第15話
動かすたびに痛みが走る足を酷使して、転ばないように、踏みしめるように歩いていく。氷室が、痛みに耐えかねて小さく
むしろ、ほとんど声を上げない氷室が特例だ。特殊な訓練を経験したのか、生まれつきなのかは分からないが、氷室は、本当に兵士に向いていると思う。
ドアを開ける慣れた動作ですら、辛いものに感じる。部屋から出て、廊下を百歩ほど歩いたところで、体力の限界が迫っているのを肌で感じた。
冷たい夜風に体温を奪われる上に、出血も重なって寒い。脂汗がにじみ出てくる。息が苦しい。
体力の消耗が原因か、氷室の足取りが徐々に弱々しくなってきた。それに伴い、どんどん俺に体重をかけてくる。
急所は外れているから大丈夫かと思っていたが、どうやら、間違っていたようだ。
出血も多いし、傷口の痛みはそれだけで体力を消耗させる。早く衛生兵のところに行かないと、氷室が死ぬことになる。俺も死ぬことになる。
なんだか戦闘服が濡れてきたと思ったら、氷室の傷口を覆う、迷彩柄の戦闘服になじむ、
傷口がまた開いてきたんだ。おそらく、体を動かしたからだろう。俺の肩をつかむ氷室の手から、力が抜けているのが分かる。俺はその手をしっかり握った。
これで、氷室が全身の力を抜いても俺が支えているから倒れることはない。
だが、階段を降りるとなると、氷室も怪我をしている足を動かさないといけない。それは流石に無理だ。この調子だと、階段に着くころには全ての体力を消耗しきってしまうだろう。
体力を完全に消耗した氷室を、階段を降りるときだけ、俺が背負うという手もあったが、俺の
階段の中間ぐらいまでなら何とかなるかもしれない。だが、それをやってしまうと俺の足が再起不能になる。
エレベーターもあるけど、安全装置はとうに壊れているだろうし、そもそもエレベーターの装置がもう動かない。
つまり、このビルから出ることはできない。窓から飛び降りれば別だが、この高さから飛び降りたらほぼ確実に死ぬ。自殺行為だ。
『決死の覚悟で戦う』のは基本だが、『決死の覚悟』と、『実際に死ぬ』のとは、全く違う。
つまり俺らは、味方に出会える可能性を少しでも上げるために、室内にこもらず歩いているだけなのだ。当然、敵に鉢合わせる可能性も上がる。ハイリスク、ローリターンな作戦だ。
だが俺らは今、下手をすれば窓から飛び降りるために窓枠を超えることすらできないほど消耗していた。
そんな状態で敵に遭遇すれば、抵抗することはおろか、逃げることもできないだろう。つまり、ほぼ間違いなく死ぬ。
敵に出会ったうえでもし俺らが生き残れるとすれば、奇跡的に敵が引き金を引くのを
狙撃手はまともな扱いを受けないかもしれないが、スポッターである氷室なら、普通の兵士だと言い張り、国際条約に基づいた扱いを受けることができる……かもしれない。
俺はそんな弱気なことを考えながら、廊下の角をゆっくりと曲がる。その時、俺は油断していた。
怪我のことで手一杯で、敵が出てくる可能性を考慮していなかった。否。考えてはいたが、結果的に敵が出てきたとき、どう対応するか全く思いついていなかった。
まあ、降伏するとかそういうことは考えていたが、突然、目の前に敵が現れることまで、頭が回らなかった。
その上、市街戦の基礎っ中の基礎である、前後左右に銃を向けていつ敵兵が出てきても対応するという事すら、行っていなかった。
そもそも、この怪我で、そんなことができるのかは疑問だが、市街戦で銃を構えずに歩くのは、ビルから飛び降りる以上の自殺行為と言っても過言ではないだろう。
ほとんど直角の曲がり角の向こう。俺らは、誰かとぶつかった。
俺らは衝撃でふらつくように後ずさる。転ばなかったのは、不幸中の幸いだ。俺は、相手が味方であることを祈って顔を上げた。
そこには、明らかに我が軍の装備ではないライフル銃を持った敵兵が一名、少し驚いたような表情で立っていた。
両者、判断に迷って二秒硬直。先に銃口を構えたのは、長時間にわたって続いている戦闘で疲労しているとはいえ、ほとんど無傷の敵兵だった。
俺は痛む足を必死に動かして、氷室を
「痛ッ」
俺は反射的に体をくの字に折る。そのまま、崩れた体育座りのような姿勢で、腰から地面に叩きつけられた。
俺がそんな間抜けなことをしている間に、氷室は空中で体を捻って銃弾を回避して、そのまま床に転がった。
いったん体勢を崩したが最後、次に俺に向けて飛んでくる銃弾をよけることはできない。
ナイフを抜いて敵に白兵戦を挑んでも、ほぼ確実に負けるし、第一、脛の痛みのせいで素早く立ち上がれそうにない。
弾丸なら絶対に外さない。だが、今、銃は
兵士の銃口が俺に向けられた。これはもう、どうにもできない。俺の人生、これで終わったな。
まあ、たくさんの兵士を屠った俺にしては、脳に銃弾一発で即死だなんて、
それに、この若い敵兵が俺を撃ち殺す隙に、氷室は投降するなりして助かるかもしれない。それだけは、良かったといえるだろう。
そう思ったその時、床に転がっていた氷室が、その姿勢のまま発砲した。敵兵が自分に向けられた銃口に気付いたときには、すでに遅かった。
銃口が紅蓮に燃えて、銃弾が飛び出した。兵士の心臓にはリズミカルに三つ穴が空いた。氷室は、三点バースト射撃に設定していたらしい。
敵兵はゴボッと血を吐いた。構えていた銃が力の抜けた手から離れて、床に落ちてカシャンと音を立てた。
兵士は、そのままうつぶせに倒れる。ひび割れた床に鮮やかな鮮血広がっていく。間違いなく、死んだな。
俺は座ったまま、敵兵の瞳孔が開くのを確認した。
氷室は銃口を、
戦いの場で緊張状態になると、血管が収縮して血が体の端まで巡らなくなる。そうすることで傷口から出血しにくくなり、その上、痛みを感じにくくなる。
だから氷室はあれだけの怪我を負いながらも、あそこまで軽やかに動けたのだろう。
だが、それにしては氷室の動きが早すぎる。根性論でかなり無理しているんじゃないだろうか?
根性があるのは悪いことではないが、何事にも限度というものがある。根性も同じだ。ないと困るが、ありすぎると死ぬ。
戦闘服を着た氷室に、窓から差し込んだ朝日が重なった。ようやく夜明けか。
朝日を受けて、氷室の銀髪がサラサラと輝いた。
一瞬、まるで自分自身が氷室に銃口を突き付けられているかのような、それでいて支えられているような、緊張と安心が同時に訪れるような、何とも言えない感覚に
氷室が俺の方を澄んだ瞳で見た。どうしたんだろう?氷室は数秒間固まっていると、何かを思い出したように、いつも通りの無機質な声で「立たないの?」と聞いた。
「あ?…ああ」
この場には倒れている人が二人いるが、まさか死体に行ったわけではあるまい。俺はゆっくりと立ち上がる。まだ、足の痛みがジーンと響く。
「痛ッ」
俺は脛を押さえてうずくまった。朝日を見て気が緩んだのか、急に傷口が痛くなってきた。
「大丈夫?」
氷室がそう言いながら俺に近づいてきてかがむと、指先でそっと傷口にふれた。じわっと痛みが広がる。少し呻いた。
「包帯の巻き方が雑」
氷室が、呆れたような口調で言った。俺は自分の患部を見る。包帯がずれて、傷口がむき出しになっていた。そこから血がふわっと溢れている。通りで、痛いわけだ。
だけど、これ以上氷室の世話になるのは申し訳ない。俺は包帯を上に押し上げて傷口を覆った。
「大丈・・夫」
痛みで噛んでしまった。氷室は、俺の大丈夫じゃない人のする返事に何か言おうとして、口を開きかけ、閉じた。どうしたんだろう?
氷室が突然、フラッとバランスを崩した。
「やっぱり無理してたのかよ!」
俺は慌てて飛び上がって顔色の悪い氷室を支えた。
無理し過ぎて、ふらついて転んで負傷したなんて、どうやったって笑えない。
だが俺の足も、全く大丈夫じゃなかった。氷室の体重が少し腕にのった瞬間、俺の脛には激痛が走った。
痛みで脛に力が入らない。そのままバランスを崩し、俺は氷室と一緒に床に倒れた。背中を勢いよく床にぶつけた。
「いっ」
思わず悲鳴を上げそうになったが、ぎりぎりで噛み殺した。
足は痛いが、進んだ方がいいだろう。
俺は立ち上がろうと、足に力を入れた。そのまま氷室に肩を貸しながら立ち上がろうと試みる。今度は前に転んだ。あれ?立てない?
少し転がって氷室から離れると、今度は壁に体重をかけながら何とか立ち上がる。よし。ひとまず立ち上がることはできた。
そのまま氷室の方へ向かおうとして足を持ち上げたとたん、突然足から力が抜けて、また転んだ。なんで立てないんだ?
流石に、体を動かす限界が来たのかな。だが、動かせないとまずい。もし敵に見つかれば、捕虜か、交戦、否。この状態では戦闘にならない。虐殺だ。
クッソ。俺が自分の行動を罵りそうになった瞬間、ドーンと、遠くから何かが爆発する音がした。コンクリートが地面とぶつかる破砕音も聞こえてくる。
さらに同じ音が続く。何だ?
「ミサイル・・ビル・・・逃げな・・」
氷室が何か言っている。だが、全身に相当な痛みが走っているのか、かなり途切れていて、意味が分からない。どうしたんだろう?爆撃でも始まったのかもしれない。
それならビルの中にいた方が安全だ。氷室も俺に何かを訴える必要なんてない。
突然シューとミサイルが飛ぶ音が聞こえた。直後、すさまじい爆発音がしてビルが大きく揺れる。俺らは、元から転んでいたおかげで震動の影響はあまり受けなかった。何だ?何が起こったんだ。
床が傾く。まさか、ビルの土台がミサイルを食らったのか?もしそうだとすると、ここに留まるのは危険だ。
ビルごと地面に叩きつけられて転落死するか、コンクリートに押し潰されて圧死するか。
どっちになるかは知らないし知りようもないが、どっちにしても、こっちが何か行動を起こさないと死ぬことに変わりはない。
俺は倒れている氷室を左手で抱えると、地面に直撃する面から少しでも離れるために傾く床を登り始めた。上から紙やら
俺たちのすぐ横数センチのところをボロボロのコピー機が落下しながら通り過ぎていく。
もし当たったら、ほぼ間違いなく死んでいた。だが、その恐怖で止まってしまえば、確実に死ぬ。俺は火事場の馬鹿力で体を無理やり動かして、床の亀裂に足と手をかけて上っていく。
ビルはゆっくりと倒れながら崩壊しているので、床にはどんどんと深い亀裂が入っていく。細かい亀裂がつながって、大きな亀裂になる。俺はそこに手をかけた。
ビルの崩壊が進んでいることを告げている亀裂のおかげで、足場だけには困らない。
だが、怪我した状態で、しかも片手に氷室を抱えて、九十度に近くなっている壁を上るのは、たとえ足場がたくさんあっても、無謀だ。
壁、今は床だが、に手をかけて、そこに体を滑り込ませる。ここまでくれば大丈夫だろう。俺はかなり緊張しながら、そう自分に言い聞かせた。
ただ単純に、これ以上壁を登るリスクを踏みたくなかっただけなのかもしれない。だけど、これ以上の苦痛に耐える精神力を、俺は持ち合わせていなかった。
その瞬間、世界が瓦礫と化して吹き飛ばされた。ビルが地面に直撃したらしい。俺が何かを考えるよりも早く、俺と氷室も、様々な種類の瓦礫と一緒に吹き飛ばされた。
同時に、体力の限界を迎えた俺の意識も乱暴に途切れた。
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