第116話 足掻き

 初めてこの部屋を訪れたソルマンは、その日以降しばらく姿を現さなかった。

 恐らく、オドの回復に注力していたのだろう。


 オド回復後は、時間が許す限りこの部屋へやってきた。


 幾度か身体を求められることはあったが、そのたびに私が呼吸困難を伴う激しい発作を起こし、あの男を拒絶した。ティオナの名を出されても止めることはできなかった。


 だがあの男は、自身が拒絶されていることを理解していなかった。


 発作の理由を正直に言えない医師が無理やり出した、


『慣れない土地へやってきた極度の緊張による発作。環境に慣れるまで療養が必要』


という診断を素直に受け入れ、それからは求めることはなかったため、最期までこの身を奪われることがなかったことだけが救いだった。


 代わりに、ソルマンは精霊女王という私の存在に興味を示し、様々なことを聞いてきた。

 精霊を道具のように使うこの男に知られたくはなかったが、ティオナを人質に取られている以上、正直に答えるしかなかった。


 時々、部屋の外からティオナが歩く姿を見ることが出来た。

 この日は、よたよた歩く娘を、若い夫婦とみられる男女と五歳ぐらいの男の子が見守っていた。


 本当なら、私があそこにいるはずだった。

 ソルマンによって奪われた幸せな未来を見せつけられているようで、悔しくて悲しくて、何度隠れて泣いたか分からない。


 だが、ティオナは生きている。

 窓から見える娘の姿だけが私の希望だった。


 そんな中、私の世話をするために一人の青年があてがわれた。


 彼は、『王に取り入ろうと誘惑した女』だと隠れて私を侮蔑する周囲の人々とは違い、気さくに、そして親切に接してくれた。


 悪意と暴力的な愛に晒される中、彼の何気ない心遣いはささやかな癒やしとなり、いつしか私も彼の言葉に耳を傾け、気付けば自然と笑みが浮かぶようになっていた。


 それが、あの男の怒りを買うなど知りもせずに――


 いつものように会話を楽しんでいたある日、突然ソルマンが部屋に乱入し、世話役だった彼を私の目の前で切り殺した。


 そして、悲鳴をあげる私をベッドに押し倒すと、馬乗りになった。右手に血まみれの剣を握ったまま、左手で息が止まりそうになるほど強く首を掴む。


「何故、笑いかけた? あの男に……」


 怒りを押し殺したような声色で訊ねられたが、息が苦しくて答えられない。ドクドクと血が流れる音が頭の中に響き、顔に熱が集中する。


 苦しむ私の様子に気付いたのか、ソルマンは首を掴む手を緩めた。そして、


「余を見ろ、エルフィーランジュ。決して瞳を逸らすな」


 必死で空気を貪りながら、私は言われるがままにあの男を見上げた。


 ただ私が笑いかけただけで殺されてしまった青年の返り血に濡れる顔を――


 視線が合うと、あの男は満足そうに笑った。

 笑って――先ほどの怒りなどなかったかのように優しく囁いた。


「金輪際その瞳に、他の人間を映すことを許さぬ」


 視界の端に、鈍く光る刃物を見た瞬間、私は突然走った両目の激痛に絶叫していた。

 ソルマンが、私の両目を一直線に切りつけたのだ。


 あの男が、どんな顔で私を見ていたかは分からない。

 だけど激痛に叫び、のたうち回る私を抱きしめながら、あの男はまるで小さな子をあやすかのように鼻歌を歌っていた。

 

 ソルマンが願ったとおり、私は視力を失った。

 それは、精霊を視る力も失ったことを意味していた。


 同時に、自分のせいで人が殺され、両目を奪われた衝撃は声も奪った。


 声が出なくなったことは、ソルマンにとっても想定外のことだったのだろう。

 

 バルバーリ王国内にいるあやゆる医師に診せたが、誰一人私の声を取り戻すことはできなかった。


 辛かった。

 しかし、同時に安堵したのも否めない。


 あの男の姿を、もう見る必要もない。

 あの男と会話を、もう交わす必要もない。


 ここにある悪意を、もう見なくて良い。


 現実の景色を失った代わりに、私はずっとずっと過去を思い出し続けた。

 最後に見た血まみれのソルマンではなく、幸せだったルヴァンとの日々を思い出し続けた。


 どれだけ辛くても、いつでも幸せだった記憶を思い出せた。

 幸せだった記憶を思い出すと、この瞬間だけはあらゆる苦しみから解放された。


『フィー。心の自由や誇りは、決して誰にも奪えない。奪うのは、いつだって自分自身だ』


 いつだったか、ルヴァンが私に言った言葉が鮮明に蘇った。

 

 今なら、彼の言葉の意味がよく分かる。


 どれだけ劣悪な環境であっても、

 肉体が傷つけられても、


 私が諦めない限り心は、

 この心の自由だけは、


 ――誰にも奪えないのだと。


 私はある日、監禁されていた塔からどこかの土地に移動させられた。


 そこは静かで、緑の匂いがする場所だった。

 ずっと鳴り響いていた精霊の悲鳴も、殆ど聞こえない。近くに川があるのか、常に水が流れる音がしていた。


 どうやら、日に日に弱っていく私を見かねて、ソルマンが辺境の地での療養を許可したらしい。


「医師が言っていた。できる限り、フォレスティ王国と同じような環境の中で、お前を療養させるべきだと。王都から離れているが故、しばらく会えないが……ゆっくり身体を休み、声を取り戻せ」


 そう言って、ソルマンは王都へ戻っていった。


 これが――私が最後に聞いた、あの男の言葉だった。


 しばらくは平穏だった。

 相変わらず使用人たちからは蔑まれてはいたが、必要最低限の生活はできていた。


 毎日、ティオナの身の安全だけを祈り続ける日々を送っていた。


 しかし、


「お前か。我が夫を誘惑した売女は」


 そう言って私の前に現れたのは、ソルマンの妻――バルバーリ王国王妃だった。


 見ることも話すこともできない私に、王妃からの暴言と暴力が降り注ぐ。

 食事は抜かれ、水だけが与えられる日々が続き、とうとう屋敷から小屋へと追い出された。作りが甘いのか、少し強い風が吹く建物がきしみ、隙間風が身体を冷やす。


 たくさん傷つけられた。

 それでも私は耐え続けた。


 私が苦しみ、許しを乞えば、あの女の留飲も少しは下がっただろう。

 しかし、どれだけ痛めつけても私が折れないことに気づいた王妃は、最悪な手段に出た。


「お前、娘がいるそうだな?」


 この言葉に、痛めつけられ、床に突っ伏していた私は反射的に顔を上げていた。


「その顔……娘がどうなっているか知りたいようだな? いいだろう、教えてやろう」


 コツコツと踵を鳴らしながら、王妃が私に近づき、そっと耳元で囁いた。

 それを告げることが、嬉しくて嬉しくてたまらない様子を、声色に込めながら――


「我が夫が殺した」


 それ以上何も考えるなというかのように、頭の中が真っ白になった。

 理解できなかった、いや、理解したくなかった。


 ティオナが――私の唯一の希望が、殺されたなど。

 

 遠くで、あの女の満足そうな嘲笑が鳴り響いていた。


 その後も変わらず暴力と暴言で傷つけられ続けた私は、みるみる弱っていった。ティオナの死を伝えられてから、僅かに与えられる食べ物も殆どとれなくなり、身体を動かすことも困難になっていった。


 そんなある日、王妃が私の元へ来なくなった。

 いや、この屋敷にいた全ての人間がいなくなり、私は一人取り残された。


 その理由は、数日後に分かった。

 小屋が、強い風にあおられ、ギシギシと不穏な音を立てている。


 どうやらこの地に、大嵐が直撃したらしい。

 だから王妃たちは、避難したのだ。 


 私だけが取り残されたのは恐らく、この嵐で小屋が崩れることを見越し、事故で死んだと見せかけるつもりだったのだろう。私が小屋にいた理由は、なんとでも言える。


 もうこの身が持たないことは分かっていた。

 同じ死ぬなら、死に方は自分で選びたかった。


 もうティオナに会うことは叶わない。

 ならば最期にせめて、ルヴァンに会いたかった。


 私が、

 生きることになんの意味も見いだしていなかった精霊女王たる私が。


 最期に一度だけ、愛する人に会いたいという一心で、惨めったらしく生にしがみ付いていた。


 奪われ、いたぶられ、虐げられられながらも、それでも、


 ――生きたかった。


 簡単に投げ捨てていた生を、初めて尊いと思った。


 ルヴァンに会うまでは死ねない。

 だけどきっと、この小屋は嵐に耐えられない。


 私は決意をした。


 まともに動くこともままならない身体を引きずり、雨と風が吹き荒れる外に出た。

 向かうは、ずっと音だけ聞こえていた川の方。


 恐らくこの暴風雨で川の水かさが増し、危険な状態になっているだろう。

 だけど、長く歩けない私をここから連れ出してくれる、唯一の逃げ道。


 川がどこに繋がっているかなんて知らない。

 きっと流されて溺れ死ぬだろう。


 分かっていても、僅かな可能性にこの命を賭ける。


 私が愛したあの人の元に帰るために最後まで、


 最期に至る一瞬まで、


 ――足掻いて見せようと。

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