第120話 これは罰だ(第三者視点)

 ようやく見つけた愛する人は、虫の息だった。


 痩せ細り、身体にはたくさんの傷や痣がついていた。

 目は潰され、声を失っていた。


 そして――


 死を望んでいた。


 ◇


 川から引き上げたエルフィーランジュは、衣服に水が含まれているとは思えないほど軽かった。


 彼女の身体を横たえると、痩せ細った身体と顔つきに息を飲む。


 使用人よりもみすぼらしい衣服から出た手足には、無数の傷と痣があり、艶を放つ長く見事な銀髪は、女性としての誇りを踏みにじろうとしたかのように、バラバラの長さに断たれていた。


 女性らしい丸みを帯びていた頬は瘦け、鎖骨が恐ろしい程浮き上がっていた。もちろんそこにも、傷や痣がついている。


 これだけで、彼女がどれだけの暴力に晒されてきたのかが分かった。


 さらに残酷な事実が、ルヴァンを襲う。


 エルフィーランジュは、目と声を失っていたのだ。


(助け出すのが……あまりにも、遅すぎ、た……)


 彼女を抱きしめると、どれだけ痩せ細ったのかが伝わり、涙が溢れて止まらなくなった。


 暴力に晒され、光を奪われ、声を失った愛する人が、計り知れぬ苦痛の中で何を思って生きながらえてきたのか。


 僅かに想像しただけでも、心を引き裂くような痛みと憎悪がわき上がり、それ以上何も考えられなくなる。


 いや、それ以上考えれば、自分は間違いなく狂う。何も考えられなくなったのは、それを阻止するための防衛反応だったのだろう。


 まだ、聞かなければならないことが残っている。

 聞くのが恐ろしくて堪らない問いが――


「……ティオナは?」


 エルフィーランジュの唇が動く。

 

『ころ、され、た……』

 

 彼女が何を言っているかは分かった。

 だがその意味を理解することに、長い時間を要した。エルフィーランジュの言葉を、ルヴァン自身が理解することを拒んだからだ。


 だが、最後には理解してしまった。

 自分の大切な娘がもうこの世にいないことを――


 目の前の世界が、自分の知っている世界ではないような非現実感に襲われた。何かに操られるように、口が勝手に動いた。 


「君に、ティオナに、これほどまでに惨たらしい仕打ちをしたのは……あの男――ソルマン・ベルフルト・ド・バルバーリか?」


 エルフィーランジュは頷いた。


 自分が欲しかった問いに、全ての回答が得られた。


 エルフィーランジュとティオナは、ソルマンに誘拐された。

 娘は殺され、妻は虫の息。


 もう何も考えられなかった。

 怒りとか憎しみとか、そういうものを通り抜けた先にある感情は、無なのだと知った。


 追い打ちをかけるように、エルフィーランジュがルヴァンの手を掴み、骨が浮き上がった自身の首筋に当てた。


 血の気を失った唇が動く。


 殺して、と――


 ルヴァンの感情は拒絶した。


 愛する人を失いたくないと。


 だが彼女を励ます中で、ルヴァンの理性が言った。


 もう彼女を楽にしてやるべきだと。


 この世界の醜さと残酷さに、精霊女王たる彼女はさぞかし絶望しただろう。 

 だから一刻も早い現世からの解放を、自分を含めた穢れた人間たちからの解放を、望んでいるのだ。


 ならば――叶えてやるべきではないか? と。


 彼女の首を両手で掴みなおすと、ゆっくりと力を込めた。同時に、溢れ出た後悔と懺悔が、謝罪の言葉となって零れ落ちる。


「フィー……すまない、本当に……すまない……全ては私の……わたしの、せいだ……」


 こんな言葉が今更何の免罪符となるのかと、頭の隅で別の自分が嘲笑うのを聞きながらも、止めることはできなかった。


 唇を重ねると、彼女の腕がルヴァンの背中に回された。しかし、次第に力が抜けていくのが分かる。


 背中に回されていた腕が地面に落ちた瞬間、エルフィーランジュの身体が白い光の粒となって消え去った。


 一瞬のことだった。


 遺体は残らなかった。

 彼女が身につけていたものだけが、地面に残されているだけだった。


 それだけが、愛する人がこの世に存在した証だった。


 残った衣服を握りしめると、心の奥底から到底言語化できない感情が、もの凄い熱量とともに迸った。


「フィー――――っ‼」


 声が出なくなるまで叫んだ。

 彼女の服を握りながら、何度も何度も地面に拳を打ち付けた。服が自身の血で真っ赤に染まる頃、ようやくルヴァンは動きを止めた。


 ふと視線を自分の首元に向けると、鎖を通した指輪が光った。


 フォレスティの星と呼ばれる希少性の高い宝石が使われた指輪であり、エルフィーランジュと夫婦になったとき作らせたものだ。


 彼女も左薬指に着けていたはずだが、ここにないということは、ソルマンに取りあげられたのだろう。


 ルヴァンは、遺品の中に自身の指輪を加えると地面に埋めた。そして遺品を埋めた土の上に何度も短剣を突き立て、何度も何度もソルマンへの憎しみを、死を叫んだ。


 しかし妻を攫った男への憎しみは、やがて自分自身へと向かう。


 確かに、エルフィーランジュが死んだのはソルマンが直接の原因だ。

 だが、


(元はと言えば、私が彼女を現世に引き留めなければよかったのだ)


 そうすれば、エルフィーランジュもティオナも苦しまなくて済んだ。

 こんな悲しい最期を迎えなくて良かったのだ。


 フォレスティ王国に戻ったルヴァンは、弟に全てを打ち明けた。

 バルバーリ王国に報復すべきだと訴える弟の言葉を、彼はただ静かに首を横に振っただけだった。


 そして、精霊女王と精霊について書き綴った記録を弟に託し、こう言った。


「もし、彼女がこの世界に再び降り立ったとき、フォレスティ王家の総力を挙げて助けてやって欲しい」


 今度こそ、幸せに生きられるように――


 弟は頷いた。

 フォレスティ王国は、精霊女王がいたからこそ存続できたのだ。それに自分にとっては義姉にあたる大切な家族。


 兄の願いを断る理由などなかった。

 二つ返事で了承し、後世にも伝え続けると付け加えた。


 弟の返答を聞いたルヴァンは、初めて笑顔を見せた。そして一言、ありがとうと感謝を伝えると、弟の前から立ち去った。


 これが兄弟最期の会話となるとは、誰一人予想もしなかった。


 ルヴァンは夜中、城を出た。

 馬にのって辿り着いたのは、エルフィーランジュと初めて出会った水源の辺。


 まるで鏡のような水面を見つめると、水の上に浮かび眠る彼女の姿が思い出された。

 

 長い銀色の髪を広げながら、両手を組んで眠る姿は、この世の者とは思えないほど神秘的で美しかった。ルヴァンが近付くと、長い睫毛が揺れ、宝石のように輝く紫の瞳が姿を現す。


 いつもこの瞳の輝きに魅せられた。


 危ないと何度伝えても、水の上で眠ることを彼女は止めなかった。

 大精霊によって守られていると知りつつも、ハラハラしていたものだ。


 だがルヴァンが彼女に、水の上で眠るのを止めるように言っていたのには、もう一つ理由があった。


 エルフィーランジュが、精霊たちに濡れた身体を乾かして貰うまでの間、目のやり場に困っていたからだ。濡れた服が肌に張り付き、生々しく身体の線を浮き立たせていたのが理由だった。


 タチが悪いことに、精霊女王様はそれが恥ずかしいことだと、ルヴァンの理性を翻弄することだと、全く気付いていない。


 偉大な力を持ちながらも、まるで子どものように純粋な彼女に堪らなく惹かれていた。

 七日後に消滅すると聞いたとき、偉大なる精霊の母に対して抱く気持ちが何なのかを確信した。


 消えてほしくない。

 これからも自分の傍にいて欲しい。


 愛という身勝手な欲望を、彼女に押しつけた。


 その結果――精霊女王という偉大なる存在を歪め、堕とした。

 子まで成したのに、夫として父親として、二人を守り切れなかった。


「……すべて、私のせいだ」


 愛する人を歪めてまで得た幸せは、愛する人をこの手で殺めて終わった。


 ソルマンが、何故エルフィーランジュとティオナを誘拐したかは、今でも分からない。でも理由など、もうどうでも良かった。


「これは罰だ」


 精霊女王を歪め、苦しめ、殺したルヴァンへの――


 手にした短剣を首筋に当てた。

 

 脳裏で揺れるのは、彼女とともにたくさん交わした会話。

 自分の告白を受け入れ、初めて口づけた光景。

 産まれたばかりのティオナを、この腕に抱いた喜び。


 歓喜するルヴァンを幸せそうに見つめながら微笑む、愛する人の姿。


 身体が崩れ落ちた。

 辺り一面が、噴き出した血によって真っ赤に染まっていく。


 薄れていく意識の中、赤く染まった花の向こうに、失った家族の笑顔を見た気がした。

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