氷室

第27話

「どうし・・・」


 俺には、最後まで言い切る時間すら、与えられなかった。なぜなら、氷室が地面を蹴って、一気に距離を詰めてきたからだ。


 氷室はライフルを持ち直すと、俺に銃口ではなくて、銃床を突き出した。


 氷室は、その銃床を、無表情のまま、振り上げた。氷柱つららのように鋭く、氷のように澄んだ殺意。それは、ある種の美しさすら感じさせる。


「くっ!」


 俺は、その殺意の強さに恐怖を覚え、ほとんど脊髄反射で、後ろに跳ねた。


 紙一重のところを、硬い銃床が、風を切る音を重く立てて、振り下ろされた。思わず、息を吞む。


 もし、あれで殴られていたら、肩の骨など、脆い硝子ガラス細工のように砕けていただろう。


 その殺意は、とても冗談とは思えないものだった。それに氷室は、こんな悪趣味な冗談をやるほど、無粋ではない。氷室の戦争は、俺とは違った方面で芸術的だ。


 氷室は、銃床を振り下ろした姿勢で残身した。その姿勢は、まるで、冬の早朝のように澄み切っていて、細氷さいひょうのように、きらめいている。


 まるで、冬そのものだ。澄んでいて、白銀にきらめいていて、言葉を失ってしまうほど、美しい。そして、とても冷たい。


 氷室は、わが軍を裏切ったらしい。何故なぜかは分からないし、どれだけ知りたいと願おうとも、それが叶うことはないだろう。


何故なら、俺は氷室に手加減できるほど強くないし、氷室は、俺に手加減するつもりはないようだ。即ち、どちらかが死ぬまで、殺し合いは終わらない。


死者に質問をすることなど、不可能だ。もう、俺と氷室が言葉を交わすこともない。


 俺は、咄嗟とっさに狙撃銃を構えて、氷室の鼻頭びとうに照準を合わせた。ここに弾丸を食らうと、脳幹を破壊されて、即死する。


 氷室を殺せる、またとない機会だ。氷室の戦闘能力は、隙が無い。俺は、その守りの抜け穴を、奇跡的につかむことができた。


 今まで、氷室と共に長い間を過ごし、訓練では刃を合わせ、戦場では背中を預け合った。だからこそ、俺は今、氷室の頭に照準を合わせることができた。


 俺は、素早く引金トリガーに指をかけた。これで、いつでも撃てる。もしこの瞬間に、俺が躊躇ためらわず引き金を引けば、俺は氷室に勝つことができるだろう。


 そんな俺の心境を知ってか知らずか、氷室は、突然ライフルを投げ捨てて、丸腰になった。


 そのまま、姿勢を下げて、格闘技の構えを作る。どうやら、殴り合いで勝敗を決するつもりらしい。


 確かに、この距離なら、狙撃銃より格闘技の方が有利かもしれない。もし俺の狙撃銃が獲物を定めていなければ、確実に、格闘技を選んだ氷室が勝つだろう。


そもそも、狙撃銃は、白兵戦に不便だ。


 だが、氷室の姿勢に、一つ疑問がある。腰に付けたナイフを使えば、間違いなく氷室が有利になるはずだ。至近戦闘に切り替えたのなら、ナイフを抜かないのは不自然だ。


だが、氷室は、何故なぜかそれを抜いていない。


 それに、この近さなら、ライフルを投げ捨てずに、俺に狙いを定めていれば、多分、小回りの利かない狙撃銃より、ライフルの方が有利だった。


 つまり氷室には、あえて素手で戦う理由がないのだ。それでも氷室は、素手で戦うことを選んだ。


 その理由を、ぜひ聞きたいところだ。それを知れば、俺も、氷室の領域に近づけるだろう。だが、それを聞くことは、どうやら無理なようだ。


 俺の狙撃銃は、すでに狙いを定めている。後は、引き金を引くだけだ。引き金さえ引ければ、俺は氷室に勝てる‥‥‥。


 そう。引き金さえ引ければ、俺は氷室に勝てるのだ。俺は、自分の指を動かそうと、力を入れた。指が動かない。違う。動かせないんだ。


 いつもなら、恐ろしいほど、抵抗なく引ける引き金が、今日に限って、引けない。整備不良で引き金が動かないわけではない。俺の指が、全く動かないのだ。


 つまり、俺は、この重要なタイミングで、氷室裏切り者を殺すことを、躊躇ってしまったのだ。


 だが、躊躇ったとは言っても、多分、時間にすれば零コンマ以下。だが、白兵戦では、それ零コンマ以下が命取りになる。


 あれだけの訓練を積んでも、あれだけの修羅場を潜り抜けても、それでも、引けない引き金があるのか。俺は、狙撃手としての自分の力量に疑問を持った。


 だが、この引き金を引けるようになりたいとは、ついに思わなかった。


 氷室は俺の懐に入り込むと、俺の手ごと狙撃銃を蹴り上げた。俺の狙撃銃は空を舞って、音を立てて地面に落ちた。手に、鈍い痛みが走る。


 氷室は、俺の手を蹴り上げた足で、さらに一歩踏み込むと、拳を作った。それを、残像が見えるほどの速さで突き出す。空気が震え、唸るような低い音を立てた。


 あれも、もし腹に食らえば、意識を失いかねない。意識を失えば、俺は無抵抗で殺されることになる。


 氷室の拳が俺の腹に入る前に、俺は地面を蹴って、後ろに回避した。さっきから、氷室の攻撃を回避してばかりだ。


 このまま避けるだけだったら、いつかは、けきれなくなって、負ける。素手の攻撃なら、即死はしないだろうが、むしろ、そっちの方が怖い。


 もっとも、氷室と俺が殺し合って、俺が勝てる確率など、一滴たりとも無かった。氷室と戦い始めた時点で、俺の死は決まったようなものだ。


 さっき、俺が氷室の鼻頭に照準を合わせた時。


あの時、狙撃銃の引き金トリガーを引けるか、引けないかが、俺の生き残る道を選べる、最後の選択だったのかもしれない。


 そして、その俺が生き残る選択を、俺は選ぶことができなかった。好きに嘲笑あざわらうといい。だが、俺はそこで引き金を引かなかったことを、後悔していない。


 着地の隙をつくように突き刺してきた氷室の拳を、俺は首をひねって躱した。直後に、俺を襲った足払いを、跳躍して回避する。


 そのまま畳みかけるように襲い掛かってきた氷室の攻撃を、俺はうっかり受けないよう、細心の注意を払いながら、すべて躱した。


 うっかり氷室の打撃を体で受け止めれば、その衝撃を殺しきれずに骨が折れる。


 だが、そんな無理がある回避行動にも、とうとう限界が来た。俺は、畳みかけるように襲ってきた拳を回避するのに精一杯で、氷室の足払いを回避することができなかった。


 直撃ではない。少し、靴底に掠っただけだ。だが、その衝撃で、俺の体の軸を、大きな振動が襲う。


 俺は、その振動に体の軸を揺らされて、バランスを崩した。


「うわっ!」


 何とか持ちこたえようとしたが、氷室が、この大きな隙を逃さないはずがない。


 氷室は、俺の首に手をかけると、そのまま地面を蹴って、数メートル移動した。壁に、俺の首を押し付ける。


 俺は首に走った衝撃で、声にならない悲鳴を上げた。氷室は、指で俺の頸動脈を圧迫している。


 俺は手足を動かして抵抗しようとしたが、それは無意味であることを思い出して、やめた。そんなことをしたって、氷室には勝てない。


 そもそも、氷室と一対一サシで殺り合って、俺が、まだ生きていること自体、奇跡なのだ。


 その奇跡も、もうすぐ終わる。


 息が苦しい。視界がぼやける。足が数センチほど地面から離れているせいで、バランスが取れない。


足が地面にふれていないことで、得体のしれない恐怖を感じる。


 一瞬、もう死ぬしかないな。という考えが浮かんで、すぐに消えた。あきらめることだけは、絶対に嫌だ。それは、俺の兵士としての、最後の誇りプライドなのかもしれない。


 諦めようが、諦めまいが、氷室に勝つことなど不可能だ。そもそも、実力が違いすぎる。氷室の方が何枚も上手だ。そんなことは分かっている。


 だが、それでも足掻こうと、生きようとするのが、人間という生き物の、数少ない長所なのではないだろうか?


 可能なら、得意な狙撃で殺したい。だが、狙撃銃は今、床に転がっている。拾いに行くことなど不可能だ。


 ならば。俺はナイフに手をのばした。ナイフの柄には、今まで何度も手をかけてきた。だが、実際に人の血肉を吸わせるのは、初めてだ。


 こんな無粋な方法で人を殺すなんて、俺の主義に反する。だが、これしか方法がない。弱者に、攻撃の手を選ぶ権利など、ない。


 氷室は顔を伏せている。表情は全く読めない。何のつもりなんだ?まあ、どうでもいいか。俺はナイフの柄に手をかけた。


 ナイフを抜き放つはずだった俺の手が、空を切った。


 そこに、ナイフはなかった。俺の手は三回ほど空を切って、中身の入っていないナイフのさやに触れた。


 いつの間に!俺は、ぼやける目で必死にナイフを探す。ナイフは、すぐに見つかった。


 氷室の細い指が、ナイフの刃を挟むように持っていた。氷室は、うつむいた顔を上げて、ナイフを放り投げる。氷室と目が合った。


氷室は、純粋に俺を出し抜いたことを喜ぶような、それでいて、俺を裏切ったことを悔やむような、不思議な表情をしていた。


 俺は、氷室の顔を睨みつけてやろうかと思ったが、こうなってしまえば、どんなに抵抗しても意味がないことに気付いて、やめた。


 どうすればいいのか分からなくて、俺は途方に暮れた。だが、その瞬間、俺の頭に、一つの疑問が浮かんできた。


 何故、氷室は俺をナイフで殺さなかったのか。ナイフで殺せば、氷室は、今頃、すでにこのビルを離れることができていただろう。


 それに、使えるものを使わないなんて、効率的に物事を判断する氷室らしくない。この疑問の答えに、自分の助かる道があるような、そんな気がした。


「なぜ……ナイフでッ………止めを‥‥‥‥‥刺さないんだ?」


 俺は、最後の力をひねり出して聞いた。ただの言葉だ。何の意味も持たない。氷室に対する拘束力も持っていない。答えたくないなら、無視すればいい。


 それなのに、突然、氷室が虚を突かれたような表情になった。俺の首を強く絞めていた手が、だらんと離れた。氷室は数歩、後ろによろめいた。


 俺の足は突然、地面の存在を確認した。氷室が手を離したせいで、俺の体が落下したのか。


 大した距離ではないから、いつもなら着地できただろう。だが、今の俺は、酸欠状態で、体に力が入らず、まともに立っていられないほど消耗していた。


俺は着地の衝撃を殺せず、背中で壁をこすりながら座り込んだ。


 この隙をついて逃げるという手もあるが、さっきまで、全身の細胞が酸欠状態だったせいか、体には全く力が入らない。


今、攻撃されたら、俺は助からないだろう。だが、氷室に俺を殺す意思は、もう無さそうだった。


 もし、這って逃げたとしても、すぐに捕らえられるだろう。それに、さっきの質問の答えも、聞きたい。


「殺せない・・・」


 氷室は、俺を悲しそうな目で見下ろしながら、ポツンと言葉を落とした。それを聞いた瞬間、俺は氷室の思いを悟った。


 結局は俺と同じだ。今まで共に戦ってきた相手は、どれだけ訓練しても、どれだけ学んでも、殺せないのだ。


「なぜ、ここに来た?」


 俺は氷室に聞いた。今は、感情も何もかもを殴り捨てて、理性だけで、氷室から情報を得るべきだ。


 俺が助かるために。そして、氷室を助けるためにも。


 氷室は、俺の質問に、少しだけ戸惑うように沈黙すると、意を決したような表情で、答えてくれた。


「蒼を‥暗殺するため。私の国では‥‥将来、優秀な兵士になり、自軍を苦しめることになる人物を、軍学校と戦場で絞り込んで、暗殺者アサシンを送る。


 しばらく共に戦わせて、完全に信頼されたか、今すぐ殺す必要がある時に、後ろからナイフで殺す」


 なかなか卑怯ひきょうだな。と思ったが、口には出さなかった。


 じゃあ、氷室は、ターゲットを殺せない失敗作ということか。とも思ったが、それも、もちろん、口には出さなかった。


 それに、氷室が、俺を殺さなかった、否、殺せなかったことが、おれは、何故か嬉しい。


 何だろう?どんな戦場よりも緊張しているのに、とても嬉しい。心臓の拍動がテンポを失い、理性を保つのが難しいのに、狂気とは違う。


 だが、ここで理性を崩せば、氷室を助けることも、俺の死を回避することもできない。俺は、冷静に話の続きを促した。


「私は、孤児だった。我が国の諜報部隊は、基本、まず、孤児院から運動能力や反射神経に優れた孤児を手に入れて、その人が存在していた証拠、つまり、戸籍を処分して、それから訓練を始める」


 なるほど。確かに、諜報にしろ暗殺にしろ、存在していた証拠が全くない方が、やりやすいのは確かだ。実際、我が国の工作員には、戸籍がない。


 万が一、敵に捕まったり、死体を調べられたりしても、自国とのつながりが一切無ければ、その工作員を切り捨てるだけで済む。


 家族がある人の場合、現実世界からその人を抹消するのは至難の業だ。なら、身寄りのない人間を使った方が、都合がいい。


「訓練は、まず語学やマナー。心理学や戦闘技術、プログラムやハッキングみたいな諜報活動に必要な知識。そして、祖国に‥‥‥」


 氷室が震えだした。いつもポーカーフェイスの氷室に似合わず、本気で何かを怖がっているようだ。身を守ろうとするかのように、自分を抱きしめて、震えている。


 奥歯を強くんで、必死に湧き上がる恐怖を押さえつけているようだ。呼吸が苦しそうだ。一体、どんな訓練を行ったんだ?


 氷室は大きく深呼吸をした。そして、とても苦しそうに、その苦しみに必死で耐えながら、言葉を紡ぎ始めた。


「絶対に‥‥‥‥逆らわ‥‥‥‥ないように‥‥‥する」


 よく聞き取れない。氷室は、湧き上がる恐怖を前にして、自分の心を制御することが、できなくなってしまったようだ。


 だが、冷や汗をかいて、目を見開いている氷室の様子を見れば、どれだけ苦しい目にあったかは、俺にでも分かる。


 俺は体力が戻ってきた足で、ゆっくりと立ち上がった。そのまま歩いて、地面に転がっているナイフを拾った。俺は、一瞬迷って、結局、ナイフを鞘に納めた。


 あそこまで怖がっている、かつて命を預け合った仲間を、無常に殺すなんてことは、俺にできない。俺は、そこまで強い兵士ではない。


 その代わりに、俺は氷室の前に立った。今の氷室からは、いつもの冬のような空気は一切感じ取れない。今の氷室は、ただの人間だ。


 一瞬ためらって、でも、そのまま何もしないでいることは、どうしてもできなくて、俺は、氷室の後ろに回り込むと、震えている思いのほか小さい肩を支えた。


 氷室は、俺が近づいても、恐怖に震えているだけだった。自分のナイフに手をのばすことも、俺の首を絞めることもしない。


 そして、肩を支えた俺を振り払うことも、しなかった。


 なんて声をかければいい?どう声をかければいい?どうやって言葉を紡げばいいのか、俺には、全く分からない。だが、


「僕は弱い。けれど、俺の銃弾の届く範囲に氷室がいる限り、絶対に守ることができる。だから、怖がらなくてもいい」


 だが、何も言わないよりは、何かを言った方がいい。そんな気がした。そして、言うべきことは、否、言いたいことは、心から溢れてくる。


 氷室は、足から力が抜けるように崩れ落ちると、突然、せきを切ったように泣き出した。


 俺は、もう何も言わなかった。氷室が何を思っているのか、氷室の受けた苦痛を知らない俺には、絶対に分からないだろう。


 だが、それでも、一歩でも近いところで、氷室の苦しみに寄り添うことができれば、それに越したことはないだろう。


 俺は、そう思って、恐怖でこわばった氷室の肩を、ポンポンと優しく叩いた。

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