第29話
俺は、引き金を引いた姿勢のまま、しばらく残身していた。余韻に浸っていたと言ってもいいだろう。
ただ、俺は無心ではなかった。俺は、狙撃の残り香のような集中力を使って、自分の心の中に渦巻く気持ちの意味を、考えていた。
不思議だ。今まで無意味だと思っていた、人の、硝子細工のように脆く儚い感情が、愛しいといってもいいほどに、大切に思える。
それどころか、世界が、いつもと違って見える。視覚の異常ではなく、心の受け止め方の問題だろう。俺は、そう推測した。
推測で物事を述べるのはあまり好きではない。だが、これに関しては、理性で理解できる代物ではないだろう。全てを、推測で述べるしかない。
体温がおかしくなってしまったかのように上昇して、体が火照る。心臓は、おかしいほどに脈打っている。
一体全体、俺の心に何が起きているのだろうか。だが、悪い変化ではない。むしろ幸せを感じる。この感情を、大切にしたいと、強く思う。
俺は、もどかしいほどに正常な思考を覆う、濃霧のような感情に答えを与えることを諦めて、立ち上がった。
「氷室、行こう」
俺は、妙な気恥しさをこらえて、氷室に声をかけた。氷室は、俺の声で我に返ったように、ゆっくりと立ち上がる。
氷室は、立ち上がると同時に、くるりと、俺に背を向けた。耳が少し赤い気がするのは、きっと気のせいだろう。
「そうだね」
氷室は、階段に向けて歩き出して、突然、立ち止まった。どうしたんだろう?
「どうした?」
俺は、急に緊張感を帯びた氷室の背中に、緊張しながら、声をかけた。氷室が急に緊張するときは、大抵、危機的な状況に置かれている。
「囲まれてる‥‥‥‥‥」
事態は良くなかった。俺も、浮かれたような心を
このビルは、どうやら、何者かに囲まれたらしい。俺は、サーモグラフィーの狙撃銃を構えた。
ひんやりとしたコンクリートの壁や床の青を背景に、氷室が、濃淡のあるオレンジと赤色に映っている。
俺は、サーモグラフィーのスコープを、壁に向けた。だが、コンクリートは濃淡のある青色で、特別、強い熱を持った場所はない。
「駄目だ。コンクリートが熱を遮断している」
「急ごう」
氷室がそう言って、俺はうなずいた。俺が走り出そうと足を踏み出したところで、突然、階段から、迷彩服を着た兵士たちが飛び出してきた。
敵は、まだ俺に銃口を向けていない。だが、銃を手に持っている。その銃口は、少し横に向けるだけで、俺を撃ち殺すことができるだろう。
そして、俺の狙撃銃の銃口は、下を向いている。どっちが早く狙いを定めることができるかなんて、火を見るより明らかだ。
俺は、敵兵の数を確認した。三、六、九、敵兵は、十人という少数だった。ただ、動きに隙が無い。全員、相当な熟練者だろう。
俺は目の前に迫った死に、氷室だけでも助けようと、全身を緊張させる。だが、その緊張の糸は、すぐにほどけた。
「お前かよ!」
全体の指揮を執っている、隊長らしき兵士は、我が国の特殊部隊。前回の合同演習の時に、司令塔の入り口を守っていた兵士だ。俺が狙撃で倒した奴だ。
その周りの兵士も、合同軍事演習の際に、入り口付近で、俺らと激しく交戦した兵士達だった。
「久しぶりだな(サイコパス野郎が)」
特殊部隊の兵士が俺に、戦場とは思えない、とても
本来、こういう戦場で社交辞令など無用なのだが、まあ、礼儀を尽くすことは悪いことではない。
「そうですね。軍事演習ぶりですね(軍事演習の折は、鈍い弾に当たってくれて、ありがとうございました)」
「ああ。あの時は、どうもありがとう(あの後、全身にインクを食らったそうじゃないか。インクは旨かったか?)」
「いえいえ。気にしないでください(インクが旨いわけないと思いますが。お互い、感情のまま動く上司を持つと、苦労しますね)」
俺らのそんな会話を、氷室は、苦笑半分、面白半分に、眺めていた。氷室に見られていることに気付くと、俺はなぜか、顔が赤くなるような恥ずかしさを感じて、
「どうしたんですか?」
と、用件を聞いた。特殊部隊がここに来る必要など、無いはずだ。
「ん?ああ。お前と氷室の恋が実ったか、見に来ようと思って」
多分、この兵士は冗談のつもりで言ったのだろう。だが俺は、その発言で、自分の心の中に渦巻く、燃えるような思いに、なんと名前を付ければいいのか、理解した。
それを理解した直後、自分の顔が、急激に熱を帯びるのを感じた。思わず顔を伏せる。
特殊部隊の奴らにはデリカシーという言葉が無いに違いない。と思ったのは、苦し紛れの言い訳だろうか。
「ざっ‥‥戯言を」
俺は、喉の奥から言葉を絞り出した。その言葉は、特殊部隊の兵士たちの笑い声に掻き消される。
俺は、勇気を振り絞って氷室の方を見た。一体、どんな反応をしたのだろう?氷室は、そっぽを向いている。嫌われたかな?俺は、一瞬不安になった。
「ははははっ!お前ら、二人とも、顔真っ赤だぞ。図星かよ」
その、完全に俺たちを
「本当の理由を言え!なんのために来たんだ!」
俺は、苦し紛れに特殊部隊の兵士に怒鳴った。特殊部隊の兵士は揃いも揃って、ニヤニヤと、下世話な笑いを浮かべながら
「ヘリの燃料が足りないから、君たちを迎えに来たんだけど、デートの邪魔して悪かったね」
「デートじゃない!」
今度は、氷室が言った。珍しく、大きな声だった。
「戦場で惚気てないで、さっさと行くぞ。
特殊部隊の兵士達は、突然真顔になると、至極真っ当なことを言った。踵を返して歩き出す。俺は、惚気てねぇと叫びそうになって、結局叫ばなかった。
「だから‥‥‥」
俺は、言い返すのを諦めて、氷室とともに歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます