由梨恵

@watertime

第1話

 朝から激しい雪で窓に顔を寄せても空は見えなかった。午後を廻ると風は止まり雪はゆっくりと垂直に降り始めた。雲の合間から月のような太陽が差し込み、近くの山々と雪で重くなった木々が蒼い翼のような影を粉雪のベルベッドに落としていた。そして、今、大粒のやわらかい雪の結晶が白い銀狐の毛皮のように窓を覆うペンションの休息と静寂のなかで、わたしは幼きころの記憶を紡ぎだそうとしている。でも、わたしは健康だけれども、とても疲れている。だから、わずかな段落ずつ、それもどうにか休みやすみしながらしか書き進めてはいけないでしょう。わたしの自叙伝、でも、わたしは、生まれた日も、赤ん坊を抱く柔らかい胸のことも知らないので、どこから書いていいのか迷います。最近覚えた混沌という言葉、わたしはきっと、そう、混沌の渦巻きの中から生まれたのかもしれません。わたしを顕す言葉は由梨絵、そして、わたしの名付け親は施設の園長先生、だから、それもおそらく恋愛小説のような読み物から探しだしたものかもしれないわね。でも、そんなことを話しても仕方がないから、わたしは由梨絵なのだわ。


 でははじまりね。はじめに言葉があった。でも、わたしが生まれたところには言葉は無かった。気が付くと、わたしは赤ちゃん部屋にいて、そこには聖なる命への慈愛は無く沈黙と叫びだけがあった。ただ、海の水の戯れが造りだした泡としかいえない寂しい坊や、嬢ちゃんたちがいただけ。わたしがそこで初めて聴いたのは叫び声だけだった。でも、それはわたしの感覚が間違っているのかもしれない。でも、そうとしか表現できない、それがわたし。


 わたしに、ひと心が付いたのは一歳を過ぎたころだったろうか。小さな寝床から窓を覗き込むと風にそよぐ緑の葉波が見えた。わたしは空に向けて手を伸ばしたけれども、何も掴むことは出来なかった。でも、朝、わたしが眠りから覚めると、隣の寝床から手が伸びていた。わたしの手を掴もうとしたけれども届かなかった。でも、大きく見開いた黒い眼は、わたしにいつまでも続く絆を結びたいと願っていたのかもしれない。


 郊外から山裾に向かう静かなところに施設はあり、年月を経た木造の校舎を思わせる建物の周りを椎の木が囲んでいて、夏でも涼しい風が開け放した玄関を通して廊下から部屋に流れていた。わたしの部屋には窓がひとつあって外側が雨の跡で汚れていて、だから外は晴れていても、その雨の跡が涙のようで、いつも泣いているように見えた。おもちゃもなかったから、わたしは俯いて掌を結んだり離したりして眺めるしかなかった。


  窓の下に華やかな薔薇の花壇があり、朝になると露を浴びた紅い薔薇が頭を垂れて光に煌めいていた。顔を上げると空は透明な蒼さの紺碧がどこまでも続いていて、雲が金色の靄のように薄くかかっていた。わたしは薔薇が好きだった。よくひとりで薔薇の前に座って飽きることもなくずっと眺めていた。いつか、わたしも薔薇のようになれるかもしれないなんて考えていたのかもしれないわね。薔薇にそっと触れて、唇を近づけてふっと息を吹きかける。儚い花びらは揺れて清楚さの秘密を解き明かしてくれるみたい。わたしにとって、薔薇は希望であり、薔薇そのものがそれをちゃんと心得ているように感じられた。

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