第117話 夢の終わり

 

 ティオナがいない今、ソルマンに怯える必要はない。

 だから川に向かいながら、私は霊具に捕らえられた精霊たちが解放されるよう祈った。


 しかし、霊具に捕らえられた大精霊が、私の元に戻ってくることはなかった。


 音を頼りに川までやってきた私が水にこの身を浸すと、案の定強い流れに襲われ、溺れて意識を失った。


 だけど奇跡的に生き延びた。


 意識を取り戻したとき、身体が川の少し浅い部分にあった何かに引っかかり、それ以上流されることを防いでいたのだ。


 胃の中に大量に入った水を吐き出すと、両手で周囲を探りながら、なんとか岸辺に這い出ようとした。


 しかし服が水を吸い、弱り切った腕では身体を持ち上げられない。

 何度も岸に上がろうとして失敗し、諦めかけたそのとき、


「……フィー?」


 初めは、死にかけた幻聴かと思った。

 しかし、


「フィー‼」


 懐かしい声とともに、身体が水の中から引き上げられた。私を救った腕が、この身を横抱きにしながら軽く揺ってくる。


 この目ではもう見えない。

 しかし、私の名を呼ぶ声も肌に触れる感覚も、忘れるわけがない。


『ルゥ……』


 私の唇が動くと、ルヴァンが息を飲む音がした。

 間髪入れず、身体が強く抱きしめられる。


「こんなに……こんなに痩せて、ボロボロになって……すまない……本当にすまない、フィー……助けが遅くなって……ほんとう、に……」


 後悔の言葉が耳に届く。

 だけどそんな言葉、どうでもよかった。


 奇跡が起こった。

 愛する人と再会できた。


 もうそれだけで充分だった。


 嬉しかった。

 嬉しい、嬉しいと心の中で唱えるたび、目の奥と瞼の下にがジワッと熱をもつ。


 七日間で消滅する私が存続を選んだ時、嬉しいと涙したルヴァンの気持ちが――人は嬉しいときにも涙が出るのだということが、初めて理解できた。


 何とか力を振り絞り彼の頬に触れると、ルヴァンがその手に重ねるように強く握り返した。


 彼の息が近い。そう思ったとき、


「フィー……その傷は……目を傷つけられたのか⁉ まさか……そのせいで目が……」


 彼の指が目の傷に触れた。

 左のこめかみ辺りから鼻根をとおり、右のこめかみ辺りまで、一直線に残った傷をなぞる。


 ソルマンに目を傷つけられた後、治癒魔法で癒やされはしたが傷は残った。いや残ったのではなく、罰としてあの男が残したのだ。


 小さく頷くと同時に、空いている手で喉を指差し、ゆっくりと首を横に振った。

 私が言わんことを察したのだろう。ルヴァンの絶望的な声色が鼓膜を震わせる。


「……うそ、だ……こ、え……まで……」


 ポツポツと、私の頬に生暖かいものが落ちた。


 ルヴァンが泣きながら、再び強く私を抱きしめる。

 嗚咽を堪えるようにしゃくり上げるような呼吸と、気持ちを落ち着かせるための深呼吸が、私の耳元で繰り返された。


「……ティオナは?」


 心臓が跳ねた。

 バルバーリ王妃の言葉を思い出し、絶望が蘇る。


『ころ、され、た……』


 彼にティオナの死を告げることが、一番辛かった。


 ルヴァンは何も言わなかった。

 長い長い沈黙の後、恐ろしいほど冷たい声でこう訊ねた。


「君に、ティオナに、これほどまでに惨たらしい仕打ちをしたのは……あの男――ソルマン・ベルフルト・ド・バルバーリか?」

 

 頷いて肯定を伝えた。


 ルヴァンがそのとき何を思ったのか、分からない。

 僅かな感情すら伝わってこなかった。


 そんな中、だんだん私に触れる彼の手の感覚が遠くなっていく。


 もうこの身体は限界を迎えていた。

 いや、とうの昔に限界を超えていた。しかしルヴァンに会いたい一心で、持ちこたえていた。


 だけど彼に再会するという目的を果たした今は――


『ルゥ』


 私が唇を動かすと、ルヴァンの身体が震えた。


「どうした? どこか酷く痛むのか? とにかく今は、一刻も早くフォレスティ王国にもどろ――」


 しかし彼の言葉が途切れる。


 私が彼の手をとり、自身の首に当てたからだ。

 そして微笑みながら、ずっと抱き続けてきた願いを口にした。


『わたしを、ころ、して――』


 その手で――私の愛する人の手で、

 全てを終わらせて欲しい。


 あの男の愛などというもので死んだのだという不名誉で、私の死を穢されたくない。


「だ、駄目だ……駄目だ、駄目だ、フィー! 絶対君を助けるっ‼ だから諦めるなっ‼」


 ルヴァンが叫ぶ。

 しかし私を勇気づけようとする叱咤は、次第に小さくなっていった。


 彼にも分かっていたからだ。


 私の身体が、フォレスティ王国にたどり着くまでもたないことを。

 もう……手遅れなことを。


 耐えきれなくなった気持ちが、嗚咽となって彼の喉から洩れる。嫌だと、何度も子どものように繰り返しながら、この身体を抱きしめ続ける。


 しかし私のタイムリミットも近い。

 だから、


『お、ねが、い、ルゥ』


 どうか、どうか――


 最期はあなたの手で。


 ルヴァンの手が私の喉にかかった。

 その手はとても冷たくて震えていた。


「フィー……すまない、本当に……すまない……全ては私の……わたしの、せいだ……」


 彼の嗚咽混じりの懺悔が遠くで聞こえる。


 謝罪など必要ない。

 この死は、あなただけが私に与えられる、唯一の救い。


 ただ一つ、後悔することがあるならそれは――


(ティオナ……ごめんなさい……守ってあげられなくて、ごめんなさい……)


 娘を守り切れなかったこと。


 喉に掛かった手に力がこもった。

 息が苦しくなる。

 空気が届かなくなったことで、意識が朦朧としてくる。


 そんな中、唇にのった温もり。

 彼の温もりを手放したくなくて、最後の力を振り絞って彼の背中に手を回す。


 ソルマンに連れ去られた後の生は、苦しみしかなった。

 人間の醜い部分をたくさん見た。


 だけどそれ以上に、ルヴァンに見いだされ愛されて過ごした日々は、今まで私が精霊女王として生きてきた膨大な時間全てとは比べものにならないくらい、光り輝いていた。


 その記憶があったからこそ、私は今ここに――あなたの腕の中にいる。


 初めてルヴァンに愛を告げられたとき、私は彼と同じ気持ちなのか分からないと答えた。


 だけど今なら分かる。

 そして今なら言える。


 私もあなたを。

 あなただけ、を――


 次の瞬間、私の意識は真っ白に染まり、膨大な精霊を生み出しながら粉々に弾け飛ぶのが分かった。


 肉体が生命活動を終えて消滅したのだ。


 魂があるべき場所に還るとき、


「フィー――――っ‼」


 愛する人の絶叫を確かに聞いた。


 ◇


 ――長くて短い夢が終わった。


 意識が浮上していく。

 瞼を震わせながら、私はゆっくりと瞳を開いた。


 見知った天蓋が見える。

 どうやら私は、フォレスティ城で使わせて頂いている寝室のベッドの上にいるみたい。


 カーテンの隙間から光が漏れていないのを見る限り、今は夜――いえ、辺りがとても静かだから、もう夜中なのかもしれない。


 ゆっくりと身体を起こそうとすると、何かが私の手を掴んでいることに気付いた。

 指をピクリと動かすと、


「……エ、ヴァ?」


 私を呼ぶ声がすぐ傍でした。

 声の方向には、


「アラン……」


 精霊魔法の淡い光に照らされたアランの顔があった。

 

 目の下のは疲れ切ったような濃いクマができていて、綺麗な青い瞳も充血していた。表情も辛そうにゆがみ、今にも泣きそうになっている。身支度も疎かになっているのか、いつも整えられている黒髪は乱れ、シャツのボタンも掛け違えているのにそのままだ。


 アランは私の手を両手で握り直すと、まるで祈るように自身の額に当てた。

 そして何度も何度も、良かったと呟いていた。


 憔悴しきった彼の様子を見て、私は今まで何があったのかを全て思い出した。


 ソルマン王の魂に憑依されたリズリー殿下が突然精霊宮にやってきて、精霊女王を巡ってアランと戦いになったこと。


 イグニス陛下がソルマン王の攻撃を受け、倒れられたこと。


 戻ってきたアランのお兄さま、ノーチェ殿下たちの助けもあり、何とかソルマン王の憑依からリズリー殿下を救い出せたこと。


 しかし、リズリー殿下はソルマン王と共謀しており、私たちの隙をついて逃げ出したこと。


 そして――


 私はゆっくりと身体を起こした。それを見たアランが、慌てて私の身体を支えてくれた。


 起き上がるとズキリと頭が痛んだ。それ以外痛みはないけれど、まだ頭はボーッとするし、身体が重くて堪らない。肉体疲労というよりも、長く寝過ぎて逆に動けないときの倦怠感に近い。

 

 どれだけの間、私は眠っていたのかしら。

 全然時間の感覚が分からない。


「アラン、私はどのくらい眠っていたの?」

「丸二日間だよ」

「二日間も⁉ そ、それで、イグニス陛下や、他の皆さんは……」

「あの場にいた者たち皆、無事だよ。だけど兄さんだけは――」

「……目を覚まされないのね? 身体のどこにも異常はないのに」

「なぜそれを……」

「だってあれは……闇の大精霊の能力、だから……」

 

 私の言葉を聞き、アランはハッとこちらを見た。

 辛そうに眉根を寄せながら瞳を閉じると、フッと息を吐き出し両肩の力を抜いた。


 ゆっくり瞳を開くと、弱々しく微笑む。


「全てを――思い出したんだね」

「……ええ」


 私は深く頷いた。

 そして諦めに満ちた青い瞳を見つめながら訊ねる。


「アラン……あなたには前世の記憶があるのね?」

「……ああ、そうだよ」


 アランの喉元が大きく動いた。

 開いた唇は、僅かに震えていた。


「俺の前世は――ルヴァン・チェストネル・テ・フォレスティ。フォレスティ王国初代国王であり、前世の君――エルフィーランジュの夫だった存在だ」

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