第107話 帰還

 私は、ただ崩れ落ちた陛下の身体を見ていることしかできなかった。

 何が起こったのか、全く分からなかった。


「まずは一つだ」


 地面に倒れられた陛下を無表情で見下ろすリズリー殿下の声が響く。


「貴様は、余からエルフィーランジュを奪った。そう簡単に殺すものか。貴様が大切だと思うものをすべて奪い、潰す。守ることが出来なかった絶望の中で殺してやる」


 そう言って、陛下を凝視したまま動けずにいるアランを睨み付けた。


 この言葉から察するに、リズリー殿下は元々イグニス陛下を狙っていたみたい。アランに危害を加える様子を見せることで、陛下をおびき寄せたんだわ。


 リズリー殿下は、先ほどイグニス陛下に『青い』と言った。王として未熟だという意味に間違いない。

 

 確かに、弟の危険を救うために御自ら乗り込もうとされた陛下の行動は、国王として軽率だっただろう。


 だけど陛下がアランと話すときの嬉しそうな表情や楽しそうな様子を思い出すと、家族として彼を案ずる気持ちを咄嗟に出してしまったイグニス陛下を非難できなかった。


 むしろ陛下の優しさを見抜き、利用したリズリー殿下の狡猾さにゾッとする。


「フォレスティの民も悲劇だな。こんな青い男が主君など。それにいまだに精霊を神の如く扱っているなど、あの愚かな男の思想が今なお続いているとは驚きだ」


 そう言って、イグニス陛下のこめかみをつま先で突くリズリー殿下を見た兵士たちの表情が、怒りで燃えた。


 武器を握り直す兵士たち、精霊魔法の詠唱を始めようとする精霊魔術師たちに向かって、ルドルフの喝が飛ぶ。 


「個人の憎しみに支配された心では、精霊は力を貸してはくれぬ! 我々が何を守ることを誓い、陛下に忠誠を誓ったのか思い出すのだっ‼ 陛下は国に危険が迫ったとき、民ではなく御身を守れと仰る方だったか⁉」


 ルドルフの言葉が皆の表情を変えた。

 憎しみと怒りに染まっていた皆が表情を改める。


 精霊は、魔法を扱う人間の心が邪だと力を貸してくれない。それは憎しみや恨み、欲望に支配された心も同じ。


 彼らが憎しみや恨みに心を支配されることなく持ちこたえられたのは、大切なもの――この国を、国に住まう民を、大切な家族、愛する人を守るという想いが根底にあり、ルドルフの言葉で思い出したからに違いない。


 リズリー殿下はつまらなさそうに周囲を一瞥すると、私を背中で守るように立ちはだかるルドルフに侮蔑の視線を向けた。


「次はお前の番か? 主君を守れぬくたばりぞこないの無能が」

「全くもって耳が痛い言葉じゃな」


 殿下の挑発を、ルドルフが瞳を細めて笑いながら受け流す。しかしすぐさま表情を改めると、リズリー殿下と真っ直ぐ対峙した。


 いつも微笑みを浮かべている唇から発される言葉は、静かでありながらも心の奥を打ち付ける重さがあった。


「じゃが陛下が民を、国を想うお心は、ここにいる者全ての心に刻まれておる。お前さんがどれだけわしらの憎しみを煽ろうが無駄じゃ」

「なら、その想いごと消し去ってくれる。この場にいる全てをな」


 ――想いごと消し去る


 それを聞いた瞬間、全身から血の気が引いた。

 心の中が恐怖で満たされる。


(全て……私のせい、だわ……フォレスティ城が襲撃されているのも、イグニス陛下が倒れられたのも、すべて、すべ、て……)

 

 私がフォレスティ王国から出ていれば、いいえ、バルバーリ王国から追放されたあの日、アランたちが差し伸べた手を取らなければ……この優しい国に来なけれ、ば……


 平和だったこの国に、争いの種を持ち込んだのは――


 恐怖が後悔となって、私自身に集中する。


「いかん、エヴァ嬢ちゃんっ‼ 精霊たちがエヴァ嬢ちゃんの気持ちに反応して――」


 ルドルフの声は、吹き抜ける強風によってかき消されてしまった。


 いつの間にか降り出した滝のような雨と、気を抜けば吹き飛ばされてしまうほどの強風が全身を打つ。雨風によって火が消え、再び世界が闇の中に沈んだ。


 何も見えない。

 何も聞こえない。


 吹きすさぶ雨風の中、まるで世界に私しかいないような錯覚に襲われる。


 突然、両目に激痛が走った。

 思わず目元を押さえてうずくる。


 痛いと叫びたいのに何故か声が出ない。


 一体、私は何をされたの?

 風に混じって飛んできた石が目に当たった?


 ……違う。

 これは、これは……


(前世の……記憶……)


 エルフィーランジュだった私の身に起こった、遠い遠い昔の記憶――


 愛する人を見つめる目を奪われた痛みと、

 愛する人の名を呼ぶ声を失った悲しみ。


 ずっと閉じられていた何かが、開かれた気がした。


 その時、


「エヴァちゃんっ‼」


 身体が突然抱きしめられた。

 その温もりによって私の意識が今へと戻り、瞳の痛みが一瞬にして消え去った。


 この声は――


「ま、マリア……?」


 まだ目の前が真っ暗で分からないけれど、今私を抱きしめてくれているのはマリアに違いなかった。姉と慕う存在の声をすぐ傍で聞いた瞬間、安堵から涙が溢れた。


「まりあ……マリアっ! い、イグニス陛下が……倒れられて……このままだと、み、皆、殺されちゃう‼」

「大丈夫よ、エヴァちゃん。落ち着いて。イグニス陛下は生きていらっしゃるわ」


 陛下が……生きている?

 本当……に?


 マリアの強く芯のある声色が、混乱した私の心に届く。それをきっかけに、恐怖と不安で滅茶苦茶になっていた思考がクリアになっていく。


「でも、エヴァちゃんの気持ちに反応した精霊たちが混乱して、嵐を引き起こしているみたいなの。そのせいで、ほとんどの精霊魔術師たちが、契約した上位精霊から力を借りれなくなってるみたい。だから気をしっかり持って! それに――」


 マリアが言葉を続けようとしたとき、


「「世界の根源、悠久に息づく精霊よ。この心と繋がり、強き想いを具現化せよ<光球ライトボール>」」


 聞いたことのない男女の重なった声が響き渡り、突然、目の前の視界が光によって開かれた。


 真っ先に目に入ってきたのは、リズリー殿下の魔法を防御壁で受け止めているルドルフの姿。私を含めた彼の後ろにいる者たちを守るため、絶え間なく繰り出される攻撃をずっとその身に受け続けている。


 何故、今まで気付かなかったのかと不思議に思うほどの激しい攻撃を。


 耐えきれなくなった攻撃のいくつかを食らったのか、彼の両腕から流れた血を雨が洗い流していく。


 ルドルフがどれだけ精霊魔法に長けていても、このままじゃ――


「何とか間に合った……とは言いがたい状況か……」


 そのとき、後ろからざくっと地面を踏みしめる音と声が聞こえた。突然イグニス陛下の近くにやってきたリズリー殿下の行動を思い出し、反射的に振り返る。


 そこにいたのは男性だった。

 強風によって被っていたフードがめくれ、後ろでくくった長い茶色の髪が大きくなびく。


 初めて見るはずのこの男性を、私はどこかで見たことがある気がする。


 一体どこで……?


 リズリー殿下の攻撃を防ぐことに注力していたルドルフが、そのままの体勢で声色を明るくした。


「いえ、あなたさまのご帰還、城の皆々が心待ちにしておりましたぞ。トウカ王国でのご研究はいかがでしたかな?」

「ああ、精霊魔法の新たな可能性ともいえるもの凄い発見をしてな。それについて、ルドルフと夜通し議論するのを楽しみに帰ってきたんだが」

「それは興味深い。全てが片付きましたら、いくらでもお付き合いいたしましょう」

「もちろんだ。だが……実際その成果を見て貰ったほうが早そうだ。フリージア、レフリア、ルドルフに加勢を!」


 男性の呼び声に応え、二人の男女がルドルフの横に駆け寄った。双子らしく同じ顔をしている。男女と分かったのは、体つきと髪の長さの違いだ。


 二人がゆっくりと口を開く。

 

「「世界の根源、悠久に息づく精霊よ。我が命脈を受け取り、強き想いを更なる高みへ昇華せよ<防御壁プロテクティブウォール>‼」」


 次の瞬間、ルドルフが防ぐことしか出来なかったリズリー殿下の攻撃魔法が、視えない何かにぶつかって消失した。今まで余裕そうだった殿下の瞳が大きく見開かれる。


 それはルドルフも同じだった。

 フォレスティ王国の精霊魔法の頂点にいる彼にとって、フリージアとレフリアと呼ばれた二人の魔法の効果は想像以上に大きかったのだろう。 


「あ、あなたは……?」


 私のすぐ傍までやって来た男性に震える声で訊ねると、彼は右手を胸の前に当てながら、座り込んだままの私と視線を同じにした。


 降り注ぐ雨が彼の長い前髪を伝い滴となって落ち、少し短く、まとめきれなかった横髪が、頬と顎に張り付いている。


 声の様子から男性だとは分かっているけれど、一見女性と見間違えても仕方が無い、優しげでたおやかな容貌をしていた。


 だけど、青い瞳を細めこちらを見つめる視線が、私に優しく話しかけてくださったイグニス陛下と重なる。


「自分は、ノーチェ・リチェルカ・テ・フォレスティ。まさかお目にかかれる日が来るなど思ってもみませんでした。精霊女王エルフィーランジュ様」

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