくれたのでした。




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