敵
第33話
俺は氷室を、というか、氷室の無線機を見た。支給品である個人携行用の小型無線機が、装備ベストの胸ポケットから顔をのぞかせている。
一体、誰が連絡してきたんだ?俺は、嫌な予感を覚えた。
連絡してきた相手がもし味方なら、性能の良くない個人用の小型無線機ではなく、水陸両用車に搭載された無線機につなぐだろう。
そっちの方がアンテナがしっかりしていて、電波が途切れる心配も少ないし、何より、何か連絡があるなら、兵士ではなく、部隊の現場責任者である指揮官にするべきだ。
そして、氷室の無線機に、それも、命がかかっている戦闘中に、『久しぶりだね』と連絡を入れる必要がある兵士は、味方側にいない。
つまり、氷室に連絡したのは、味方ではない。味方ではないという
そして、今、氷室に連絡を取る必要がある敵は、俺の暗殺計画を実行している組織、つまり、敵国の工作員を束ねる諜報機関だけだ。
氷室はきっと、この声の主を知っている。連絡をしてきた相手は、暗殺を失敗した氷室に、俺を殺させることができる人物だろう。
そう考えると、相手は、氷室に命令を聞かせることができる人である可能性が高い。つまり、工作員の教育に携わった軍人だろうな。
俺は視線を上げて、氷室の顔を見た。氷室は、驚愕したように目を見開いて、自分の無線機を見つめている。
無線の電源を切ってしまえば、聞かずに済む。だが、氷室の手は動かない。もしかしたら、恐怖で動かせないのかもしれない。
やっぱり、知っていたようだ。氷室が驚いているという
俺の仮説は正しかったらしい。
敵は殺すという、戦場の
狙撃を行うにしても、敵がどこにいるのか、全く分からなければ、弾が当たるはずもない。
特殊部隊の兵士達は、銃を持ちあげて、氷室の無線機を、というか、氷室を警戒していた。
銃口は、注意して見なければ気付けないほど自然に、氷室の頭を指している。
特殊部隊の兵士達には、氷室に連絡してきた相手が、敵か味方か、断定できないはずだ。俺は、氷室が裏切り者だったと知っているが、特殊部隊の兵士は知らない。
それでも、銃口を向けられるとは、どうやら氷室は、特殊部隊の兵士から信用されていないらしい。又は、特殊部隊の兵士たちの判断力が
まあ、行動は正解だから問題はないのだが、氷室と共に戦ってきた兵士としては、とても微妙な気分だ。
だが、氷室がここで、俺たちに危害を加えようとすれば、特殊部隊の兵士達は、それをすぐに止めることができる。
指揮官が、無線機を取り出して、本部に、『氷室が裏切った可能性あり』と、短く連絡を入れた。氷室が、止める暇もないほどの素早さだった。
だが、どうやら氷室には、その連絡を止める気はないようだ。
本部に情報が入ってしまえば、氷室がもう一度、俺らの国に敵国工作員として潜入することは、不可能だというのに。何故だろう?
俺が作っていた計画では、氷室が諜報員だったことは軍に隠しながら、氷室を説得するという計画だったが、どうやら無理そうだ。
俺が氷室と共に戦い続けるためには、我が国の軍隊を説得できるだけの、資料と根拠を用意する必要がある。
だが、後の心配より、今の心配だ。俺は、氷室が、特殊部隊の兵士たちに、今すぐ殺されないようにする必要がある。
残念ながら、死者と共に戦うことは、できない。
これだけの判断を、五秒足らずで行い、実行してしまった。
そんな俺らの様子など、一切意に介さず、無線の向こうで話す人は、さらに言葉を続けた。
「氷室。任務に失敗したようだね。これが最後のチャンスだ。任務を遂行しろ」
この発言で、特殊部隊の兵士達が感じていた、氷室が裏切り者であるという疑惑は、確信へと姿を変えた。人差し指を、引き金に入れる。
兵士の一人が、俺の顔を見た。俺が訳知り顔だったから、引き金を引くのは躊躇っているようだ。
俺としてはそのまましばらくの間、躊躇っていて欲しいのだが、それは無理だろう。
せいぜい、もって三分といった所か。特殊部隊の兵士としては、今すぐ危険を排除したいだろうからな。
この状況を黙ってみていることは、できない。だが、どこにでも転がっているような陳腐な言葉で、氷室の恐怖を払えるとは思えないし、同じように、特殊部隊の熟練の兵士たちの警戒心を解けるとも思えない。
ならば、氷室の心と特殊部隊の良心が、兵士としての経験に打ち勝てることを祈って、静観する他あるまい。
そんな危うい状況など一切気にすることなく、敵国軍人は氷室の心の隙を突くように、言葉を紡ぐ。
「君が
もし、君が今、
大切な人をそんな目に合わせたくなかったら、今、一瞬で命を絶ってあげるんだ。そっちの方が、彼にとっても、君にとっても、はるかに幸せだと思わないか?」
まるで、聖人君主のような口調で、滔々と、人間から出てきているとは思えない言葉を、紡ぐ。
できれば、そんな処刑は受けたくないし、氷室に殺されたくもない。だが、敵国の
氷室が俺のことを好きかどうかは、分からない。だが、もし氷室が、自分のことを好いてくれているなら、俺は、単純に嬉しい。
だが、可能ならその是非は、俺は氷室の口から聞きたい。死体になってしまえば、そんなこと知ったって、無意味だ。
氷室が、顔を上げた。不思議な蒼色をまとった瞳に、俺の顔が映った。氷室がその時、何を考えたのかは、分からない。俺に分かるのは、その後、氷室が
「嫌だ」
と、敵国軍人の命令を拒絶したという、事実だけだ。無線の向こうの軍人は、その返答を聞いて、しばらくの間、沈黙した。
その時の軍人の顔に浮かんでいたのは、驚愕か、恐怖か、怒りか。無線の向こうの風景は、見えない。
「そうか」
キャタピラが稼働する音だけがいやに響く、重い沈黙を破って、軍人は、一言だけ言った。僅かに、怒りを孕んでいるような気がした。
「残念だ。蒼だけではなく、君も殺さないといけないとはね」
敵国軍人は、一切の抑揚のない声で、そう言った。これ以上の問答は無用とばかりに、ブツっと音を立てて、無線が切れた。
氷室の表情は、まるで鋭利な刃のように研ぎ澄まされていて、それでいて、優しかった。
氷室は、一瞬の間をおいて、俺に肉薄した。特殊部隊の兵士達は、突然の出来事に、反応が遅れた。俺は、慌てて身構える。
俺は、反射的にナイフの柄に手をのばすが、氷室の動きは、それよりも、ずっと早かった。俺は、死を覚悟した。
好きな人に殺されるのは、本望ではない。だが、俺の知る死の中では、一番穏やかな死に方だ。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。目を開けたまま死ぬのは、俺を殺すときの氷室の表情を見るのは、嫌だった。
付いたら、俺は氷室の腕の中にいた。突然の出来事に、俺は数秒間硬直して、ようやく、氷室に抱き着かれたと気付いた。氷室の鼓動と俺の鼓動が、重なり合う。
俺は目を開けた。氷室の後頭部が、俺のすぐ横にあった。銀髪が俺の頬を撫でる。氷室の体温は、暖かかった。
「ずっと好きだった。これからも、一緒にいたい」
耳元で
心臓が高鳴る。緊張と、嬉しさと、恥ずかしさを、全て混ぜ合わせたような感情が、心の中で、激しく 渦を巻く。
体の芯の松明に火を付けたように、体が熱くなる。その炎に照らされて、自分の顔が、赤く染まるのを感じる。
俺は、氷室の少し赤くなった耳に、自分なりの返答を返した。氷室がくれた、この素晴らしい言葉に
「ありがとう」
氷室の耳が、一段と赤くなった気がした。多分、俺の耳も赤くなっている。
ビルの谷間の向こうに、夕日の落ちる海が、現れた。
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