撤退

第30話

 古びたビルの廊下を縦一列になって進む。ビル全体が、廃墟らしい奇妙な気配で満たされていた。


 下の階に行くほど、太陽の光が木々に遮られ、薄暗く、ジメジメした雰囲気が、さらに濃くなってくる。


 大きめの窓からは、鬱蒼うっそうと茂る木々を通して、木漏れ日が差し込んでいる。だが、広い室内に漂う陰鬱とした空気を払うには、その光は弱すぎる。


 そんな風景の中を、殺伐とした雰囲気を、鎧のようにまとった兵士が、俺と氷室を含めて十二人、物陰からの襲撃を警戒しつつ、ゆっくりと進んでいく。


 白兵戦になる危険性が高いビル内とはいえ、このビルのフロアは、壁なので区切られていない。フロアには、大部屋が一つだけある。


 おかげで、物陰や、廊下の向こうからの攻撃を心配する必要はなかった。もっとも、もし敵兵がビルに潜んでいたら、俺は死んでいただろうが。


 それに、俺らの前後に五人ずつ、多少の緊急事態なら、余裕で対処可能な特殊部隊、優秀な兵士が、俺らと共に行動している。


 一番弱い人が、基本的に守られることになってしまうという法則にしたがうと、俺は、守られていることになるのだろう。


 そう考えると、もし俺が氷室を守るためには、俺は、氷室から離れた場所で、狙撃銃を構えて、目を光らせるしかない。


 あと、どれぐらい強くなれば、氷室を守ることができるだろうか?


 だが、今すぐ氷室を守れるぐらい強くなることはできない。


 だから、俺が感覚を研ぎ澄ませて警戒しても、もし、突然襲ってきた敵と戦っても、これだけの人数の特殊部隊がいる限り、ただ、足手まといになるだけだ。


 つまり、俺にできることは、考えることだけだ。そして俺が今、一番考えたいことは、氷室のことだ。


 その心を振り払うように警戒に集中しようとしても、今、自分の心の中を渦巻く気持ちを理解したいという強い思いが、それを許してくれない。


 あの特殊部隊の兵士が、余計なことを言ったせいだ。俺は、無意味に責任転嫁しようとしたが、よく考えてみたら、あの特殊部隊の兵士のおかげで、俺は氷室への思いに気付けた。


 感謝するべきなのか、怒るべきなのか、分からない。


 氷室は顔を伏せていて、その表情は読めない。そんな氷室を見ていたら、俺は唐突に、重大な問題を思い出した。


 もし、お互いが、今後もこの空気のままだとして、その状態で戦場に出たら、情報伝達が上手く行えず、そのせいで、二人とも死ぬ可能性がある。


 つまり、兵士として、この問題は絶対に解決しなければならないのだ。それに、心を持った人としても、この問題が未解決なのは、嫌だ。


 それに、氷室は経歴に重大な問題がある。敵国出身だからって差別しない。と言いたいところだが、氷室の場合は、ただ敵国出身というだけではない。


 氷室は、俺を暗殺するために送られてきた工作員だ。恋はそんなくだらないものなんて簡単に乗り越える。という人もいるだろう。だが、俺は兵士だ。


 国を守るために、綺麗事だけをほざいて生きていくことは、できない。


 俺も人として、可能なら氷室を信じたい。だが、氷室の中に蔓延はびこるその恐怖が、すべて消えていなかったら、俺は、誰よりも信用している相手に、背中から刺されることになる。


 それは、嫌だ。氷室とは、しっかりと話し合う必要があるだろう。でも、その話は、どうやって氷室に切り出せばいいんだ?


 下手に切り出すよりも、自白は聞かなかったことにして、今まで通り氷室と付き合っていくのが一番いいかもしれない。


 でも、それは国に対する裏切りだし、工作員という問題点を解決しないまま、氷室と共に戦うことは、リスクが大きすぎる。


 だが、氷室が自分で、自分の潔白を証明することは、不可能だ。俺は、というか人は、誰かの心や思考回路をのぞく術を持っていない。


 もし氷室が裏切ったままなら、俺は氷室を殺さないといけない。俺の心より、国と国民の方が大切だ。というか、国と国民を大切にしないといけない。


 俺は、どうすればいいんだ?


 そんな、いくら考えようとも正解のない問題に、答えを与えることはできない。それを考えることは、時間をただひたすら浪費する行為に他ならない。


 それでも、人はそれを考える。何故だろうな。


 それを考えるには、人の命は余りにも短いというのに。俺らはいつの間にか、ビルの外に出ていた。


 木々の葉に太陽は覆い隠されていて、辺りは薄暗く、蔓草に覆われたビルが、言いようのないわびしさを、放っていた。


 俺らがヘリでここに来たように、彼も、ここまで徒歩で来た訳では無いだろう。どこかに、乗り物があるはずだ。


 俺は、一台の見慣れない車を見つけた。


 薄暗い森の木陰に紛れ込むように、箱舟のような形の、キャタピラを装備した装甲車が停められていた。


 それを装甲車と呼んでいいのか、大いに疑問があるが、戦車と呼ぶには、形に違和感があるので、装甲車と呼ぶことにする。


 柄は、陸軍十八番おはこの、暗い緑オリーブドラブや茶色の迷彩柄。俺は、記憶の糸をたどって、一つの車両を思い出した。


 水陸両用車。民間の軍需企業で開発され、ここ最近配備が始まった、水中も陸も走れる特殊な車両。


 車に比べると、一台当たりの単価が高いので、たしか、特殊部隊に優先配備されていたはずだ。実物を見るのは、初めてだ。


 乗員三人を含めると、定員は24人。重機関銃を搭載していて、兵員輸送だけでなく、陸上での戦闘も可能という、優れモノだ。


「どうせお前らは知ってるだろうから、説明はいらないな」


 特殊部隊の兵士達はそう言うと、後部ハッチを開いた。全く持ってその通りだ。俺は、ハッチから車内を覗き込む。


 うっすらと緑色に塗装された車内は、クロスシートになっていた。兵士達は、ここに向かい合って座る。その奥に、車のように運転室が取られていた。


 そこには、俺らの到着を待っていたらしい兵士が三人、並んで座っていた。なるほど。俺らが到着したら、すぐさま発車できるように準備していたのか。


 確かに、ここは敵国だ。特殊部隊としても、少数での活動は危険だから、できるだけ早く味方と合流したいんだろう。


 それに、全員が水陸両用車を出てしまえば、万が一この車が敵に見つかった時に、あっけなく鹵獲されてしまうからな。


 せっかくの新車を盗まれたら、特殊部隊だって悲しいだろうし、せっかくの新兵器で、敵の意表を突くことができなくなる。


 戦争は、ある意味で恋愛と似ている。相手のことを何時でも考えて、相手の意表を突くようなもの兵器を用意して、最後は相手敵国堕とす落とす


 俺の考えてることなんて全く知らない、運転席に座っていた運転手兵士が、催促するように振り返って


「早く乗ってください。出しますよ」


 と言った。その兵士は、軍事演習の時に破損してしまった俺と氷室の車を、弁償?してくれた兵士だった。


 俺らは、その兵士の声で素早く水陸両用車に乗り込んだ。最後に乗り込んだ兵士が、慣れた手つきでハッチを閉める。


 それを合図に、運転手がアクセルを踏み込んだ。水陸両用車が、動き出した。


 俺は、さっきの狙撃の後、ボルトアクションを忘れていたことを思い出して、排夾、装填を行った。


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