第28話

 

 氷室は、徐々に落ち着いてきたようだ。思いっきり泣いて、心が楽になったのかもしれない。


 表情からも、苦しさが消えて、泣き疲れたような、安心しきったような、とても穏やかな顔をしている。


 もし、氷室の心の重荷を下ろす助けをできたのなら、とても嬉しい。俺は、一瞬そう思って、俺は何を考えているんだと、自分の思考に呆れて、首を振った。


 これだけ落ち着いたなら、氷室の過去を聞いても、大丈夫だろうか。また氷室を苦しめることになるのは、本意ではない。だが


「何があったのか、教えて欲しい」


 氷室が何を恐れているか、その正体が分かれば‥‥。俺は、どうするつもりなんだ?考えても、答えは出なかった。


 そもそも自分で、自分が何を考えているのか、よく分からない。自分で、自分の感情を理解することができない。この感情に、なんと名前を付けるべきなのか。


 俺はそれを考えようとして、やめた。俺の頭がどんな結論を出すのか、分からないからな。


 結論を出すという行為には、その結論に縛られる責任をともなう。それは、時に耐えられない責任となる。


 氷室は、俺の奇妙な心境を知ってか知らずか、ぽつりぽつりと、話し始めた。


「私がいた諜報員の育成所では、もし教官に逆らったり、国の方針に疑問を持ったりしたら、指導室と呼ばれる部屋に連れていかれて、体に傷が残らない程度に拷問される」


 氷室があそこまで恐怖して、あそこまで泣いた理由が、この一言で、分かった。


 今まで、涙一滴すら流すことなく、定期的に襲い掛かる恐怖に耐えることができたのは、氷室の強靭な精神力があるからだろう。


 だが、氷室の話は、これで終わりではなかった。


「それでも抵抗すると、三回程度で拷問は終わり、その生徒は、他の生徒全員に、棒で殴られて、なぶり殺しにされる。もし棒で殴るときに手を抜いたら、手を抜いた生徒も、同じように殺される」


 暴力による洗脳教育だな。俺は、氷室をそこまで追い詰めた敵国の教育機関に怒りを覚えつつ、それでも比較的冷静に、そう判断した。


 確かに、そうやって教育することで、絶対に裏切らない、否、裏切れない、優秀な諜報員が育つことは、確かだ。


 そして、そうやって教育することで、躊躇ためらいなく人を殺せる人間を育てることができるのも、また、事実だ。


 人の道からは、外れているが。だが、戦場に人の道なんてものはない。初めから、人道なんてものは、この世界に存在しないのかもしれない。


 もし、人道というものがあったとしても、それは何の拘束力も持たない、他の有象無象の思想と変わらない。世界にあるのは、弱肉強食の四文字だけだ。


 この先も、それ以外の理は存在し得ないだろう。


「あれが怖くて、もし命令に逆らおうとすると手が震える」


 氷室は最後に、小さな声で、そうつぶやいた。実際、氷室の手は、小さく震えている。


 つまり、『俺を殺せ』という命令に逆らおうとしたのか。俺には、到底とうてい想像できないような、痛みと恐怖に耐えてまで。


 俺はそのことに、嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な感情を抱いた。まるで炎のような感情だ。


 くすぶっている今も、いつ燃え上がってもおかしくない、あやうさを秘めている。


 その感情の正体は分からない。だが、たとえ、その感情の正体が何であっても、もしその感情が俺を殺すとしても、俺は、その感情を大事にしたいと、思った。


 だが、任務は遂行せねばなるまい。俺は、心に浮かんだすべての感情を振り切って、氷室の肩から手を放すと、立ち上がった。


 俺は、氷室に背を向けて、数歩歩いて、窓際に転がっている狙撃銃を拾うと、氷室の方を振り返った。


「頼む、俺の狙撃を手伝ってくれ」


 俺は、心の底から頼んだ。もし可能なら、今後も、氷室と共に戦いたい。俺は、戦場の香りが好きだった。


 俺の声に氷室は、怯えたような顔になった。


「守って、くれる?」


 氷室らしくない、弱々しい、それでいて、小さな力強さがある声だ。


「もちろん。絶対に」


 俺は、そう断言した。断言することができた。戦場では、お互い様というのが基本だ。守り、守られ、そうやって兵士は生きている。


 氷室は、少し笑顔になった。ほっとしたような笑顔だ。兵士は自国を守る以前に、人の笑顔を守るために戦っている。俺は、彼女の笑顔を守れただろうか。


 俺は、ひんやりとした狙撃銃の銃身に頬を押し付けて、火照った顔を少し強引に冷やした。任務に集中せねば。


 俺は窓枠を銃座代わりに狙撃銃を構え、氷室は、地面に落ちた光学機器を拾って、それを構える。


 光学機器はフィールドスコープも兼ねている。だが、氷室の場合、かなりの長距離でも、裸眼で見ることが出来る。


 昔、戦場で光学機器が破損した時、氷室は、自分の五感を使って、その場のデータを、光学機器に勝るとも劣らないほど、詳細に確認したことがある。


 その時の俺の弾丸は、もちろん、しっかりと命中した。


 そう考えると、氷室並の天才が、俺程度の狙撃手を暗殺するために派遣される敵国の体制は、狂っていると思う。


 ただ、その狂った敵国のおかげで、俺は氷室と出会えた。そこだけは、敵国に感謝することができる。


「距離10,34㎞。風向南西、風速3。標的速度、52㎞/h程度」


 俺は、先ほど行った、氷室との計算を思い出す。それと同時に、氷室と共に戦った数年間の出来事が、走馬灯のように脳裏を走った。


 俺は、随分ずいぶんと長い時間そうしていた気がするが、本当は、一秒にも満たない、刹那の出来事できごとだったのだろう。


 俺が氷室の方を見ると、氷室は、力強く頷いた。俺は、指に力を籠めると、一呼吸置いて、今度は、一切の躊躇なく引き金を引いた。


 銃弾は地球の自転の影響や、風の影響、湿気の影響など、様々な物に影響されて、それでも、俺と氷室の鼻った銃弾は、計算通りに進んだ。


 敵司令官ターゲットの指揮を執る艦橋の窓ガラスを、水晶クリスタルのように粉砕し、銃弾は、敵司令官の頭に、直撃した。


 敵兵ターゲットは倒れ、敵旗艦の艦橋に、鮮やかな唐紅からくれないの血花を咲かせた。


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